考えるのが好きだった

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客観的な評価なんてあり得ない

2011年06月05日 | 教育
 米原万里さんは中学2年までチェコにいた。日本に戻って学校の○×式や記号問題の試験に驚いたらしい。苦痛だったという。プラハでは、論述か口頭試問という知識の試され方だったから、知識を断片としか扱わないのは自分が部品扱いされているように思ったという。担任に訴えると、論文や口頭試問は評価が大変だから、また、評価に主観が入って不公平が生じると返答されたという。米原さんは、大人になった今も「公平な評価なんてフィクションだ」「評価の基準が画一化するだけのこと」と内心反論し続けた。(←故人だから、ここ、どうしても、表現が過去形になる。)

 学校でも、私が自由英作文などを試験に入れようと提案すると、「評価が大変だ」とか「主観が入り込む」と反対されることがある。

 反対する人には共通点がある。根本的に、「人生とは、そのときどきの自分が持つ目的に即するように、次から次へと生じる問題をなるべく(労力をかけずに)効率的に解決していく営みである」という人生観を持つ方たちである。もちろん、語っている人は「人生観」として自由英作文に反対しているわけではないし、露ほども思わないだろう。
 この思考法は、たとえば、「入試」が眼前にあるとしたら、いかにして入試を突破するかを課題とする。1年生で習得すべき表現や読解があるとしたら1年生の学習としてどこまでできると良いかを考える。取りこぼしやし損なった課題があったら、2年生で修復し、3年は3年で、また、眼前の問題に対応して即する、という思考法であり、学習法だったりする。これはこれで、論理が通っているから、「正しい」。しかし、一面的だと思う。一方向しか見ないからだ。
 試験対策でもそうだが、「目の前の諸問題に対処する」は一見非常に建設的にとらえられよう。しかるに、本質は「事後指導」である。試験「対策」が、なぜ、事「後」指導かというと、「想定される試験」という、たとえ仮想であれ「既定のもの」がない限り「対策」は施しようがないからだ。この意味で、「対策」は、「未来」という「未知」から目を背け--だって、試験とは、本来、何が出るかわからない、どんな試験問題なのか、全くわからないという「未知」そのものである--、「過去」に目を向けた方策でしかない。「どんな問題が出るのかわからなかったら、勉強なんて、できないじゃないか」--ほら、あちこちから、聞こえてきそうな声でしょ?「どんな問題かわからないと、生徒が不安がる」「問題がわからなかったら、何を教えて良いのかわからない」というのが、大多数、「ふつー」の反応だろう。

 もう一つは、米原さんが指摘する観点での「客観性」である。
 彼女の言うとおり、客観的な評価なんて、あろうはずがないのが事実だ。こうした「客観性」の根底にあるのは、「評価の手抜き」と「責任逃れ」である。しばしば「公平な評価」の重要性が言及されるが、端的に言って、求められる公平性とは、「文句が出ない評価」が真実の姿だろう。(「出ない」は、内心でも不平に思わないを含めて良い。)
 この点で文句が出にくい状況とは、「白黒がはっきりしている基準に則した評価」である。基準は実は、どうだって良いのである。「試験問題」であれば、そこに記された文言が学習事項に関することであり、かつ、○×などの「白黒」がはっきりさえしていれば、多くの日本人は、「この試験は公平に評価される」と感じるのである。だから、中学の「絶対評価」が「手を挙げた回数」であり、高校の「平常点」が「小テストの点数」という、実は、定期試験を合わせると2度カウントされる暗唱例文だったり、単語集の単語だったりする。(一定以上の学校では、小テストができる生徒は定期試験でもできるのものであり、そうでなければ困るものでもある。)これが、「客観」と判定されるものなのだ。ほら、白黒がはっきりしているでしょ? 「手を挙げる」という行為そのものが生徒の学力を増強するわけでもないのに、「それが『評価』というものだ」という思考停止ですべてが留まる。子供の学力や成長なんて、全く念頭にない、どうだって、良いのである。これが、現在の「評価」の実態である。子供たちは、評価されるために授業を受け、学校にきている。学校教育が、子供が「正しく」「公平に」評価されることが最大の目的であるかのように。
 
 こうした評価の価値判断は、何のための学校か、何のための授業や試験であるかを抜きに、評価が評価だけで1人歩きをするから生じる。評価の目的が、ただただ白黒をはっきりさせることだから、子供の学力が伸びるかどうか、あるいは、入試ならば、数多いる受験生の中から、いかに誤差を少なく、意欲的で高い能力や学力を持つ学生を選出できるか、という、学校や入試における最大の目的を忘れているのである。忘れているから、そんな評価がまかり通るのである。

 で、なんで、こんな変な評価方法が蔓延してきたかというと、大方が、マスコミのせいだろう。マスコミが、学校の批判し非難する口実の一つとして、「公平性」をあげつらい続けた。
 しかし、これは、逆に、今度はマスコミが、「評価の客観性なんて担保できるものではない」事実を「一斉に」言明すれば、大衆の判断も変わってくるかな、と思うけど。(大衆の判断の根拠は、なんと言っても「多数決」であるから。)

 教材会社の人が来て、ちょっと話をしたが、教材屋さんの方が、「学校の先生」の思考法に驚くという。で、「迎合される」と言った人がいた。あまりにも、即物的な思考をするからだ。(「即物的」は、今ここだけの私の語法。)
 なぜそうなるのかというと、一つには、先生たちが「何を教えて良いのかがわからない」のと、ここでも、「公平性」「客観性」という誤った思考法が入り込んでいるからである。(「学校の先生」とは、「大衆の中のインテリ層」を占める。だって、偏差値55だから。)
 まあ、こうしてみると、「公平性」「客観性」に束縛されているのは、哀れにも(本人たちは哀れでも何とも思わない。当然だと考えている。)、学校の先生なのだな、としみじみ(?)思う。

 と、まるで、自分が学校の先生ではないかのような言。

 と、もう一つ、評価が主眼に置かれる教育もまた、「人間関係重視」そのものだろう。絶対評価であろうと、評価とは、そもそもすべてが相対的なものである。

4 コメント

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公平性 (影法師)
2011-06-06 16:02:54
 共通一次なんて、大学が自ら思考することを放棄するようなことをした時点で、(問題作成は、ある意味では思考そのものですから)自らの判断に責任を持つことを捨ててしまったと、私は思ってますが。ともかく、

>この点で文句が出にくい状況とは、「白黒がはっきりしている基準に則した評価」である。基準は実は、どうだって良いのである。

 というよりは、「公平性」というものは基準を明確にしない限り、生まれないものではないでしょうか。
 サジ加減を加えているかどうかの判断は、採点基準が明確に示されていれば、第三者に分かり易く映る。逆に言えば、誰が採点をしたとしても基本的に同じになるということこそを、重要視しているわけで、それを担保するためには、どういった基準で判断するかということを事前に決めなければ、どうしようも無い。

 けれども、その基準を自らの内にのみに採用するということは、重要な意味を持つと思います。つまり、誰に対しても自らの判断基準において「公平」に接することは、むしろ大切なことで、結果的にこういった判断基準を自己におくことこそが、差別を無くすことに繋がる。
 要は、他人の判断基準に従うか、それとも自分の判断基準に従うかということでしょうが、同じ「公平」であるとしても、意味合いは随分異なりますね。

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評価の責任 (ほり(管理人))
2011-06-06 22:19:00
影法師さん、コメントをありがとうございます。

>要は、他人の判断基準に従うか、それとも自分の判断基準に従うかということでしょうが、同じ「公平」であるとしても、意味合いは随分異なりますね。

評価に関しては、結局、評価の結果を自らの責任で引き受けることができるかどうかですね。

ただ、「組織」における評価は、その組織を活性化するための基準をどのように設けるかも重要です。
内田先生などがよく言っているように(思うけれど)、イエスマンもいれば、苦言を呈する人もいる、といった感じで、学校だって、本質は変わりないでしょう。
また、学校の場合、将来の「伸びしろ」をどのように評価するかも重要です。
だれだっけ?京大の数学の先生が、縮こまった中間点ばかりで稼いで高得点を狙う答案より、面白い解き方をしているのにボーナス点をやる、とか何とか。ただ、こうした得点は、世の中の「常識」から外れているから、やりにくい。でも、そこを「引き受ける」のが大事なのではないのかなど。(これはあくまでも「たとえ」として書いてますが。)

学校の試験などでは、どんな風に評価するか、点を付けるかで、生徒の「伸び」が変わる、というのもあります。上記に似ているところもあるけど。
そうした柔軟性というか、何というか。
でも、↑そういうのって、「常識」に外れているから、「説明できない」と、嫌がられるんだよね。
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組織 (影法師)
2011-06-07 11:55:38
 組織の有効性や効率性を認めるとしても、それにしたって、どのような人物が組織を運営するかによって、かなり変わってくる部分はあると思います。
 ですので、組織の論理に従うか、組織に倫理を従わせるかは、結局は、組織に属する人間の器量に掛かってくるということでしょう。
 だから、所謂“変わった集団”は、一人一人の個性が潰されずにいるのでしょうが、そんな彼らが組織に殉じるなんていうことは考えられず、自らを押し通すために組織をぶっ壊すなんてことになったとしても、気にも留めないのではないでしょうか。
 まぁ、それは極端だとしても、どこかの集団みたいに、組織を維持するために腰砕けになっているを見ると、そこまでして組織を存続させようとしているのは、単に自ら評価を下すということを、怖れているだけであるようにも感じられてなりません。
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組織は人 (ほり(管理人))
2011-06-07 20:50:40
影法師さん、コメントをありがとうございます。

>組織に属する人間の器量に掛かってくるということでしょう。

おっしゃるとおりです。
なんだかんだ、どんな組織も結局は、「人」です。

個性と集団の関係は、「個」の成熟度にかかってくるでしょう。

ま、でも、「個」を成熟させることに、人はあまり関心を持たないように思います。
教育の目的も、個の成熟ではなく、幼稚な欲望の達成だったりするような気がします。
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