仏教は、けっこう欲望が深い人を対象にした宗教だろうなぁと思うことがある。たいていの宗教がそうだろうけど、まあ、大昔が貧しかったからだろうけれど、煩悩が多いことを苦にするのも、「欲望がある」という前提があってのことだ。でも、ともすると、社会が豊かになってくると、何も望まなくてもたいていのことは、ちっぽけな自分の思うがままになる。それなりに恵まれている、イマドキの生徒の毎日の生活がそうだ。「あなたは何をしたいの?」と問われて、問われるから彼らに「煩悩」が生じるだけの話で自分は何も考えない。その意味で、今の若い人は、けっこう仏教的な精神を持っているのかなと、真面目な人が聞いたら怒り出しそうなことも思ったりする。この意味で、何も考えない生徒にせっせと煩悩を背負い込ませるのが教員の仕事なのかなぁ。その意味で、煩悩を背負い込むことが「大人になる」ことなのかなと思ったりする。
と書くと、それぞれ生徒は、悩みや苦しみを持っているものだ、と言われそうだ。もちろんその通りである。でも、なーんにも考えていない幸せな子もけっこういるものさ。
と書くと、それぞれ生徒は、悩みや苦しみを持っているものだ、と言われそうだ。もちろんその通りである。でも、なーんにも考えていない幸せな子もけっこういるものさ。
煩悩→欲望→行動→責任ですかね。
同じ「煩悩」でも、良い煩悩と、さほどでない煩悩があるような気がします。
良い煩悩の時、おっしゃるような「行動→責任」の流れが生じるのでしょうね。