「基本問題と応用問題は別ものだ」とか、「三流から二流へ、そして一流になる」とか、「まずは三回戦を勝ち抜くことを目標に、それから優勝を狙う」という考え方は、ちょっと違うんじゃないかと思う。決して応用問題は出来るようにならないだろうし、いつまで経っても一流は遠い先だろうし、優勝はできるまい。
現実的に、「現象」としては、まさにその通りなのだが、心意気というか、方法論や目的意識や、どうのように表現して良いのかわからないのだが、階段一段ずつ登っていくことそのものを目標にしていたのでは、決して応用問題が出来るようになったり、また、一流になったり優勝をしたりすることは出来ないんじゃないかと思う。
何だろう? ちょっと違うだけだが、全然違うのだ。
応用問題ができるとか、一流とか、優勝などのレベルは、自分の中に「完成形」というものを漠然とでもイメージできることが最低で有りながら、最高の前提としてあるのではないかと思う。ここが、大きく違うと思う。
数学の問題でも難しい英語の文章読解でも、対峙する際にはたとえ漠然とでも、ほのかなイメージだけであっても、必ずや「想起される完成形のようなもの」がない限り解けないだろうし、読めないと思うのだ。ただ、脳裏に浮かぶ「それ」は、刻一刻と変化する。当初のイメージとは全く異なってくるかもしれない。「パターンに当てはめる」というのとは違うが、とにかく、「何かある」のだ。それを手がかりに少しずつ具体的に調整していく。手がかりになるのは、おそらく「基本」としての何かだろう。基本を足がかりで「それ」に向かう。
「一流のやり方」も「優勝」も、決して相対的なものに準拠してのことではなく、「必ずそうだ」と言えるもの、相手次第に変わるにしても、ならば相手次第に変わるということを更に俯瞰した上での「必ずそうだ」があると思う。でなければ、「高み」は目指せないと思う。プロフェッショナルとしての完璧があるだろうし、勉強だったら、採点基準ぎりぎりの答案ではない「美しい完答」がそれだろう。
たぶん、考えられるのは、「引き算」的な考え方だと思う。勉強方法だったら、間違えないための思考法があるだろうし、他、何であれ、「決して失敗しないための秘策」のようなものがあるだろう。それは、基準が厳しければ厳しいほど厳然と存在する。足し算で完璧を目指しながら、「決して減点されない」対策も立てる。減点を避けることが出来るのは「完成形」が当初からイメージされているからだと思う。
「応用問題は基本問題と別ものだ」と考えたり、「三流から二流へ、その後で一流を目指す」「三回戦突破の後に優勝を」という考え方には、「完成形」がないから「減点されないための工夫や方策」が描けないように思う。0から1+1+1+・・で、何点まで届けば良いかがわかっていないようなものか。ただ「よく頑張った。あそこまではなかなかいけないのに、よく頑張った」という主観的な努力があるだけに思う。
「完成形」を抱く思考法や取り組みは、ごくごく初心者のときから身体で覚え込んでいかないと身に付かないものではないかと思う。いくら努力しても「壁」を超えられない、ということがあるとしたら、そのあたりの問題ではないか。
「勉強」でも、中途半端に出来る子は、「どうしたらできるようになるか」を考えるが、「どうしたら間違えないか、どうして間違いを避けるか」には気が及ばない。「間違いを避ける方法」というのがある場合も多いが、関心を持たない。「何もわざわざそんなことをする必要はない」という反応がでたりする。正直言って、これで学力の伸長はムリだと思ってしまう。
↑上記、勉強のことだけを述べたかったわけではない。
「強いチームは強い」とか「巧い人は巧い」なども、そのあたりの違いが絡んでいるだろう。で、こういうことは、残念ながら、わからない人にはわからないという気がしてならない。「うまくいくための方法」で、確かに一段ずつ上がって「成果」があるものだから、「減点されない」「決して失敗しないで確実に成功させる」的な思考の重要性に気がつかないのではないかと思ったりする。
現実的に、「現象」としては、まさにその通りなのだが、心意気というか、方法論や目的意識や、どうのように表現して良いのかわからないのだが、階段一段ずつ登っていくことそのものを目標にしていたのでは、決して応用問題が出来るようになったり、また、一流になったり優勝をしたりすることは出来ないんじゃないかと思う。
何だろう? ちょっと違うだけだが、全然違うのだ。
応用問題ができるとか、一流とか、優勝などのレベルは、自分の中に「完成形」というものを漠然とでもイメージできることが最低で有りながら、最高の前提としてあるのではないかと思う。ここが、大きく違うと思う。
数学の問題でも難しい英語の文章読解でも、対峙する際にはたとえ漠然とでも、ほのかなイメージだけであっても、必ずや「想起される完成形のようなもの」がない限り解けないだろうし、読めないと思うのだ。ただ、脳裏に浮かぶ「それ」は、刻一刻と変化する。当初のイメージとは全く異なってくるかもしれない。「パターンに当てはめる」というのとは違うが、とにかく、「何かある」のだ。それを手がかりに少しずつ具体的に調整していく。手がかりになるのは、おそらく「基本」としての何かだろう。基本を足がかりで「それ」に向かう。
「一流のやり方」も「優勝」も、決して相対的なものに準拠してのことではなく、「必ずそうだ」と言えるもの、相手次第に変わるにしても、ならば相手次第に変わるということを更に俯瞰した上での「必ずそうだ」があると思う。でなければ、「高み」は目指せないと思う。プロフェッショナルとしての完璧があるだろうし、勉強だったら、採点基準ぎりぎりの答案ではない「美しい完答」がそれだろう。
たぶん、考えられるのは、「引き算」的な考え方だと思う。勉強方法だったら、間違えないための思考法があるだろうし、他、何であれ、「決して失敗しないための秘策」のようなものがあるだろう。それは、基準が厳しければ厳しいほど厳然と存在する。足し算で完璧を目指しながら、「決して減点されない」対策も立てる。減点を避けることが出来るのは「完成形」が当初からイメージされているからだと思う。
「応用問題は基本問題と別ものだ」と考えたり、「三流から二流へ、その後で一流を目指す」「三回戦突破の後に優勝を」という考え方には、「完成形」がないから「減点されないための工夫や方策」が描けないように思う。0から1+1+1+・・で、何点まで届けば良いかがわかっていないようなものか。ただ「よく頑張った。あそこまではなかなかいけないのに、よく頑張った」という主観的な努力があるだけに思う。
「完成形」を抱く思考法や取り組みは、ごくごく初心者のときから身体で覚え込んでいかないと身に付かないものではないかと思う。いくら努力しても「壁」を超えられない、ということがあるとしたら、そのあたりの問題ではないか。
「勉強」でも、中途半端に出来る子は、「どうしたらできるようになるか」を考えるが、「どうしたら間違えないか、どうして間違いを避けるか」には気が及ばない。「間違いを避ける方法」というのがある場合も多いが、関心を持たない。「何もわざわざそんなことをする必要はない」という反応がでたりする。正直言って、これで学力の伸長はムリだと思ってしまう。
↑上記、勉強のことだけを述べたかったわけではない。
「強いチームは強い」とか「巧い人は巧い」なども、そのあたりの違いが絡んでいるだろう。で、こういうことは、残念ながら、わからない人にはわからないという気がしてならない。「うまくいくための方法」で、確かに一段ずつ上がって「成果」があるものだから、「減点されない」「決して失敗しないで確実に成功させる」的な思考の重要性に気がつかないのではないかと思ったりする。
「数学は情緒」みたいなこと言ってたんですが、そんな感じですかね。。
【完成型】とか【高み】が先に見えるってのは情緒が必要になる気が。
何となくですが。。。
情緒までは考えませんでしたが、生身の感覚を通して培われた感性が関与すると思います。
正しくできるようになるためには「論理」でも理屈でも構わないけれど、間違わないためには、「間違う」のが生身の人間だから、そこんところを知らないといけない。
と考えると、「情緒」は、論理を導くための大切な「おおもと」で、ごくごく人間的な感性に基づくから、おっしゃるとおりなのかもしれませんね、うん、きっと、そうだ!
僕も趣味が考えることです。で、日々ノートにつらつら考えた事を吐き出してるのです。
今日このブログに来てびっくりしました。なんせ僕の考えていることと殆ど全く同じことを考えていらっしゃる方がこの世にいらっしゃるのかと、、、笑 抽象思考しかり、引き算思考も自分で考えついたのに。。。。ちょっと悔しいながらも、嬉しいです笑。僕も養老さんを勝手に師と拝んでいます 笑 。
これからもブログ楽しみにしてます。
正しくきちんと考えれば、人間が考える方向に大した違いはないと思っています。
ただ、正しくきちんと考えるのが、大変に難しい。長年生徒を教えていて、なぜどのように思考が間違うかのパターンが少しわかるようになりました。これは、大人も子供も変わりありません。
数学や英語の読解、日常生活でのさまざまなことも基本的に同じだと思います。「題材」が違うだけです。
(ついでに言うと、人間の知的能力にさしたる違いもないように思います。スピードが違うだけです。)
養老先生は、すごいですよね。人間の思考の根源を示唆してくれますから。
また気楽に遊びに来てください。
僕今大学生なのですが、人の読書における内容認識について考えてました。僕は本を読んでいるときに二種類の感覚があります。一つは、内容を理解していると断言出来る時、もう一つは字面を読んでいる感覚です。
そしたら、一つの仮説を発見しました。
つまり、文が分かるとは「その1文の文章全体における位置が分かる」ことなんじゃないかって。例えば、この文はこの主張の理由、この文は例示、この文はこの説明、のように、今読んでいる文の全体に占める役割を理解することが、「分かる」ということなんじゃないかなって。
例えば、一つの章においていくつか段落があると思いますが、最初の段落を作った時点で、あとの全ての内容に関して自分なりに仮説を立てます。こんな議論展開になって、、、のように。その準備後に文を読み始める。すると、理解度が全然違います。そして、文を読み進めるごとに、自分の間違いを修正し、より詳細な仮説を作り上げて行きます。章を読み終える頃には、自分の仮説と筆者の論理展開は完全に一致している筈です。
そして、自分は筆者の書くそれぞれの文の役割を全て言える筈です。
どうでしょう、国語の先生? これに関して感想をいただけたら幸いです。
私は授業で、まあ、「仮説」まではなかなか難しいと思うけれど、常々、「予測しながら読め」と教えています。(笑)
ある人に「英語の国語の授業をしているんですね」と言われたことがあります。
授業を受ける際にも、「次に先生は何を言うか」を考えながら授業を受けろ、と言ってます。
でもね、馬耳東風な気もするんだよね。(苦笑)
英語も国語も、平坦な黒字で書かれた文章を一文一文丁寧に吟味して、文章全体をreorganizeする。
銀の匙を三年間で読んだ伝説の教師も同じようなこと言ってた気がします。
これは小説に関しても言えると思いませんか?一つの単語にフォーカスし、それが「なぜ使われているのか」を問い続ける事で筆者の表したい世界観がキチンと見えてくる。