考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

自分の専門家の自分探し

2005年05月04日 | 教育
 ずいぶん前だが、内田先生のブログで、先生がご自身を「自分の専門家である」とかおっしゃっていた。あるとき、肩書きをどうするかで、「フランス現代思想家」とするのに躊躇ったらしい。内田先生の研究はレヴィナス先生中心で、フランス現代思想全般に渡っているわけではないからだそうだ。そんなこんなから、「自分は自分について知りたかったのだ」と内田先生は気づかれたようだった。
 
 不肖ほり、そのとき、我が意を得たりと思いました。

 私も、そして多くの皆さんも、きっとそうではありませんか? 最も興味深いこと、それは、「自分とはなんぞや?」という疑問に他なりますまい。

 かつて、学校の副教材で"Know Yourself"というのを教えたことがある。「学問はすべて自分を知るためである」とかいう内容で、「物理学にしても、たとえば自分がジャンプしたら、自分の体は物理学の公式に従って動く。だから、物理学のように、一見自分と関係がないように思われることでも、広い意味では自分を知ることになるんだよ。」とかいった覚えがある。

 近頃は、「自分探し」なんていう言葉がはやっているが、あれは、本来は「自分を知ろう」だろう。「自分を知る」ことの重要性は昔から言われている。そのために学問があるわけで、だから人間の子供は勉強をする。「自分探し」にしても、「自分の専門家になれ」ということなのだ。いろんなことをやってみて、それなりに深くやってみて、それで初めて、できることとできないことがわかり、そのことが全て「自分を知ること」につながる。

 「自分を探しに行くなんておかしいよ。そこにいるのが君自身に他ならないでしょうに。」という反論もときどき耳にするが、多くの若者はこれでは納得しない。なぜなら、この言葉では、彼らの「自分が何者であるかわからない」という不安がぬぐいきれないからだ。「そこにいるのが君だ」と言われても、彼らは、自分をしかと認識できないのが現状である。それに、「もっとかっこいい自分があっていいはずだ」という漠然とした憧れもある。

 それが「オンリーワン」につながる。これは、「だれでもがイチローになれる幻想」を抱かせる。ある教科書に、世界一周をした10代の若者の話が載っていた。「夢を持てば、だれにでもできることだ。」と。その夢が、実際的な、現実の社会を良好に運営していくのに必要とされることなら、申し分がない。しかし、この例は、あまりにも極端ではないか。だれしもが特別なことをしてスターになれるという誤ったメッセージを若者に伝えてしまいそうだ。学校で教えるべきことは、特に公教育で教えるべきことは、このような「夢」ではないはずだ。「夢を抱け」という編者の「意図」がわからないではないが、あまりに幼稚な企画に思う。実に無責任である。「自分の専門家」「自分を知ること」も、確かに「オンリーワン」に成りうる。しかし、「オンリーワン」をその意味に解釈する人は誰もいないに違いない。
 
 生徒が、「自分が何に向いているのかわからない、何がしたいのかわからない」と言うことがあるが、当然だ。昔の生徒だって、わかってなかった。高々十数年生きてきただけでわかる方がおかしい。ただ、以前は「あなたはこれこれをしなさい。」と親や先生に命じられたり、「そう選択せざるを得ない状況」があって、職業を選択してきただけだ。今の子供は、選択肢がありすぎる不幸かもしれない。

 それに、それで、よほどの天才か何かでない限り、社会的に容認されることで(←ここ、大事ですよね、何だっていいわけではありません。)「僕はこれだ!」なんて確信の持てることはない。また、ふつーの人は、いろんなことがふつーにできるだけで十分なのだ。それで、たとえそうであっても社会のそれなりの期待を担えることがどんなに素晴らしいことであるか、また人生に何らかの意味を見いだせば生きるに足る人生になるだろう。このあたりが公教育で教えるべき「自分が自分の専門家たる」「自分探し」であったり、「オンリーワン」だろう。