考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

お釈迦様がうらやましい

2005年05月10日 | 教育
 「縁なき衆生」という言葉がある。
 何かのお話で読んだ。お釈迦様が説法をしようとしたとき、聞く気持ちのない人は帰ってください、とか言ったら、ぞろぞろと大勢が出て行った。しかも、3回くらいお釈迦様はそうおっしゃって、その気のない方は皆さん、ぞろぞろ出て行って、残った人だけを相手にお話を始められた。「縁なき衆生は度し難し」だからだ。

 お釈迦様はいいよなぁとうらやましく思う。

 授業で、私もこう言ってみたいよ。「私の話を聞くつもりのない人は出て行くように。」

 お釈迦様ほどの立派な方でも、「縁なき衆生」とは縁を持とうとしなかったのですから、私のごとき凡人が、なぜ教室にいるどなたともご縁を持たなければならないのかと、ついつい不思議に思います。

 唯一考えられる理由は、今の子供は衆生ではない、ということでしょう。ですから、「出て行け」とも何とも命じることができないのです。
 「衆生」は、それなりに一人前扱いされている存在です。しかし、子供は全く一人前されていないということです。
 しかし、昔は、子供対象であろうと、「やる気がないなら出て行け!」といった強い口調も通じたように思います。
 そう考えると、昔の子供の方が、今の子供より一人前扱いされていたということになります。

 ところで、ただ今、長文したため中。書けたら読んでください。ちょっとまだ時間がかかるけど。 
 

家を売る

2005年05月08日 | 物の見方
 家を売り買いするということを、私は恥ずかしながら大人になってから知った。家は、一度建てたら、あとは代々手入れをして直しながら住むものだと思っていた。

 昔のことだが、アメリカかどこかでは新婚夫婦が二人で住むときは小さいアパートで、子供ができてちょっと大きな家に引っ越し、必要に応じて住み替えていき、最後にまた夫婦二人になったとき、小さい家に移り住む、と読んだ。

 そんなものなのかなぁと思った。自然の状況に合わせて、こういうのを合理的というのだろう。でも、何か、割り切れないものを感じてしまう。

 なぜなら、家は数十年単位で存在するものだという感覚があるからだと思う。そして家とは物理的にも過去を引きずるものであるからだ。

 人間と動物の違いは、意識的な過去を持つか否かだと思っている。人間だけが過去を持つ。過去は、数億年の過去だと思っている。だって、人間は、自分たちが存在する以前のことまで「知っている」んだもの。それが学問だったり、文化だったりするわけだ。それが動物にはない豊かさなのだ。過去はとにかくはまず「大事に考える」べきものである。

 だから、簡単に家を売って欲しくない。壊しても欲しくない。それは過去を失い、文化をないがしろにすることのように思われる。そしてそれが、何か貧しさの表れのような気がするから。(実際、家は金食い虫だから、家の維持は、豊かでなければできないことではある。)

 ・・・・・実はある女性週刊誌(いつの発行かは知らない)の記事を読んで思ったの。記事の真偽はよく知らない。。。

平均値の低下

2005年05月08日 | 教育
 教員と生徒との両方の問題。
 
 不適格教員の問題などが取り沙汰されているらしいが、極端に問題のある人だけが問題にされると、平均値のレベルが下がることに繋がる。
 自分の感覚が判断の中心にもなるが、養老先生や他の(私がまっとうだと思う)人の本を読んでいると、(まあ、養老先生に関しては、教育者としての実践力はあまり信用しないが)「そーだよな、まずいよな」と思われる方は、不適格でなくてもかなりいる(というか、マジョリティーを占める)。それで、逆説的に、そういう先生が「まっとうである」と市民権を得ることに繋がるのが問題だ。
 (注・問題教員を放っておけばいいというつもりではない。それで済むわけではないと言うこと。)

 生徒に関して、底辺の生徒を意識して、「底辺の生徒も大事にする」気持ちで、欠点者を多く出すわけにはいかないから、留年者を多く出すわけにはいかないからという理由で、「授業ではあまり教えず、試験を簡単にする」と、(それは、「生徒の実態に合わせて」が錦の御旗で、)まともな平均的な生徒の学習意欲をそぐ。だって、簡単な試験だったら、必死になって勉強する気がだんだん失せてくるではないか。
 こういった「下を大事にする」配慮?は、生徒の平均値(点数だけを言っているわけではない。)を下げ、卒業後には社会全体のレベルを下げることになるのだ。

 底辺を無視しろと言うつもりはないが、大事なのは、真ん中。大多数を占める真ん中。かつての日本の教育は、社会の動きも関与して、これがかなりうまくいっていたのだろう。だから、ここまで豊かな生活が送れるのだろう。

団塊の世代が退職すると

2005年05月06日 | 教育
 数年したら団塊の世代が退職する。教員に関していうと、この世代が立派な教育をしてきたかどうかは知らない。しかし、その後の教員不足の時代に、新卒者の多くが教員に採用されるだろう。この新卒者は「ゆとり教育世代」である。教育内容の見直しが行われ、過去の教育に近い状態になってくると、新卒者は、自分たちが受けた以上の教育内容を教えなければならないことになる。自分が教員をやっていると、自分の習ったことのない学習内容を教えるのは、イメージがわきにくいので困難を覚えないわけではない。その意味で、新卒者は大変になるだろう。大丈夫なのかなぁ?

受け売りという仕事

2005年05月05日 | 教育
 先日UPした自分の2つの記事を読み返して、思った。

 「学校の先生の仕事じゃないか。」

 言うまでもないことだけれど、学校の先生が教室でしゃべることって、ひたすら「受け売り」なんですよね。独創性は「いかに教えるか」という方法論だけで、内容については受け売りで十分なのです。

 受け売りがいかに上手にできるかがポイントかも知れません。だから、終戦直後、養老先生もおっしゃってる「教科書に墨を塗させる」という行為ができたのでしょう。

 最近だと、ゆとり教育推進が一挙にゆとり教育否定に。同じことなんですよね。

自分の専門家の自分探し

2005年05月04日 | 教育
 ずいぶん前だが、内田先生のブログで、先生がご自身を「自分の専門家である」とかおっしゃっていた。あるとき、肩書きをどうするかで、「フランス現代思想家」とするのに躊躇ったらしい。内田先生の研究はレヴィナス先生中心で、フランス現代思想全般に渡っているわけではないからだそうだ。そんなこんなから、「自分は自分について知りたかったのだ」と内田先生は気づかれたようだった。
 
 不肖ほり、そのとき、我が意を得たりと思いました。

 私も、そして多くの皆さんも、きっとそうではありませんか? 最も興味深いこと、それは、「自分とはなんぞや?」という疑問に他なりますまい。

 かつて、学校の副教材で"Know Yourself"というのを教えたことがある。「学問はすべて自分を知るためである」とかいう内容で、「物理学にしても、たとえば自分がジャンプしたら、自分の体は物理学の公式に従って動く。だから、物理学のように、一見自分と関係がないように思われることでも、広い意味では自分を知ることになるんだよ。」とかいった覚えがある。

 近頃は、「自分探し」なんていう言葉がはやっているが、あれは、本来は「自分を知ろう」だろう。「自分を知る」ことの重要性は昔から言われている。そのために学問があるわけで、だから人間の子供は勉強をする。「自分探し」にしても、「自分の専門家になれ」ということなのだ。いろんなことをやってみて、それなりに深くやってみて、それで初めて、できることとできないことがわかり、そのことが全て「自分を知ること」につながる。

 「自分を探しに行くなんておかしいよ。そこにいるのが君自身に他ならないでしょうに。」という反論もときどき耳にするが、多くの若者はこれでは納得しない。なぜなら、この言葉では、彼らの「自分が何者であるかわからない」という不安がぬぐいきれないからだ。「そこにいるのが君だ」と言われても、彼らは、自分をしかと認識できないのが現状である。それに、「もっとかっこいい自分があっていいはずだ」という漠然とした憧れもある。

 それが「オンリーワン」につながる。これは、「だれでもがイチローになれる幻想」を抱かせる。ある教科書に、世界一周をした10代の若者の話が載っていた。「夢を持てば、だれにでもできることだ。」と。その夢が、実際的な、現実の社会を良好に運営していくのに必要とされることなら、申し分がない。しかし、この例は、あまりにも極端ではないか。だれしもが特別なことをしてスターになれるという誤ったメッセージを若者に伝えてしまいそうだ。学校で教えるべきことは、特に公教育で教えるべきことは、このような「夢」ではないはずだ。「夢を抱け」という編者の「意図」がわからないではないが、あまりに幼稚な企画に思う。実に無責任である。「自分の専門家」「自分を知ること」も、確かに「オンリーワン」に成りうる。しかし、「オンリーワン」をその意味に解釈する人は誰もいないに違いない。
 
 生徒が、「自分が何に向いているのかわからない、何がしたいのかわからない」と言うことがあるが、当然だ。昔の生徒だって、わかってなかった。高々十数年生きてきただけでわかる方がおかしい。ただ、以前は「あなたはこれこれをしなさい。」と親や先生に命じられたり、「そう選択せざるを得ない状況」があって、職業を選択してきただけだ。今の子供は、選択肢がありすぎる不幸かもしれない。

 それに、それで、よほどの天才か何かでない限り、社会的に容認されることで(←ここ、大事ですよね、何だっていいわけではありません。)「僕はこれだ!」なんて確信の持てることはない。また、ふつーの人は、いろんなことがふつーにできるだけで十分なのだ。それで、たとえそうであっても社会のそれなりの期待を担えることがどんなに素晴らしいことであるか、また人生に何らかの意味を見いだせば生きるに足る人生になるだろう。このあたりが公教育で教えるべき「自分が自分の専門家たる」「自分探し」であったり、「オンリーワン」だろう。 

動物的であることと脳化社会の折り合い

2005年05月02日 | 養老孟司
 先日の「世界一受けたい授業」で、養老先生が出ておられた。途中、「おばさんが元気だ。好奇心が強い。決めつけない。同年代のおじさんに比べておばさんは元気だ。」という話があった。で、曰く「おばさんは好奇心が強い。生き物を見ているとだいたいああいう生き方していますよね。」とか何とか、蟻か何かがエサを運んでいる映像が入って、聞きようによってはおばさんを馬鹿にしてるようでもあるけど、実際は全然そういうことはなくって、養老先生は「おばさん」を身体を上手く使いこなして生活する、広ーい意味での「自然」の存在であると考えて発言されているのだ。

 人さまを見ると、うまく生きているか生きていないかは、身体をどう使っているかがやっぱり関わっていると思う。生きていくのが上手な人(←「世渡り上手」というのとはちょっと違って、生き生きと生きているかどうかということね。)は、確かにどこかで身体を動かして、外界に刺激を求め、刺激を受け、うまくバランスを取っている人だ。こういう人は、何かでじっとしていることが続いたりすると、自ずから外界に出向こうとするようだ。「こんなことしてちゃぁ、いけない。運動しよう。外に出よう。」とか言って。この感覚をほとんど本能的に持っている人は、皆、心身共に健康みたいだ。(養老先生だって、あんなにアタマを使って抽象的な思考をしていながらまともなのは、虫取りをして身体を動かしているからだろうなぁ。マメそうでもあるし。)でも、まあ、養老先生もおっしゃっていたけれど、こういう人は、端から見ると、時によっては確かに「軽い」「おっちょこちょい」に見えてしまう。で、そうじゃない人の目には「あんなマネ、したくない」類かもしれない。

 しかし、この健康的な感覚は、身体性に裏打ちされた本能のようなものだと思う。だから、普段から身体を使っている人は持ち合わせていて、そうでない人は、ついつい失いがちになる感覚のような気がする。それで、問題なのは後者、この感覚に乏しい人(あるいは、この感覚を何らかの形で押さえつけてしまっている人)だ。

 人はまだ身体性(動物的存在)と脳化の関わりをはじめとして、自分のこと、自分の存在のあり方をよくわかっていないんじゃないかと思う。だから、ここまで社会が脳化すると、上記の感覚をほとんど忘れている人は、日常生活で、自分の中の「身体を持つ動物的存在としての自分」と「脳化社会で暮らしている意識の世界だけで生きようとする自分」との折り合いをつけるのが、とっても難しくなるんだと思う。その象徴が「元気のないおじさん」なんだろうね。

 「元気のないおじさん」は、自分の身体性を忘れ、それゆえ無意識的なバランス感覚もなくしてしまっている。こういう場合、意識的にそこを補えればいいのだが、これがなかなか難しい。なにしろ身体性と意識の関わりといったかなり抽象的な事柄、無意識的なものの存在を認識しようとしない考え方が今の通常の思考法だもの。だから、ふつーの「元気のないおじさん」が自分の身体性の重要度を意識するわけがないのだ。それで、ひどいときには病気になっちゃったりする。最近は30代の若い人でもストレスで様々な症状が出ている人がいるらしいけれど、いずれも自分の動物的(身体的)側面と意識中心の脳化社会との折り合いがつかない状態なのだろう。

 現代の脳化社会はこの種の「本能」を抑圧させる方向に向かわせる。「おじさん」の方が、会社などの人間が作り上げたシステムに組み込まれている分、脳化社会の影響をもろに受ける。だから、養老先生は、「参勤交代」を主張されるのだろう。参勤交代は、生き物としての身体性を意識しろ、それで脳化との折り合いを付けろってことなんだよね。

 以上、養老先生のお言葉を自分の言葉で解説してみました。