城郭探訪

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安孫子北城 近江国(愛知群)

2014年05月10日 | 館跡

 

所在地:愛知郡愛荘町安孫子 西出  map:http://yahoo.jp/j3LAG6                                                                                   (旧愛知郡秦荘町)

遺 構:石碑、土塁

区 分:平城

築城者:安孫子氏

築城期:平安期

訪城日;2014.5.9

安孫子城は、滋賀県中世城郭分布調査では南北2城あったとされ、南北城ともに約100m四方の単郭であった。往時の岩倉川は北城の150m北側から西側に直角に屈曲して流れていたとされる。

 これは湖東地方の国人領主によく見られる手法で、比較的大きな河川を外堀として改良したものと見られる。河川を外堀とし南北城を持っているのは、近くの島川城と性質が類似している。

 北城は「西出の大門」
 

歴 史

安孫子城は、平安末期に開発領主として土着した安孫子氏が領主制を展開し築城したとされる。安孫子氏は『今昔物語集』で著名な矢取地蔵の門前を守護していた。

西出集落に残された土塁の名残り

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


下ノ郷城 近江国(甲良)

2014年05月10日 | 平城

神社裏の土塁・堀(水路)

  土塁が残る竹藪

お城のデータ

所在地:犬上郡甲良町下之郷 
目 標:桂城神社

区 分:平城  
現 状:神社・宅地・田畑

遺 構:土塁、類似碑 
築城期:平安期

築城者:坂田河内守康高 

城 主:坂田氏・多賀氏
訪城日:2014.5.9

お城の概要

桂城(カツラギ)神社

御祭神少彦名命
〔配祀神〕国常立命 仁徳天皇 宇多天皇 敦實親王 左大辨成公

御神紋 隅立て四ツ目

御由緒
  社伝によると後冷泉院治暦三年、佐々木兵部大輔義経之臣犬上大和之介政誠が建立し土産神として祀ったのがはじまりで、甲良三郷の総社として崇敬が篤い。明治9年には村社に列し、更に同14年に郷社に加列した。
 ※佐々木 義経(ささき のりつね、長保2年(1000) - 天喜6年(1058))は、平安時代後期の武将。宇多源氏の一族。前名は章経(あきつね)。源成頼の長男。子に経方。左馬頭、蔵人頭。

 本殿・境内建物

 〔本殿〕三間社流造 間口二間三尺 奥行二間 〔拝殿〕入母屋造 間口三間三尺 奥行三間

境内社(摂社・末社)  火鎮神社 五十告神社

四つ目結いの紋 

桂城神社には四つ目結いの紋があり、この辺りは六角氏と京極氏との国境になった地域だけに、いろんな曰く因縁が。

 集落各所に石碑があり、堀跡などを表記しています。集落中心部に土塁の痕跡がありますが、土塁は殆ど消滅し、堀は(埋められ集落路)の名残りの用水路として現役です。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、 「下ノ郷城主 千方全十六応神王子 源氏佐々木末筆 坂田河内守康高

                 同      後方佐々木継其比上坂下坂今ノ上坂ト云 坂田兵部少輔

                 同                        坂田佐渡守

                 同                        多賀豊後守 」とあり

 多賀豊後守の居城とされます。中原氏が近江国愛知郡移り、多賀神社の神官を務めて多賀氏を称しました。

鎌倉幕府の御家人で京極佐々木氏に従い、室町中期には犬上郡を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠とする多賀氏とがあり、前者は豊後守を称し、後者は出雲守を称しました。若宮氏と並んで京極氏屈指の有力被官でありました。応仁の乱では、守護京極持清は東軍に、守護代の多賀高忠とともに奮戦しました。

 しかし、近江では西軍六角氏が優勢で、多賀昌宗は六角氏に付きました。高忠・昌宗の両多賀氏は争いましたが、文明十三年(1481年)に、幕府の仲介で両者は和睦します。しかしながら、京極高清と多賀昌宗が実権を握り、高忠は近江に戻れなくなってしまいました。高忠の曽孫貞澄の子の貞能のときに明智氏・豊臣氏と従いましたが、貞能の養子の秀種は関ヶ原で西軍に与し改易されました。

 

四つ目結いの紋

   

  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、江州佐々木南北諸氏帳

本日も訪問、ありがとうございました。感謝


キドラ谷砦 近江国(彦根)

2014年05月10日 | 

廃棄場の受付で訪問記録を記帳の上、駐車をお願いする。無名の砦跡で情報入手は無理。 

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/LHuz-r

区 分:山城

遺 構:堀切、土橋、竪堀、土塁

築城期:

築城者:

城 主:

城 域:150m×100m

廃 城:兵糧攻めに合い戦国時代に打ち滅ぼされて、城主初め討死した。

標高:340m  比高差200m

目 標:中山廃棄場

訪城日:2014.5.9

受付のすぐ北手に職員が作ったという山へ向かう階段が設けられていて、そこから登城するが、これは中途半端にすぐ途絶え、関西電力の鉄塔のためであろうわずかなけもの道を登る。道は最初は南から向かっていたが、そのうち西側へ迂回しだし、特に鉄塔付近はあまりの急勾配で何度もすべり落ちそうになる。そしてようやく現れたのは北側の大堀切から伸びる竪堀だった。

関電鉄塔管理用階段があった! 

ヤナガ谷砦(遠景)にも、関電鉄塔管理用階段があった!

東側は自然の谷西側は大堀切を見ながら旧坂を尾根へ

尾根に至る

尾根道を南西へ出丸の様である

北の主郭へ

鉄塔手前を東へ直登した(道なし、危険)

キドラ谷砦とヤナガ谷砦の位置関係

キドラ谷砦:::滋賀県中世城郭分布調査より)

 お城の概要

 キドラ谷砦は中山道の番場宿から鳥居本へ抜ける間道を眼下に押さえる通称 城山(標高340m)の山頂付近に築かれている。

 キドラ谷に建てられた中山投棄所の北側、関西電力の高圧線鉄塔の保全用につくられた道から山中に入る。尾根に出ると尾根道がある。この尾根道を20分ほど登るとキドラ谷砦の直下に至る。

 山頂の主曲輪を中心に南北に曲輪を連ね、西側のキドラ谷側には犬走りとともに階段状に6~7段の曲輪を配している。東側斜面は急斜面のためか曲輪がない。

 山形、および曲輪配置から、大手は南側若しくは西側(キドラ谷側)と考えられる。搦手の北側は規模の大きな堀切を入れて、尾根を断ち切り土橋を入れている。

 キドラ砦の北方には菖蒲嶽砦、地頭山城、および太尾山城などが位置するが、見通すことはできない。一方、南側には佐和山が真正面に見える。

 キドラ谷砦周辺には、菖蒲嶽砦、地頭山城、太尾山城などの山城が点在するがキドラ谷砦の遺構は、それら山城とは一線を画する規模と普請がなされている。
 このキドラ谷砦の位置づけを考えるに、番場~鳥居本間の間道を押さえるだけであれば、比高200mを越える高所に城砦を築く必要はなく、高所に築かれているがゆえに南方約2kmの佐和山城との関係を強く意識させる。

 佐和山との間には摺峠針からの山並みが続いており、キドラ谷砦は佐和山城を攻めるためではなく、佐和山城の支城として築かれた可能性が高い。
 また、キドラ谷を挟んで対峙するような位置に築かれているヤナガ谷砦との関連も考えられる。

歴  史

 地元自治連合会発刊の「ふるさと鳥居本」には、「キドラ谷に城があり、難攻不落の名城であったが、兵糧攻めに合い戦国時代に打ち滅ぼされて、城主初め討死した」と伝えられており、そのためか8月16日に山の頂上に上るとお姫様が現れる…という言い伝えがある。

これは、谷を挟んで南側のヤナガ谷砦との間に、戦いがあったと考えられるが、ヤナガ谷の城主「草山内膳」の名が伝わるのに対して、キドラ谷の城主の名は不明である。

 その戦いでキドラ谷砦側は、東西に長い単調な縄張のヤナガ谷砦側に敗れてしまったのだが、キドラ谷砦は要害すぎず逃げ道まで奪われたのでは。

荒神山城・佐和山城・彦根城の一望菖蒲嶽城も一望

大堀切

キドラ遺跡・・・・廃棄場は平成8年に施工されたまだ新しいもので、もともとこの土地がキドラ谷と呼ばれる田園であったようである。施工時の発掘調査で、谷からは奈良時代の遺跡が発掘され、場内にもその案内板が建っているが、砦跡とは関わりがない。

キドラ谷砦(遠景・・・最高部)駐車場完備

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 


吉田城 近江国(豊郷)

2014年05月10日 | 

愛知神社の南側の通りを東へ向かった所に高い煙突が建つ酒蔵があり、そこの駐車場に吉田城址の石碑が建っている。

所在地:滋賀県犬上郡豊郷町吉田

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:吉田氏(佐々木秀義の六男厳秀)

城 主:京極在宗、辻与兵衛

遺 構:なし

訪城日2014.5.9

吉田城は岩倉川と宇曽川の合流地点に築城され、2本の川を堀と見立てた地形である。 岡村酒造の駐車場の片隅に吉田城の碑が建てられている。岡村酒造の西側は「堀端」と呼ばれ、以前は幅3~4mほどの堀と土塁があったというが、今では消失している。

現地説明碑

佐々木源氏の一流、佐々木秀義の六男巖秀(いわひで)はこの地封邑を得て吉田氏を称した。

兄、四朗高綱は、寿永三年(1184年)かの宇治川の合戦せ名馬 生呟「いけつき」を駆って先陣を争った武将である。

吉田城は岩倉川と子増川を自然の外濠として、その水を引いて内濠をめぐらして築城されたようである。

現在はその内濠の大半埋められて僅かしか残されていないうえ、城は元亀二年(1571)の宇曽川の戦いで織田信長の馬蹄に踏みにじられ焼き討ちにあって、あとかたもなく焼きつくされてしまった。築城時の史記はおろか、落城の伝承は何一つ残されていない。

吉田氏は、子々孫々この地に地頭(ぢとう)として生きのびたが巖秀の九世孫の徳春(とくはる)の代に京都嵯峨へ退陰して角倉(すみくら)の始祖となる。

江戸時代の豪商角倉了以(りょうい)は、その子孫である。

歴 史

岡村酒造の酒蔵が並ぶ一角「城屋敷」吉田は鎌倉時代より佐々木秀義の子の吉田巌秀が地頭となって、村名が生まれたと伝えられます。また室町中期の足利時代、吉田は朝廷と関係のあった、吉田弾正という人が居城していたといわれ、そのためか吉田は朝廷の米の預かり所になっていたと伝わります。

吉田城城跡碑約500年前、時の将軍足利義尚が近江国守護佐々木六角と戦ったとき、吉田城主の源四郎は、足利に味方して一番勇ましく戦った愛知武士でした。江戸の井伊藩時代にはいると、井伊家臣の辻与兵衛になり、辻家の先祖は吉田氏と思われます。今の岡村酒造の酒蔵が並ぶ一角が「城屋敷」といわれ、城跡碑が建てられています。

吉田氏によって築かれたと云われる。 吉田氏は佐々木秀義の六男厳秀が吉田氏を名乗った事に始まるという。

現在の岡村酒蔵付近を中心に約120m四方の 規模であったとされる。

滋賀県中世城郭分布調査より

 

**「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

――――「江州佐々木南北諸氏帳」に

 吉田住 佐々木与力   辻 与兵衛・清水光野 とあり

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城主は京極在宗、辻与兵衛の名があげられているが、詳細は不明。

近江の佐々木家は

 宇多天皇を祖とする源氏の一族で、「宇多源氏」とも「近江源氏」とも呼ばれています。宇多天皇の皇子敦実親王の子「雅信」が936年に臣籍降下して源の姓を賜り、雅信の子「扶義」が近江守となって現地へ赴任することになります。扶義は近江国に一定の権威を持つようになり、扶義の子「成頼」はその権威を利用して佐々木荘に土着します。成頼→義経→経方に至って武士となり、「佐々木」を名乗ったと言われています。また、経方→季定→秀義に至り、秀義の6男「巌秀」が近江吉田の地頭職となり、吉田城に居住します。この系初代巌秀の子孫は代々「吉田」を名乗り、室町時代末には吉田出雲守重賢が登場します。従って、主家である佐々木家と吉田家は遠縁でありますが、宇田源氏の流れをくむ同族であったわけです。吉田家は佐々木家の中でも有力な武将であり、旗頭を務めています。

Image「愛知(えち)神社」    滋賀県犬上郡豊郷町吉田1177

  開化天皇の子孫、恵知王によって創建された神社です。

平安時代の初め惟喬親王が難を逃れて近江に来られた時、ここで病気になりました

  ここで病気が快復するために神社に御染筆の祈願札と刀剣一口を献上したと伝わります。また、鎌倉時代になると近江守護の佐々木秀義の六男吉田巌秀が吉田城主となりました。その時、神のおつげで弓術の奥義を授かり、佐々木氏も武神として敬いました。その後、室町時代にはいると戦乱のため焼失しましたが、近くの正覚寺の復興と同時に再建されました。明治以前は春日神社と呼ばれていましたが後、愛知神社に改められました。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、豊郷町HP、江州佐々木南北諸氏帳

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!