和文英訳に「~グループの活動に参加する」という表現があって、生徒が join the activities と書いてきた。「参加」だから、join 「活動」だから、activity というわけである。
しかし、この表現は不自然である。join us とは言っても、join+名詞は変な気がする。
じゃあ、join in the activities などは、どうか?
これ、一見、良さそうに思われる。生徒から、質問されて、ちょっとためらった。でも、よく考えると、これも、正しくないと、私は思った。
辞書を引いて、じっと例文を眺めると、joinの目的語、join in の目的語になるのは、いずれも、「人」に関わる語彙だとわかる。英英辞典を見ると、人の仲間になる、人の活動に参加する、というわけで、たとえ、join のすぐ後に、activitiy などがきていたとしても、誰との活動家が既にわかっている状況でしか使わない、と考えられる表現ばかりである。
そもそも、join に「参加する」の訳語を与える方が変と言えば、ヘンだと考える方が順当であろう。
「訳語」は、時代によって変化すると思われる。私がjoin を学んだ頃は、「参加する」一辺倒だったように思う。だから、Will you join us tomorrow? が、わかりにくかった。
しかし、join に「仲間に入る」という訳語を与えると、問題は一挙に解説する。
で、以上が私の推論だが、ネイティブに確かめると、どうやら、やはり、そのようである。
ただ、これまでの経験から、ネイティブだからといって、丁寧に説明してくれるとは限らないし、理解が深いとも限らない。
この頃思うのは、自分で考えるのが一番良い方法ではないかということだ。でないと、ネイティブが言ったことに対して、質問も何も出来ない。聞いて、ああそうですか、とオウム返しして、終わりである。
わからなかったら、徹底的に、自分で考えるのは、非合理的なようでいて、けっこう合理的な思考なのである。
ただ、「正しく考える方法」を身につけているという条件は必要だ。
ときどき生徒に、「わからなかったら、自分で考えるのが一番良いんだよ」と言っている。が、ちょいと問題がある。「正しく考える方法」どころではないのだ。
近頃の生徒には、「答えだけ欲しい」という者が多い。考えることを否定するのである。これで「正しく考える方法」は身につかない。
その場だけ「わかった」と思うことは、実はあまり力にならない。わからなくても、正しく考える方法の片鱗にでも触れる方が、よほど実力につながる。
しかし、わからないまま片鱗だけつかんでも、かなり気分は悪い。そうした気分の悪さを受け入れない限り、正しく考える方法は決して身につかない。
これ、単純な理屈だが、きちんと理解する人は少ない。理由は、明白、「気分が悪い」に耐えられないのである。
ま、勉強ができるようになりたかったら、「気分の悪さ」に教師も生徒も、親も、耐えることである。これが出来れば、正しく考える方法も、近くなる。真の実力につながる。
しかし、この表現は不自然である。join us とは言っても、join+名詞は変な気がする。
じゃあ、join in the activities などは、どうか?
これ、一見、良さそうに思われる。生徒から、質問されて、ちょっとためらった。でも、よく考えると、これも、正しくないと、私は思った。
辞書を引いて、じっと例文を眺めると、joinの目的語、join in の目的語になるのは、いずれも、「人」に関わる語彙だとわかる。英英辞典を見ると、人の仲間になる、人の活動に参加する、というわけで、たとえ、join のすぐ後に、activitiy などがきていたとしても、誰との活動家が既にわかっている状況でしか使わない、と考えられる表現ばかりである。
そもそも、join に「参加する」の訳語を与える方が変と言えば、ヘンだと考える方が順当であろう。
「訳語」は、時代によって変化すると思われる。私がjoin を学んだ頃は、「参加する」一辺倒だったように思う。だから、Will you join us tomorrow? が、わかりにくかった。
しかし、join に「仲間に入る」という訳語を与えると、問題は一挙に解説する。
で、以上が私の推論だが、ネイティブに確かめると、どうやら、やはり、そのようである。
ただ、これまでの経験から、ネイティブだからといって、丁寧に説明してくれるとは限らないし、理解が深いとも限らない。
この頃思うのは、自分で考えるのが一番良い方法ではないかということだ。でないと、ネイティブが言ったことに対して、質問も何も出来ない。聞いて、ああそうですか、とオウム返しして、終わりである。
わからなかったら、徹底的に、自分で考えるのは、非合理的なようでいて、けっこう合理的な思考なのである。
ただ、「正しく考える方法」を身につけているという条件は必要だ。
ときどき生徒に、「わからなかったら、自分で考えるのが一番良いんだよ」と言っている。が、ちょいと問題がある。「正しく考える方法」どころではないのだ。
近頃の生徒には、「答えだけ欲しい」という者が多い。考えることを否定するのである。これで「正しく考える方法」は身につかない。
その場だけ「わかった」と思うことは、実はあまり力にならない。わからなくても、正しく考える方法の片鱗にでも触れる方が、よほど実力につながる。
しかし、わからないまま片鱗だけつかんでも、かなり気分は悪い。そうした気分の悪さを受け入れない限り、正しく考える方法は決して身につかない。
これ、単純な理屈だが、きちんと理解する人は少ない。理由は、明白、「気分が悪い」に耐えられないのである。
ま、勉強ができるようになりたかったら、「気分の悪さ」に教師も生徒も、親も、耐えることである。これが出来れば、正しく考える方法も、近くなる。真の実力につながる。
新井紀子氏の「コンピュータが仕事を奪う」に「思考のタイプ分けは,数学ができるかどうかで理系文系にわけることよりも,暗記型と演繹型にわける方が妥当」というようなことが書いてあって,そう考えてみると,確かに私は暗記には「耐えられ」ません。
>快感
アルキメデスの快感だと思います。長い間、わからなかったからこそ味わえる快感です。
すぐにわかるんじゃ、面白くない。
数学なら、難しい問題にチャレンジするのがそうですよね。すぐにわかるのは、面白くない。
私は、演繹型です。暗記はダメです。英語と社会の先生は、暗記型が多いです。話があまり合いません。
でも、数字はもちろん、言葉は、もともとは「演繹」的な思考が土台にあってのものですから、演繹の力がないと、本当には思考できないんじゃないのかなと思ったりします。
もちろん、私の演繹力は、たかがしれてますけど。(笑)
このブログは、演繹型の思考をする人にとってはとても興味深い内容が多いと思います意。でも、暗記型の人にとっては、なぜ、それをわざわざ問題にしなければならないのか、という根本が理解できないだろうから、つまらないと思います。