甲賀武士の生立ちから。
長享元年(1487)、足利将軍:義尚による近江守護:六角高頼の追討において、六角氏は甲賀に拠り、甲賀武士団(甲賀忍者)が将軍勢を敗走させている。
この結果、甲賀武士が甲賀の領主となって六角勢の中核となり、甲賀五十三家と呼ばれるまでに至った。
特筆すべきは、「惣中」という自治組織を取入れ、甲賀共和国を造り上げていたことである。城については、村を見渡せる高所や交通要所に小さな城を多数造り、ネットワーク化して安全確保を図っていた。
しかしながら、織田信長の軍事力には敵わず、大半が焼き討ちにあっている。
更に、秀吉の雑賀攻めに反抗したため、甲賀郡惣中は解体されてしまった。
さて、永禄11年(1568)、六角承禎は織田信長の上洛を阻めず、観音寺城も落とされて三雲氏を頼っている。元亀元年(1570)~天正2年(1574)にかけて、承禎は織田勢に追われ又も望月氏を頼っている。この望月氏の拠点が望月城ではないかと推測されている。
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