城郭探訪

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一円屋敷 近江多賀

2014年05月26日 | 居城

 

              

一圓屋敷・多賀「里の駅」

一圓家は江戸時代の庄屋で、屋敷は安政4年(1857)に建てられたとされ、平成20年に所有者の一圓六郎氏よりNPO法人彦根景観フォーラムに譲渡された。現在は同団体と、地元住民らで組織の多賀クラブとが結成した団体「多賀『里の駅』」が地元の町おこしの拠点として活用している。敷地1,678㎡、建物面積が約560㎡。3つの蔵がある。

一圓家年表

寛文 1661年 初代 高重 江戸時代はじめに初代(1672年没)
    2代 高義 杢太夫(もくだゆう)を世襲(1705年没)
正徳 1711年 3代 高次(友之助)(1758年没)
宝暦 1751年

4代 秀綱(弥惣八)(1795年没)

寛政 1789年 5代 秀経 (杢太夫)(1793年没)
享和 1801年 6代 秀成 (弥惣八)(1808年没)
文化 1804年 7代 秀房 (杢太夫)「庄屋」の初見(1829年没)
天保 1830年

8代 有秀 (杢太夫)「庄屋」の初見(1881年没)
安政4年1月、現在の場所で屋敷の普請開始。5月11日、井伊直弼の領内巡見。 

明治 1868年 9代 秀延 (弥太郎)(1891年没)
   

10代 秀褒 (杢太夫)
明治14年生、26才で郡会議員。その後、大正期まで行政委員を歴任。 醒井村より国会議員であった江龍清雄(えりゅうすがお)の二女が嫁入り。明治政府の重鎮であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)との交流。東久世は一圓屋敷1階次の間に掲げられた扁額「対山軒」の筆者。明治24年、屋敷は茅葺きから瓦葺きへ。2階の増築。明治34年~40年頃、日本画家の内海吉堂(うつみきちどう)が滞在し、衝立や戸棚などに絵を描く。

昭和 1926年 11代 菊太郎 
    12代 六郎 現当主 

伊勢と多賀のつながり
 実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。

伊勢と多賀のつながりが見えた。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」

と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
 そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。

   

一圓氏

一圓 但馬守 (いちえん たじまのかみ、生没年不詳)

は、戦国時代の武将。宇多源氏京極氏支流であり、始めは土佐一条氏の家臣として後に長宗我部氏に仕える。

初代は一圓氏直。父は一圓隼人、弟に一圓帰部。官位は但馬守。一円とも名乗る。安芸羽根城城主。

 生涯

一圓氏は滋賀県犬上郡多賀町一円より派生した京極氏の一統であり、一条氏が応仁の乱で土佐に一圓氏直が付き添い共に下向した。長宗我部氏の史料である一宮興人夫割張に但馬守の名前がのっており、土佐一条氏滅亡後には長宗我部氏に仕え、安芸羽根城城主として働いた。

弟の一圓帰部は長宗我部氏滅亡後に浪人したが、長宗我部盛親が大坂の役にて参戦することに至ると、これに参戦し盛親と共に戦うも敗戦し、その後は阿波へと逃亡した。

一圓氏はその後土佐で帰農し、直系の子孫は高知県田野町一円に、滋賀県の宗家である一圓氏は現在も犬上郡一円に在住しており、彦根藩の庄屋として生き残り明治維新後には地元で石炭の卸売り業を営んでいる。

また、高知の一族には高知市初代市長となり、後の高知商業の前身となる簡易商業学校の設立にも携わった一圓正興がいる。

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甲賀武士団の城

2014年05月26日 | 戦国山城


 甲賀武士の生立ちから。

長享元年(1487)、足利将軍:義尚による近江守護:六角高頼の追討において、六角氏は甲賀に拠り、甲賀武士団(甲賀忍者)が将軍勢を敗走させている。

この結果、甲賀武士が甲賀の領主となって六角勢の中核となり、甲賀五十三家と呼ばれるまでに至った

特筆すべきは、「惣中」という自治組織を取入れ、甲賀共和国を造り上げていたことである。城については、村を見渡せる高所や交通要所に小さな城を多数造り、ネットワーク化して安全確保を図っていた。

しかしながら、織田信長の軍事力には敵わず、大半が焼き討ちにあっている。

更に、秀吉の雑賀攻めに反抗したため、甲賀郡惣中は解体されてしまった。

  さて、永禄11年(1568)、六角承禎は織田信長の上洛を阻めず、観音寺城も落とされて三雲氏を頼っている。元亀元年(1570)~天正2年(1574)にかけて、承禎は織田勢に追われ又も望月氏を頼っている。この望月氏の拠点が望月城ではないかと推測されている。

 

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