考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

きちんと勉強をする意味

2009年10月13日 | 教育
 大抵の人は思い当たるだろうが、「勉強をしよう」と思ったときに最初に手がけるのが、机の上および近辺の掃除である。勉強をするには、それに適した環境が必要なのだろう。たぶん、おそらく、勉強そのものは、脳の中の整理整頓だから、人は勉強前に掃除をしたくなるのではないか。脳の配線があっちこっち乱雑な状態であるのを整理する過程が、「勉強をする」という仕事だったり作業だったりするのではないか。
 身の回りに起こる様々な事象はでたらめに生じ、雑然と存在する。「感覚」が捉える世界に同じモノは1つもないから、それらを全て一つ一つ処理しようとしていたのでは大変なエネルギーを要することだろう。しかし、何らかの基準枠に設けて数多くの異なるモノを1つの範疇に納めてしまえば、処理能力にとってかなりの省エネになる。言葉に切る作用があるとは、こういったカテゴリーを作成して手際よくものを扱うためであろう。我々がモノの名前を知れば、それそのもを理解したかのような気分になるのが正にそれである。先生から、「AはBだよ」と言われて、「ああそうか、AはBだ」と鵜呑みにしてわかったつもりになるのも同様だ。

 もうおわかりだろうが、「勉強をする」とは、この情報処理をどこまでスムーズに行うかの鍛錬である。勉強とは、全て、抽象化をする過程、つまり、ある視点を設定することによって、1つとして同じモノがない多様な存在物を「同じ」と捉えることである。この際重要なのは、いかなる視点を取るかということである。どのような視点で何をどのように捉えると、雑多な物事がより良く整理整頓できるかということである。

 こう言われて納得できない方は、抽象化に至るまでの前提条件に引っかかっているのである。抽象化するために必ず行われなければならないのは、外界にある多様な事物を自分自身の感覚に捉えさせることである。この段階で引っかかると抽象化はほど遠くなる。
 我々が勉強をする際、難しいと感じる第一の関門がこれである。「勉強ができない」、「わからない」のは、まず、感覚が渾然一体とした事物を、分割できるモノとして、しかも、それぞれに差異のあるものの集合体として捉えることが出来ないからである。勉強をするという抽象化に至るには、逆説的であるが、手始めにものを分割し、分割されたモノそれぞれについての差異を捉える感覚が優れていなければならないのである。ある物とある物が同じであるとわかるためには、その前提として、ある物とある物が本来異なるモノであることに気がつかなければならない。そうでなければ、ある視点から見て「同じ」「類似物」になることに気がつくことも出来ないということだ。AとBが同じであると判断するには、AとBがそもそもAとBという2つの別物だという前提がないと、「AとBが同じだ」とAとBの2つを認める判断が出来ないということである。これは、「A」と「B」を、ただ漠然とした1つのものと捉えることは全然違う世界の感じ取り方である。視点の定まらない、整理されていない「1つ」、つまりは「混沌」として捉えるだけでは、おそらく人間の脳は「わかった」と思わないのである。

 たぶん、人間の脳は、そのような整理の仕方、捉え方をしている。
 勉強が苦手は生徒が何を難しがるか、自分自身が何が難しかったかを振り返ると、そのように思い至る。それまで自分が意識したことがないものを意識しなければならない苦痛、自分の感覚では漠然としか捉えられず、分割できないとしか捉えられないモノを、目を凝らして見るかのように差異を見つけて分離分割して見なければならない苦労、これら全ては、相当な努力なくしてできないのである。生徒が難渋するのも基本的にはそれなのだ。大変にアタマの良い生徒は、これがすぐにできる。(まあ、相対的な問題でしかないが。)彼らは感覚で詳細に物事を捉え、それらをさらに異なる視点から詳細に分割することで「違い」と「類似点」を見いだす。勉強をするとは、こうした階層性でもってものを捉え、見るということである。

 しかし、ホントは、こんなことを書くつもりでなかった。

 整理することの重要性である。一昨昨日くらいから書きたかった。
 それで、ものの共通点と差異を捉える訓練を積むことによって、おそらく脳は回路が整理される。整理されると、仮に「ものの道理」とでもいうべき「道」が脳の中にはぐくまれるのではないか。大事なのは、これである。
 「論理」とは、誰にとっても同じものである。これが面白い。勉強をすると、論理がはぐくまれる。それは全ての人間にとっての共有事項である。
 で、話はちょっと飛ぶが、真の創造性とは、「ものの道理」にはぐくまれるもので、独自的なものでは決してないだろうということだ。物理の法則でも数学の定理でも、独自性は全くない。誰が考えてもそうしかならないものに軍配が上がる。たぶん、誰の脳にもそのような癖があるのだ。
 それで、勉強をすると、おそらく誰でもが、こうした人類としての共有物を所有することになる。勉強をすることに関していろいろな言説があるが、基本は人類の共有物の所有であろう。これをおいて他に何があるのか。知識だとか生活のための手段の獲得などは、このずっと下位に位置するものであろう。この点で右往左往するのは、真に勉強する意味を取り違えているからだ。それで、真の勉強をすれば、見えてくるものがある。それは、必ず見えてくるものである。それが何かは、勉強をした人だけに見えるもので、その人そのもに直に繋がり、本当のところは言葉を超えているその人そのものになるはずだ。なぜなら抽象化することで、抽象化して得られたモノは再度「感覚」に戻る。それで、感覚とは、その人の身体そのものだからである。