考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

その2・きちんと勉強をする意味(ちょっと追記)

2009年10月20日 | 教育
 1+1=2である。誰がやってもそうなる。これを論理という(と思う)。「あいうえお」は、どう読んでも「あいうえお」である。こうした共通認識を得ることが「勉強をする」ということだと思う。だから学校の勉強には「答え」がある。

 思うのは、こうした勉強を続けると、おそらく特定の考え方がその人に根付いてくるのではないかということだ。「考え方」と書いたが、これは、特定の主義主張を意味するのではない。「物事を考える筋道」という考える方法である。ちょうど、数学の証明問題のようなものである。書き方は様々だが、考える筋道は一定である。中学生の時、証明問題をやったとき、私は最初、答えの表現方法の違いが気になった。問題集の答えは、自分の書き方の違う。先生の書き方とも違う。しかし、問題練習を繰り返していくうちに、問題集の答えも自分の答えの表現方法も、意図は同じであることがだんだんわかるようになった。この段階で、私はある思考体系を得たのだと思う。
 私は、こうした思考の筋道の付け方を身に付けることが勉強をする本当の意味ではないかと思う。「あいうえお」は「あいうえお」と読むのも同じである。
 近頃の学力何とかは、知識や問題の解法の習得を問題にする。現実問題として、「評価」という観点で言えば、学力はそれでしか計り得ないのである。しかし、知識や問題の解き方を通して行い、獲得を目指しているのは、正しい思考の筋道をつけるということである。それで、この訓練を積んだ者は、まるで、共通の言葉を獲得するかのような思考の方法を獲得するのだろう。その思考の方法は、おそらく、古の人から現代へと受け継がれるかのように存在し、未来へと続くものだと思う。ニュートン力学は、100年前も現代も、それで、おそらく100年後も同様に解されるということだ。ただ、こういった考える方法を獲得には、「学校の勉強」のようなものを若い頃に嗜み、それなりの訓練を積まなければならないのである。これは、人間が個別に持つ「形質」として遺伝されて伝わるものではない。あくまでも一世代限りのものとして、絶えず、世代世代毎に獲得を目指さなければ決して受け継がれることがない性質を持つ。
 これを獲得することは、人類の遺産たる財産として、過去現在未来へと続く人間特有の「普遍」に繋がる。それで、普遍はさらなる普遍を導くだろう。正しい思考の方法を獲得することで、おそらく人間の思考は独自の新しい道を見つけるということだ。換言すれば、脳に正しい思考の道筋をつければ、脳は、新しい、それこそ一般的には「独創的」と呼ばれる普遍的な真理を見いだす力を新たに獲得するのではないか。過去において人類が積み上げてきた学問は、全てこのように成し遂げられたものではないか。
 畢竟、勉強、学問の意味は真理に至る普遍にある。だから、我々は、2000年以上前の石版を解読し、書物を紐解き、そこにある真実を見いだし、古人と同様に理解する。我々が勉強をするのは、こうした人間特有の「何か」を共有するためであり、かつ、新たなる普遍を見いだして未来への遺産とするためなのだ。これは、勉強をすることがたまたま「喰う」に繋がるかどうかとはまた別の話である。「喰う」だけなら、地球上の生き物が数十億年を通してどこででも行ってきている活動である。ところが人間は、喰うだけに飽き足らなくなった。それが不幸でもあり、幸せでもあるのだろうが、ヒトが人間であるためには、欠くべからざる形質で、人間としての生き方をも変容させるだろう。
 しかし、今の日本では、このような言は戯言としか受け取られないだろう。私が思うのは、たとえ喰らうための勉強であっても、人類特有の何ものかの獲得を意識するのとしないのとで、人の生き方が大きく変わるのではないかということだ。そこに、全ての人間が勉強をする意味があると思う。

これ、買ったら、いくらだ~

2009年10月20日 | 教育
 たぶん、現場の教員しか知らない事実。
 文科省などの配布するパンフレットの類がある。で、これがまた、いつもいつもきれいな紙で、きれいなカラー印刷なのである。
 うん。
 みんなで言ってる。「もったいないよねぇ」
 先日は、新しい学習指導要領が配布された。非常に分厚い。中学高校全ての教科を網羅している。
 これ、いくらかかったのかなぁ。

感覚を敏感に

2009年10月19日 | 教育
 何も芸術とかそんなのではない。
 勉強をするときには、感性豊かに、感覚を鋭敏に保たなければならない。外界を捉えるのは、すべて感覚だからだ。
 音読をしたり、正確に写したり、全部、そう。間違わない、というのは、とても消極的で型にはまって、まあ、あまり良いことを言う人はいないと思う。でも、正確さは、きちんと見たり聞いたりしていないと出来ないことだ。
 勉強ができない生徒は、意外に、この点に関して「横着」なのである。違いに気がつかないまま、次に進もうとしたりする。だいたいで良しとする。こうした基本的な力が不足している。
 「基礎基本」というが、どんなスポーツでも球技などでも何でも、一流の選手の基本的な動作や所作は、初心者の基礎基本とまるっきり異なるだろう。それで、また美しいはずだ。無駄がないからだろう。集中すべきところで、集中するみたいな。力も何もかも。
 猫背の剣士というのは考えられないのと同じではないかなぁ。
 勉強をするにしても同じだろう。文字をしっかりと書く。もちろん、しっかりかくことそのものが目的ではないが、しっかりと書く。
 昔、数学の先生は皆、円を描くのが上手だった。そのように言われていた。黒板であっても、きれいな○を描く。若い数学の先生が言っていた。「そんなことはないですよ。」ちょっと前に試してガッテンでやっていたような気がするが。自分が描く文字は、自分の脳の中の形らしい。(そこまでしか見てない。)だとしたら、○が上手に描けない数学の先生の脳の中の○は○ではないということになりそうだ。脳の中の図形が○でないのに、○についてちゃんと思考できるのだろうか。
 考えるというのは、脳の中のモノを外部に出すことである(と思っている)。だったら、意識無意識に関わらず、脳の中がきちんと整理されていないと、しっかりとした思考もできないのではないか。きちんと整理することこそが、独創性にいたる近道ではないのか。だって、きちんと考えればだれでも思い付くようなことが永遠の真理だったりするからだ。と考えると、きちんと○を描けない数学者の思考は、真に独創的な普遍的な正しさに到達するのだろうか。
 数学は例えとして出しただけだけど、どうなのかな。もちろん、私としては、色々な学問において、同様なことが言えるのではないかと感じている。(これ、文字の話というわけではないよ。)

きちんと勉強をする意味

2009年10月13日 | 教育
 大抵の人は思い当たるだろうが、「勉強をしよう」と思ったときに最初に手がけるのが、机の上および近辺の掃除である。勉強をするには、それに適した環境が必要なのだろう。たぶん、おそらく、勉強そのものは、脳の中の整理整頓だから、人は勉強前に掃除をしたくなるのではないか。脳の配線があっちこっち乱雑な状態であるのを整理する過程が、「勉強をする」という仕事だったり作業だったりするのではないか。
 身の回りに起こる様々な事象はでたらめに生じ、雑然と存在する。「感覚」が捉える世界に同じモノは1つもないから、それらを全て一つ一つ処理しようとしていたのでは大変なエネルギーを要することだろう。しかし、何らかの基準枠に設けて数多くの異なるモノを1つの範疇に納めてしまえば、処理能力にとってかなりの省エネになる。言葉に切る作用があるとは、こういったカテゴリーを作成して手際よくものを扱うためであろう。我々がモノの名前を知れば、それそのもを理解したかのような気分になるのが正にそれである。先生から、「AはBだよ」と言われて、「ああそうか、AはBだ」と鵜呑みにしてわかったつもりになるのも同様だ。

 もうおわかりだろうが、「勉強をする」とは、この情報処理をどこまでスムーズに行うかの鍛錬である。勉強とは、全て、抽象化をする過程、つまり、ある視点を設定することによって、1つとして同じモノがない多様な存在物を「同じ」と捉えることである。この際重要なのは、いかなる視点を取るかということである。どのような視点で何をどのように捉えると、雑多な物事がより良く整理整頓できるかということである。

 こう言われて納得できない方は、抽象化に至るまでの前提条件に引っかかっているのである。抽象化するために必ず行われなければならないのは、外界にある多様な事物を自分自身の感覚に捉えさせることである。この段階で引っかかると抽象化はほど遠くなる。
 我々が勉強をする際、難しいと感じる第一の関門がこれである。「勉強ができない」、「わからない」のは、まず、感覚が渾然一体とした事物を、分割できるモノとして、しかも、それぞれに差異のあるものの集合体として捉えることが出来ないからである。勉強をするという抽象化に至るには、逆説的であるが、手始めにものを分割し、分割されたモノそれぞれについての差異を捉える感覚が優れていなければならないのである。ある物とある物が同じであるとわかるためには、その前提として、ある物とある物が本来異なるモノであることに気がつかなければならない。そうでなければ、ある視点から見て「同じ」「類似物」になることに気がつくことも出来ないということだ。AとBが同じであると判断するには、AとBがそもそもAとBという2つの別物だという前提がないと、「AとBが同じだ」とAとBの2つを認める判断が出来ないということである。これは、「A」と「B」を、ただ漠然とした1つのものと捉えることは全然違う世界の感じ取り方である。視点の定まらない、整理されていない「1つ」、つまりは「混沌」として捉えるだけでは、おそらく人間の脳は「わかった」と思わないのである。

 たぶん、人間の脳は、そのような整理の仕方、捉え方をしている。
 勉強が苦手は生徒が何を難しがるか、自分自身が何が難しかったかを振り返ると、そのように思い至る。それまで自分が意識したことがないものを意識しなければならない苦痛、自分の感覚では漠然としか捉えられず、分割できないとしか捉えられないモノを、目を凝らして見るかのように差異を見つけて分離分割して見なければならない苦労、これら全ては、相当な努力なくしてできないのである。生徒が難渋するのも基本的にはそれなのだ。大変にアタマの良い生徒は、これがすぐにできる。(まあ、相対的な問題でしかないが。)彼らは感覚で詳細に物事を捉え、それらをさらに異なる視点から詳細に分割することで「違い」と「類似点」を見いだす。勉強をするとは、こうした階層性でもってものを捉え、見るということである。

 しかし、ホントは、こんなことを書くつもりでなかった。

 整理することの重要性である。一昨昨日くらいから書きたかった。
 それで、ものの共通点と差異を捉える訓練を積むことによって、おそらく脳は回路が整理される。整理されると、仮に「ものの道理」とでもいうべき「道」が脳の中にはぐくまれるのではないか。大事なのは、これである。
 「論理」とは、誰にとっても同じものである。これが面白い。勉強をすると、論理がはぐくまれる。それは全ての人間にとっての共有事項である。
 で、話はちょっと飛ぶが、真の創造性とは、「ものの道理」にはぐくまれるもので、独自的なものでは決してないだろうということだ。物理の法則でも数学の定理でも、独自性は全くない。誰が考えてもそうしかならないものに軍配が上がる。たぶん、誰の脳にもそのような癖があるのだ。
 それで、勉強をすると、おそらく誰でもが、こうした人類としての共有物を所有することになる。勉強をすることに関していろいろな言説があるが、基本は人類の共有物の所有であろう。これをおいて他に何があるのか。知識だとか生活のための手段の獲得などは、このずっと下位に位置するものであろう。この点で右往左往するのは、真に勉強する意味を取り違えているからだ。それで、真の勉強をすれば、見えてくるものがある。それは、必ず見えてくるものである。それが何かは、勉強をした人だけに見えるもので、その人そのもに直に繋がり、本当のところは言葉を超えているその人そのものになるはずだ。なぜなら抽象化することで、抽象化して得られたモノは再度「感覚」に戻る。それで、感覚とは、その人の身体そのものだからである。


ゴミ・同感♪

2009年10月10日 | 教育
内田先生ブログ
>脳裏に浮かんだ星雲状態のアイディアを「自分に説明する」ために書いているので、主たる読者は私自身である。

ああ、わかる~。
自分で書いてて、自分で読んで、そうだ、そうだ、と思って読む。
ときどき、もう少し、明晰に文章化するとしたら、どうしたらいいかを考えて推敲する。で、すっきりすると、私は嬉しい♪

で、どういうわけか、さほど意識しないのに、かなり明晰な文章が書けているときがある。誰が書いたのかなと思う。「こびとさん」なのかもしれないが、そうでない誰かでないかという気もしてくる。



ちょっと補足

2009年10月09日 | 教育
 この頃のこのブログ記事に勉強の話題が多い。で、ひょっとしたら、ほりは勉強だけの奴だ、と思うかも知れない、というか、リアルワールドで、「けっ、勉強なんてやったって、たいしたことないさ。あのね、人間には、勉強よりももっと大事なことがあるんだよ」と思っている人に限って、「ほりは勉強さえしていればいいと考えている」と思うようである。
 ところが、それが、違うんだよね♪
 じゃあ、何だって言うのかって?
 そんなの、決まってるじゃん。
 「人間とは何か?」だよ。人は誰でも、ふと思ったときには、自分とは何か、人間とは何か、など、生物として生きていく上では全く不必要な、余分なことを考えるものなんだよ。脳味噌には、そう言う癖があるんだよ。

 それを忘れちゃいけない。
 長く生きた人は、若い人に、人間とはそう言うやっかいな存在であることを上手に知らせてやらないといけない、つまりは、上手に思考する方法を身につけさせてやらないと、若い人が自分ひとりで「やっかい」を背負い込むことになる。さぞ荷が重いだろうと思う。
 どうせ「やっかい」は背負い込まなければならないものなのだから、その自覚を与えてやることが、年長者としての責任をひとまず果たすことになると思う。
 思考するとは、脳味噌に道筋、あるいは、道筋の基礎をつけてやることだ。勉強は、そのために格好の道具であり目的なのである。人が勉強で学ぶことは、大抵、過去の人間がこの問いにどのように取り組んできたかという経験なのである。「入試」は、そのごくわずかの上澄みに過ぎないのである。

わからなくてもしようがないこと

2009年10月08日 | 教育
 子供の時、「どうしてそれがいけないのか」「なぜそうなのか」とか、わからないことが多くあった。釈然とせず、大人がずるいと思うこともあった。今となれば、しかたがないことだと思う。

 「わからない」と思った自分の経験で典型的なのが、人と人間の違いだった。小学3年生くらいのとき、人と人間とはどう違うのか、父に問うた。すると父は、「5年生になったらわかる」とだけ教えてくれただけだった。なんだか騙された気がした。しかし、その2,3年後、ちょうど5年生になったとき、私は人と人間の違いがひとりでにわかっている自分に気がついた。
 自分でもなぜ理解できるようになったのかがわからなかったが、とにかく、私はわかったのだった。それで、父に「人と人間の違いがわかった」と言ったことがある。父は「そうか、お前もわかるようになったか。」とか返事してくれた気がする。(にしても、よくもまあ、2人とも、2年も3年も覚えていたものだなぁ。我ながら、ちょっと感心。)

 人と人間の違いがわかったのは、思考の次元が変化したからだ。それで、世の様々なことというのは、思考の次元が変わらないと理解し得ないことが非常に多い。
 ところが、「違いの理解」も何もかも、並列的な知識であると思っている人が多いだろう。「あなたの考えも私の考えも対等である」「AとBのように、並列的に存在しうるものである」と考え勝ちになる。人間そのものの存在は、対等である。身長150cmから180cmの範囲内で、ほぼ同じ大きさ、ゆえに、対等な、並列な存在であると見なされる。歴史的経緯を経て、今は共通事項としてそうなっている。(大昔は、そうではなかった。)しかし、思考には人間そのものとは違った次元の違いがある。これはやむを得ないことである、なぜなら、人の思考は、どうやら階層性を持って物事を捉えるからだ。これには理由がある。人は、「抽象化」ということを脳の中で行うことだ。言語を持つことからそれが知れる。次元の違いは、否定すれば、言語そのものも否定することになるから、次元の違いは否定できないのである。ところが、人間は、思考も、人間の存在と同様、対等で並列的なものだと捉えることがある。おそらく、脳の発達過程が未だ途上にあって、抽象化という仕事が十分になされないことがあるのだろう。簡単に言えば、わかるものはわかるが、わからないことはわからない、ということが頻繁に生じるということである。ちょうど、小学3年の私が人と人間の違いがわからなかったように、しかし、5年生になるとわかったような違いである。3年生の私が5年生の私からいかなる説明を受けても、3年生の私は、ただ「ふ~ん」と思うだけで真の理解に到達することはなかっただろうということだ。こういったことが、他人の間で起こるだけの話である。フェルマーの定理がわかる人がこの世に数人しかいないのも、小学5年生と3年生の私の違いと同じである。

 わかるためにどうしたらいいのか。
 わからなかったら、ちゃんとした勉強をし、思考の次元を高めたり深めたりすることを学ぶことである。(最近、めちゃ、勉強に好意的♪)そうすれば、わかることもあるだろう。それでも、わからないこともあるだろう。「勉強をしてもわからない」のは、きっと、自分のアタマが悪いのである。私がフェルマーの定理がわからないのも、物理がわからないのも、アタマが悪いから、そこまで理解できない、ただ、それだけの話である。
 
 それで、これが別に、「頭の良い人が頭の悪い人をバカにしている」とか、「わからないのは可哀想だ」という話になるのではない。
 そういうものだ、--ただ、それだけの話である。

 人には、それぞれわからないことがある。しかし、自分にわからないことがあることを知っている人と、知らない人のではずいぶんと大きな違いがある。勉強の最大の利点は、しっかり勉強をすると「自分にわからないことがある」ことだけはわかるようになることだ。アインシュタインもニュートンも、結局、「わからないこと」を残したまま死んだ。彼らも間違いなく「わからない」と思って死んだ。「神はサイコロを振らない」は典型であろう。それと同じことである。二人とも、ちゃんと勉強をした偉大な学者である。だからこそ「わからないこと」があったのだ。

 自分の考えと人の考えの次元の違いがわからないのは、きちんと勉強をしてないからである。わかりたかったら、しっかりともう一度、1+1から勉強をし直すと良い。ボタンの掛け違いは、最初からやり直すのが一番早い。

「学力」よりも

2009年10月08日 | 教育
 「入試力」らしい。

 ---ばっかじゃねぇーか。
 
 ついつい語気が荒くなる。
 そんなことを言ってるから、若い人は本当の勉強が何たるかも知らず、まして学力は付かず、ただのゲームのコマのごとく自分を見なし、早く死に至ることになる。
 あまりに可哀想だ。


「個性、自由」と「鬼畜米英」の共通点

2009年10月07日 | 教育
 共に「時代のメジャーな思想」ということ。
 大衆迎合的で、マスコミによる扇動に乗っている。「みんながそうだから」がその考えの根源にあるが、自分では扇動されていることに気がついていない自己の盲目性が共通点として挙げられる。

 あー、私は、ちゃんと勉強をして良かった♪
 試験の点という相対性だけを目的に勉強をしたわけでなく、モノを理解するための勉強をして本当に良かった♪ お陰で点数も能力以上に取れました。

 子供たちは、愚かなオトナにならないように、ただ喰らうための勉強ではない、しっかりとした勉強をしなさい。
 (大学では勉強をしなかったけれど)中学高校と、ちゃんと勉強をした人間の言っていることですから、それなりに信用に値しますよ。
 「若い時にちゃんと勉強をして良かった」と言う大人は稀少です。