城郭探訪

yamaziro

嶬峨(ぎが)西城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月04日 | 平山城

別 名:嶬峨山城

所在地:甲賀市水口町嶬峨 map:http://yahoo.jp/TmYmfE

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:山城

築城者:儀俄越前守

築城期:室町期

目標地:八坂神社、千光寺

訪請日:2014.5.3

歴  史

 嶬峨城・嶬峨山城は、室町時代に儀俄越前守築かれた。嶬峨城は儀俄氏の居城である。儀俄氏は、蒲生氏の分流権五郎俊光を祖とし、元久元年に観学院領儀俄庄の下司となり、儀俄氏となった。

 長享元年(1487)には、儀俄越前守は鈎の陣で戦功をたてたことにより、甲賀五十三家に数えられるようになった。永禄十一年(1568)に主家である観音寺城六角氏が信長に滅ぼされると、蒲生氏が信長の配下に属したために儀俄氏も安堵となるが、のちの天正十三年(1585)に、甲賀破儀の為に城を没収となり、滅亡していった。

『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照

 儀俄氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、有力土豪であった。 

嶬峨集落の南東、滋賀ゴルフクラブの敷地の南側を丘陵の千光寺や八坂神社を目指す。
 

嵯峨集落から1km程に南の丘陵に、嶬峨西城と嶬峨城がある一帯(滋賀ゴルフアクセス路)は嵯峨城・山屋敷・備後城、そして江戸時代の堀田外記の陣屋」などもあるようです。遺構に遭遇できる。
 稲荷神社への石段をあがると堀田外記の名が彫られた碑がある。

その奥に踏み込み、10メートルほど行きますと堀切が現れる。目の前には土塁が視界をさえぎり、高さ3メートルほどの土塁の上にあがるとようやく全貌が解る。土塁が同じ高さを維持したまま郭全体を囲んでいる。そして外側には掘跡まで確認できる。見事な状態!

 城跡は単郭なので、南側には土塁が途切れていますが城門跡らしいです。郭内こそ木々が邪魔して視界がよくありませんが、郭に下りてみますと周囲を囲む土塁に圧倒されるが、往時は堅牢な城郭!

               

千光寺 滋賀県甲賀市水口町嵯峨1613

天平21年(749)僧行基の開基、左大臣橘諸兄の造営という。
 天正(1573-1592)の織田信長によって、兵火で全て焼失、正保2年(1645)現地に移転。その後再度の焼失と再建を経て、明治11年に本堂が再建される。
 古は塔頭に西住院始め、備前福寿など10坊があり、甲賀郡六大寺の一つに数えられる巨刹であった。

 千光寺 本堂と川枯寺の石柱 

   

八坂神社 水口町嶬峨に鎮座。
野洲川を渡って南へ進むと池があるが、その池のそばに境内。南へ行くと滋賀ゴルフ場(石川遼が初優勝した)がある。
近くに千光寺がある。水口町嶬峨には同名の八坂神社という小社があるのだが、こちらの方が大きくて有名なので間違うことはないと思う。

池の脇の参道を進むと鳥居があり、そばに「神輿御陵」と書かれた塚のようなものがあった。昔の神輿を埋めているのだろうか。

『滋賀県神社誌』には、境内社が三社記されており、天神社・熊野神社・川枯社とあるが『平成祭データ』には、天神社と熊野神社の二社のみが記され
熊野神社祭神の中に川枯姫命の名がある。ということは、本殿左手の境内社は、正式には熊野神社であり川枯社が合祀されているのだろう。

『式内社調査報告』によると、天神社と熊野神社は、明治七年、千光寺境内から移されたとあり、熊野神社に本殿の川枯姫命を分祀したのかもしれない。ということで、式内社・川枯神社の後継社は、本殿左の境内社なのだろう。

川枯姫命とは、饒速日命の孫・彦湯支命の妃で、出石心命の母神。出石心命の子は大水口宿禰で、水口町開拓の祖。

   千光寺              

参道 嶬峨西城(遠景・千光寺の背後)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!