城郭探訪

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山脇古城山城 近江国(彦根)

2014年05月06日 | 平山城

別 名:石寺城

所在地:彦根市稲里町山脇・石寺町   map:http://yahoo.jp/e96wPH

現 状:山林・荒神山ハイキングコース

遺 構:石垣・曲輪・土塁・竪堀・堀切・土橋・大土橋

標 高:190m  比高差:100m:60m(稲村神社から)

区 分:山城

築城者:佐々木氏六角又は浅井氏

訪城日:2014.5.6

 

 

 山脇古城山城は、荒神山のほぼ中心にある荒神山城(荒神山神社)と同じ山塊にあり、そこから南西側へピーク1つを越えた所にある。

 荒神山は山全体がハキングコースとなっていて、しっかりとした道がついている。城跡には荒神山裏の南西側の車道から登って、中腹にある稲里神社の駐車。社務所の西側のハイキングコースを山尾根に向かって登る。

 神社からしばらく登ると、主郭のちょうど中間あたりに出丸がある。縄張は尾根づたいに長く、山の最西端から荒神山神社のすぐ下の駐車場の近くまで達しているので、上から下って行くことも可能だ。

 

 城域は、荒神山の最西端のピークから始まり、そこには後世のものなのか綺麗に石垣が残っている。そこから主郭までには尾根を削平したいびつな幾つかの曲輪が連立し、北側斜面には風化してはっきりしないが10数個の竪堀が要所に確認できる。特に主郭のピークに達する寸前には天然の絶壁があり、その斜面に2本の大きな竪堀と、石垣の残石らしき遺構が存在する。

 

主郭付近は小ぶりな4つの曲輪が堀切って分かれ、土塁で防備を固めている。また、主郭付近から2ヶ所、北に向かって階段上の腰曲輪がのびる。最も圧巻なのは、城跡東方最後の谷にある遺構で、廻りを堀り切っているのか、道自体を土盛りしているのか、長い道が続いている。高さは3~4m、長さ40~50mにも。

これを「大きな土橋」のようだ。自然の尾根道には見えない。これが城遺構なのか?、これが城遺構であれば貴重なものだ。

 

 

 

荒神山とその周辺-歴史 曽根沼・旧愛知川の流路

荒神山の山魂の琵琶湖側(北側)は曽根沼と称して大湿地・沼であった、したがって城構えは南及び西向け

下は、16世紀頃の旧愛知川

以前、約96haあった水面は、昭和36年から始められた干拓により約20haにまで減少しました。干拓地の標高は82.7mで琵琶湖の平均水位より1.8m低いため、中央部に排水路が設けられ、その北側に排水機が設置されています。
 東大寺正倉院所蔵の麻布の絵図のひとつには、現在の曽根沼がある所に荘園が描かれています。つまり当時(751年)は低地ながらも陸地だったと考えられます。しかし荒神山の山陰にあたり、宇曽川や愛知川の堆積がもっともおよびにくい部分であるため、やがて沈水して内湖になったと考えられます。

 かつての 愛知川本流は、そのまま北して彦富町から湖岸薩摩へと刻んでいました。流路が変更のは比較的新 し く、 16 世紀頃と推定されており、大規模な洪水が原因だったのでしょう。

歴  史

信長の近江侵攻に際し、愛知・犬上の一揆衆が信長に対抗するために築いた砦ではないかと云われているが、定かではない。

山脇古城山城(遠景)・・・北東の北町城周辺より

中腹の稲村神社

由緒

社傳によると、天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされている。平流庄十三ヶ字の産土神であり、天正年間兵火にかかり、後現在の大平山の地に遷座された。

村上天皇の御代、正一位を授けられ神領八十余町を寄進された。また承久の乱には後鳥羽上皇の祈願もあったと伝う。なお社傳によると近江守護職佐々木家より太刀一振り奉納あり、佐々木承禎は境内樹竹の伐採を禁止する制札を寄せた。また彦根藩主は当社保護のため、種々の制令を寄せたと伝えられている。

りご本殿

本殿は、現在のものは寛正五年八月の建築のものである。

 社名は、往昔、稲村大明神、あるいは大社稲村大明神とも称したが、明治九年稲村神社と改称し、村社に列した。明治十四年郷社に昇格し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。明治四十一年郷内の無格社二十社を合祀奉斎した。なお春祭には、氏子より大太鼓九基の渡御がある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

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九居瀬城 近江国(神崎郡・永源寺)

2014年05月06日 | 平山城

 九居瀬城二の郭(最頂部487m)で訪城記念撮影

別名 久居瀬城

所在地:東近江市永源寺九居瀬町 map:http://yahoo.jp/9Cc_E6
   旧:神崎郡永源寺町

目標地点:永源寺ダム

形式:山城  

標 高:487m 比高差:200m 

現 状:山林

遺 構:郭・石垣・堀切・竪堀

築城期:室町期

築城者:小倉氏

永源寺ダム公園の観音像から主郭:30分

訪城日:2014.5.4

 

南西…出丸・副郭北東峰…主郭滋賀県中世城郭調査より

白の観音像・・・上に主郭部(487m)下流部(発電所)永源寺ダム・・・遠望に「日本コバ」

観音像の後のハキングコースを登ります(ジクザグ急坂)

 炭窯のようですが、石積の立派なここから50m登ると南北の尾根に至ります。北尾根に!…ここから城域です

南へ…北郭の出丸へ

北の出丸この出丸から八風街道・ダム湖、対岸の鈴鹿の山々が一望。

出丸の石垣跡

戻り更に頂部へ

北郭

北に登ります西側の土塁471m北尾根頂部=見張り櫓カこの手前を⇒右へ少し下る!左にダム湖の上流部

郭の石垣

主郭手前の石垣

石垣と確認できる石垣と確認できる

主要部は尾根を右手方向に少し下り、比高50mほど登ると城跡です。尾根を左に行くとすぐに支尾根があり、ここは出丸的な存在であったようです。さらに尾根を下りて行くと鉄塔が立っていますが、この鞍部も堀切の遺構かもね。さて、主要部ですが、最後の登りを登りきると大石が散乱しています。斜面には僅かですが石垣も残存していて驚きです。

二の丸の石垣この先は東側尾根は、さらに大きな石垣が散見、郭跡。

三角点487m訪城記念撮影

 二の郭まで登る道も崩落はしていますが、なんとなく石段のような感じです。主要部は二の郭と主郭があり、南側に腰郭が三日月状にあり、さらに、南斜面に2段ほどの段郭があります。この南側にも大石が散乱していて、主郭・二の郭の斜面は石垣が巡っていたと想像します。二の郭と主郭、主郭と東側尾根に浅い堀切があり。

この城、出丸と合わせて馬蹄形の城郭と言えなくはないですが、土塁は殆どなく、主郭・二の郭も、詰め城・監視の城。石垣は孕みと500年をへて、相当に崩壊してます。石垣と確認できる物も。

 

下山です北峰頂部より、永源寺ダム・日本コバ

北峰の尾根坂でダム湖碑と日本コバ

第岸の相谷城・・・(遠望、ダムより)

歴 史
小倉城に発した小倉氏の系統です。小倉氏は室町中期に分裂し、南家は小倉氏中興の祖である小倉実澄が有名で、宗家として佐久良城を本拠としました。東家が小倉城にあり、西家が山上城を本拠とし、和南城、九居瀬城などを支城として築きました。西家は小倉実治、小倉左近大夫という名が史料にあるようです。戦国期に入り、小倉氏一族は宗家を中心とした連合的形から各家が対立していったようです。永禄七年(1564年)頃、左近大夫が兵を挙げ、小倉一族が内紛となり、小倉城十七代の良秀が破れ離散し、宗家が乱を鎮圧したものの小倉氏は急速に力を失ったようで、この頃に九居瀬城も廃城になったと思われます。

 識盧の滝 小倉実澄の塔小倉実澄の供養塔

この格調高い名を持つ滝は、文武両道にすぐれた武将小倉実澄が建てた庵にその名が由来。実澄は、応仁の乱によって荒れ果てた京都の相国寺の学僧をむかえ、永源寺の地に庵を設けた。その庵の名前が「識盧庵」であり、近くに落ちる滝を識盧の滝と名付けたそう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

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山辺神社・赤人寺 近江国

2014年05月06日 | 遺蹟

山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。山部足島の子とする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。

ファイル:Yamabe no Akahito.jpg山部赤人像/ 蜷川式胤 所蔵品山部赤人(百人一首より)

山部神社・・・滋賀県東近江市下麻生町 map:http://yahoo.jp/NgfcK5

山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺

滋賀県東近江市下麻生町には山部赤人を祀る山部神社と山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺がある

参考資料:Wikipedia

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