「オレだって、能力は負けていない。もう少し勉強をしていれば、(彼らと)何も変わりない。」と、自分に自信を思っている人にけっこう出会うけれど、私は信用をしない。
その脳裏に浮かべる相手は明確でないことが多いが、どんな人たちであるかはわかる。しかし、私が見る分にその人たちと同等と言うことはない。たいていは明らかに負けている。
そのように思っている人たちの「自負」は、それなりの専門的な知識を蓄え、既にひとかどのことをやっている、と思っていることだ。しかし、内実は二番煎じで「冴え」がない。思考の次元を変えることがないから汎用性がない。私と同様(笑)「一山」を超えてない。というか、決定的にまずいと思うのが、「一山」の存在をそもそも全く知らないと思われることだ。あるいは、無視をするというか。本当のところは広さどころか、深さも空の高さも知らない蛙なのかなぁと申し訳ないが思ってしまう。
というわけで、それは違うでしょ、と思ってしまう。
その脳裏に浮かべる相手は明確でないことが多いが、どんな人たちであるかはわかる。しかし、私が見る分にその人たちと同等と言うことはない。たいていは明らかに負けている。
そのように思っている人たちの「自負」は、それなりの専門的な知識を蓄え、既にひとかどのことをやっている、と思っていることだ。しかし、内実は二番煎じで「冴え」がない。思考の次元を変えることがないから汎用性がない。私と同様(笑)「一山」を超えてない。というか、決定的にまずいと思うのが、「一山」の存在をそもそも全く知らないと思われることだ。あるいは、無視をするというか。本当のところは広さどころか、深さも空の高さも知らない蛙なのかなぁと申し訳ないが思ってしまう。
というわけで、それは違うでしょ、と思ってしまう。
そういえば過去、そんな発言に遭遇した経験もあったように思います。案外と頻繁にだったのかな、あまり最近は耳にしませんが、まったく気にならない発言なので覚えていない可能性があります。一般に「もう少し・・・してさえいれば」といった思考パターンなど、一片の考慮の価値も認められません。無視です。無視してきました。
たとえば、貧乏タクドラの自分のことですが、なんでお前はタクドラやってるんだと問われることも多く、はじめは当惑したものです。このあたりで、ほり先生のお考えとは異なっているかも知れないのですが、その理由は、なるようになったから、です。
「あの瞬間」といった過去における枝分かれポイント、今日につづいた道への切り替えポイントは、いくつもあったでしょう。しかし、そのうちのひとつを選んでたどった自分がいる。頭が悪かったからだと考えますが、そんな自分がいる。
ところが不思議に、上のように発言する人は、「もう少し・・・」しなかった理由として外的要因をあげるのが普通です。家が貧乏、親がなくなった、遊び仲間が悪かった・・・。実際、そういうことも降りかかったでしょう。しかし、そうだったとしても、人は自分の道を行こうとしてしまいます。数学の才能にあふれる者は、あらゆるチャンスを見つけてそんな自分を伸ばそうとしますし、小説を書く才能も何かを発明する才能も作曲の才能もアニメを作る才能も、ほとんど同じです。能力や才能の開花を阻む要因のうち、もっとも大きいものは内的要因、ようするに自分でしょう。
ほり先生のブログを、まだ若い高校生も尋ねることがあるなら、世界中で自分ほど不幸な者はいないはずだと思い悩むことがあったとしても、結局は自分の、自分らしい道を行くことになるはずだと自分を信じて、困難な日常を通り抜けていってもらいたい。タクドラのおじちゃんが、そんなこといってたと記憶の片隅にでも覚えていてほしい(笑)。
>能力や才能の開花を阻む要因のうち、もっとも大きいものは内的要因、ようするに自分でしょう。
そのとおりだと思います。
高校生だと言い訳ばかりしたり。
イマドキの高校生の先生に対しての「自己の意見」や「主張」というものの大部分を、「言い訳」のように感じる今日この頃です。
勉強だけでなくて、日常生活でも。