城郭探訪

yamaziro

菖蒲嶽城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 平山城

中山道の摺峠針の東、中山町への分岐点付近から山中に入り、尾根筋を北へ登ると約20分ほどで尾根が分岐するピークに着く。

菖蒲岳城は2つの城域で構成されており、このピークから東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。

赤・・・登城ルート!「登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない」。緑・・・下山ルート(時刻も17:00、疲れたので南北城の間の林道を旧中山道~登城口~車へ)

 菖蒲岳城は中山道が番場から摺峠針へ抜ける街道沿いにあり、眼下に街道を押さえる標高260m~290mの山上に築かれている。

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/2Ehqjf

築城者:今井定清(尺夜叉)=六角方

築城期:天文13年(1544)か

初城主:今井定清

区 分:山城

遺 構:土塁、堀切、土橋、堅堀

訪城日:2014.5.10

お城の概要

南城http://yahoo.jp/c4-wTK

 南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。

北城:http://yahoo.jp/w3yFOv

お城の概要

北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。

 菖蒲岳城から北方には太尾山城、地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。


 

お城の歴史

天文13年(1544)に今井定清、六角方ろして築城『島記録』

 菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。

-------------- 以下、嶋記録(天文13年(1544)6月27日)
今井本領案堵望之事
 去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや

--------------ココマデ
 上記嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応したものとして注目される。


 また、同じく嶋記録に以下の記述がある。
-------------- 以下、嶋記録
箕浦帰参之事
覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也

--------------ココマデ
 天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していたことを嶋記録は伝えている。

「近江国坂田郡飯村嶋記録」には、「須田めし取之事」の記述に「浅妻よりすり針山さして打越、菖蒲か嶽今井が取出へ案内を申せけり」とか、「箕浦帰参之事」の覚えに「吉田安芸守スリハリ菖蒲か嶽ニ居住ト申候也」ともある。

南城の三角点

北城へ(大きく下って・大きく登るが登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない)

北城へ

三角点主郭に東側へⅤに縦堀が

土塁に囲まれた郭土塁

北の出丸かhttp://yahoo.jp/_JD2wS

東側に奇岩が

・・・・北の郭したの忍!

林道を古中山道へ:http://yahoo.jp/NzBAwL

 滋賀県中世城郭分布調査によると、「中仙道沿いに小さな祠堂があり、そこには山腹から樋で清水が引かれ、この清水の流れ出ている山の頂上に砦跡がある…」と記載があったため、

中仙道古道の祠堂

駐車可スペース5台登城口

中山集落の墓地したにも駐車可3台

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


物生(むし)山城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 戦国山城

 織田信長の佐和山城攻め時の陣城

 お城のデータ

所在地:彦根市宮田町物生山 

現在の状態 :山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・土橋

区 分::山城(砦) 192m

築城期:室町期 浅井氏 改築:戦国期 織田氏

築城者:室町期)浅井氏、戦国期)織田の臣 市橋氏改築

城 主:(戦国期)市橋九郎右衛門

戦  い:元亀元年(1570)  〇織田信長軍 VS  ✖浅井長政

訪城日;2014.5.9

お城の概要

物生山城は、佐和山山塊の北端部に位置し、彦根市宮田町物生山の西背後の山上に築かれている。

頂部に主郭を置き、南東、西、北の三方に伸びる尾根筋に各々数段の郭を配した縄張りとなっている。
主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」=物生山城。

 

 歴  史

ここに城跡があるとの記録は見当たらず、詳細は不明であるが、

信長公記に

元亀元年(1570)姉川合戦で織田信長に敗れた浅井長政方が小谷城と佐和山城に分かれ籠城した際、信長は小谷城に対し秀吉を配し、佐和山城に対しては、鹿垣を結ばせ、東の百々屋敷(丸山城=丹羽砦)に丹羽五郎左衛門、北の山(物生山砦)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山砦)に水野下野、西彦根山(=金亀山か(尾末山)砦に河尻与兵衛を布陣させ、四方より取り詰めさせたとの記録が残る。

信長の佐和山包囲網である。

 信長公記に記された佐和山城の付城である「北の山」が、この物生山城ではなかったかと考えられている。
しかし、建久年間(1190~99)の佐保時綱以来の長い佐和山城の歴史から、佐和山の守備の一点と考える必要も指摘されている。

 物生山城の伝承や記録は無いが、その存在については、
(1)地元領主が築城 (2)佐和山城の出城として築城 (3)織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元庚午)
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月□日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 上記、記述の「北の山」が、この物生山

登城口は山の東麓、宮田町物生山の村落のちょうど真ん中あたりの、墓地群に向かう道を途中で左に迂回したところにある。山道は鉄塔メンテナンス用なのか、比較的整備されていて迷う事はない。麓から山を見上げたら、山頂らしき部分は佐和山主曲輪到達までに合計8ヶ所程度あるが、物生山城域と見られる部分は登り始めた一番最初の高点で、主曲輪部分には現在TVアンテナが建っている。

   全体の形状はT字型をしていて、東西のほぼ直線の中心に主曲輪があり、そこから北に下るように5段に削平されている。遺構の中で一番の見所は、主曲輪から西に向かった所にある3つの堀切でそれぞれに明確な土橋をもつ。

 物生山城から佐和山城にかけては尾根づたいにハイキングコースとなっていて、どこまでが佐和山城域なのか定かではなく、冒険好きなお城ファンにとっては探索しがいのある山々であるが、コースから外れず進むだけでも制覇するには相当な時間を要する。 

物生山城・・・遠望

路上駐車可(位置)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)

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藤堂高虎・父「虎高」の居館 近江国(甲良)

2014年05月11日 | 居館

 下之郷には「殿城」という字名が残っている。

所在地:犬上郡甲良町下之郷 map:http://yahoo.jp/dfSUKN

目 標:下ノ郷農業集会所

区 分:居館

現 状:宅地・空地・畑

遺 構:石材

築城期:戦国期 

築城者:藤堂氏

城 主:藤堂氏

訪城日:2014.5.9

 

下之郷農事集会所の前の空地は、藤堂高虎の父・虎高が居住していたという。

近くには、藤堂高虎が出生したとされる在士館がある。

藤堂虎高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 
藤堂虎高(高虎の父)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正13年(1516年)
死没 慶長4年10月18日(1599年12月5日)
改名 源助(幼名)→虎高
別名 白雲斎(号)
主君 武田信虎→京極高吉→浅井亮政→
久政→長政
氏族 三井家→藤堂氏
父母 父:三井乗綱、養父:藤堂忠高
正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘
娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎
娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、
高清、正高、娘(藤堂高経室)

藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。

生涯

 近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。

若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。

婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男高則は早くに戦没したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲び白雲斎と号した。慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去。享年84。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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