考えるのが好きだった

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私が塾の先生を嫌いなワケ

2009年08月23日 | 教育
 塾の先生は、塾の先生で大変だと思う。塾の先生から見ると、学校の先生は気楽でいい加減なものだと思うだろう。さして「企業努力」をしなくても、生徒は自動的に集まってくる。目に見える成果を出さずとも、数値目標の設定も、たとえあったとしても達成せずとも、仕事が出来る。それに比べて、塾は、競争が激しく、生徒であろうと保護者であろうと、「顧客」を満足させないと生き抜いていけない。「これこれしてくれ」と言われても無下に断るわけにいかない。とにかく大事なのは、「客を満足させる」ことだが、なかなか一筋縄にはいかない。なんとか合格できる力をつけてくれ、といわれたら、応えなければならない。時には勝負である。しかし、勝負に勝てば、評判も上がり、「受注」が増える。だからといって、次も同じことだから、息抜きは出来ない。
 
↑ただの想像。

 私が塾の先生が嫌いなのは、上記の努力やご苦労のすべてが、「集客」に関わるからだ。根っこが「教育」になく、「市場経済の客商売」」にあるからだ。

 こういうと、たぶん、「何を言うか。我々が日々行っているのは教育活動である」とおっしゃるだろう。しかし、私が思うのは、彼らが行っている教育活動は「絶対に生徒に嫌われてはいけない」ものだからである。もちろん、例外は常につきものであるから「私はそうでない」とおっしゃる方がいてもおかしくなかろうが、総体的に言えば、「生徒に嫌われる塾の先生」は存在しない。生徒は、嫌いな先生の塾には行かない。塾をやめる。他の塾へ行く。生徒がいない塾の先生は存在しない。

 この点、公立学校の先生の中には、「あの先生、大嫌い」と生徒から思われている先生が存在しうる。とにかく、自分たちのすることなすことに「ケチ」をつける。
 勉強以外のことでも、ちょっとくらい良いじゃないの、それくらい良いじゃないの、というようなことでも「駄目」という。小うるさくって、しょうがない。そりゃ、「決まりを守れ」とか、先生の言っていることが正しいことはわかる。でも、そればっかりではないでしょ。人間なんだからさ、ちょっとくらい、大目に見ろよ。世の中を見ろよ、大人だって、ずいぶんといい加減じゃないか。なんで俺たちにばっかり要求をするんだ。まず、世の中の大人がちゃんとやれよ。それに、古くさい考え方だし、世の中、進んでいるんだよ。学校は、遅れている。こんな先生じゃあ、勉強まで嫌いになるよ。・・・ 

 それでも、公立学校の先生は存在しうる。なぜなら、彼らは、生徒個人のためだけに「先生」という仕事をやっているわけでないからだ。自分がどれだけ嫌われようと、卒業後に彼らがそれなりに社会の一員として、まっとうな人間として存在してくれればそれでいいからだ。だから、公教育には税金が投入される。塾は、その生徒の成績の上昇や合格といった、いかにも各個人の利のために存在する。だから、個人の月謝でのみ運営される。そもそもの理念が違う。

 というわけで、塾の先生と公立学校の先生の働きは、大いに異なる。
 と、こういう書き方をすると、共存共栄しよう、というような返事がくるだろう。
 しかし、そう言う人は、わかってないのである。並列的に存在しうるものでないからだ。
 塾の先生が存在できるのは、学校があってなればこそである。
 だけど、そこを認識する塾の先生を私は知らない。生徒の反応を見れば、一般の塾の先生が学校に関してどのような言動をしているか、だいたいわかる。
 この点において、私は塾や他に非常な不快感を感じるのである。
 
 だから、嫌いなのである。単なる感情的なものではない。

 まあ、上記の「学校の先生」の仕事は、諏訪先生のコトバで言うと、「啓蒙」ということになる。

9 コメント

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異議あり (やま)
2009-08-23 22:46:09
※努力やご苦労のすべてが、「集客」に関わるからだ。根っこが「教育」になく、「市場経済の客商売」」にあるからだ。※→※根っこは「教育」にあるが、身分を保障されている学校の教師と異なり、集客をする必要がある。そのために、塾生に満足を与えなければならない。満足を与えるとは、我が儘を通させることではなく、求めるもの、つまり学力をつけること。この点で、学校の教師は気楽だと思う。学校の授業だけでは学力がつかないから塾へ来る、ということは、学生は学力をつけたいと熱望しているわけで、学校がやってくれないから、仕方なしに塾へ来る。

※それでも、公立学校の先生は存在しうる。なぜなら、~そもそもの理念が違う。※ → ※「卒業後に彼らがそれなりに社会の一員として、まっとうな人間として存在」するために教師が役に立っていると言い切る根拠が分からない。理念が違うから公教育に税金が投入される、ではなく、税金が投入されていながら、生徒に学力をつけることができない事が問題なのです。学力だけが教育ではない、学校の役目ではない、と言う人がいますが、学力をつけることは最低限の機能ではないのですか。

※塾の先生が存在できるのは、学校があってなればこそである。※ → ※その通り。学校では学力を養成できないから、塾が存在する。学校が、全員に確実に学力をつけることができるのなら、塾なんかいらない。塾が存在できるのは、学力を満足につけることができない学校があり、その学校だけが卒業証書を出せるから。塾が卒業証書を出せたら、はたして学校へ行くだろうか?

「教育」をしていると自信を持って言える人はよほどの自信家ですね。他人を「教育」するなどあまりにも「頭が高い」。
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想定しうるご意見です (ほり(管理人))
2009-08-24 00:51:54
やまさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

「間違いだけの教育論」にある諏訪先生のおっしゃる「啓蒙」ということが教育の根源で、学力は、本当のところ、二の次なんです。

それで、おっしゃること、実に誰でもがはまる、非常に多くの方が現在はまっている「落とし穴」なんです。まず、この陥穽に気がつくことが、肝要と考えます。でなければ、無限ループに陥ります。それで、陥っているのが現状と思います。
思考の角度を変え、「現状」の根底に潜む「理念」から考察すれば、賢明な方であれば、やがて気がつかれることと思います。
(ちなみに、思考の角度を変えることこそが、「学力」の根幹です。)
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今は違うのかな (ゾウムシ)
2009-08-24 09:52:17
塾の先生は「絶対に生徒に嫌われてはいけない」ということですが,私がウン十年前に通った中学時代の塾の先生は生徒に滅茶苦茶嫌われていましたよ.

いわゆる超スパルタです.体罰は当然のように行われていました.

その先生自身も,「ここは義務教育でもなんでもないからイヤなら辞めろ」と散々生徒を罵倒していました.

でも,超人気塾だったんですよね.

辞める生徒も意外と少なかった.

生徒からもの凄く嫌われていたし,顔を見るのも嫌だし,塾がある日は胃が痛くなるくらいのプレッシャーをみんな受けていたはずですが,律儀に通っていましたね.みんな休まず.

授業中も私語なんてもちろんない.よそ見しているような子供も一人もいない.

そこが人気だった理由の一つはご想像通り「親が無理やり通わせた」でしょうけど,本当にイヤなら生徒も登校拒否になるでしょう.それこそ義務でもなんでもないんだから.

それにそんなに成績優秀のエリートばかりが通っていた塾でもない.単なる田舎の私塾ですから.偏差値でいえば50以下の生徒もいたはずです.

まあ,そうやって3年間鍛えられれば,それなりにみんな成績は上がりますけど・・・.でも,偏差値50が70になったという人はほとんどいませんでしたね.受験テクニックを習ったという感じではありませんでした.ひたすら根性論でしょうか(笑).現代の合理的・効率的な手法からは外れていました.スポーツのトレーニングでうさぎ跳びをたくさんやったようなものですから.

ちなみに,その先生は,実は塾反対の立場だったのかもしれません.高校になったら自分で勉強しろと言っていました.ボクも高校で塾,予備校へは通っていません.

今はこんな塾あるのかな?

少なくとも当時は親のかも知れませんが需要はあったわけで,これはホリ先生のおっしゃる市場原理ですね.

最近は自分の子供が塾で殴られたとなれば大問題でしょう.

吹っ飛ぶくらいビンタされていましたから.それで文句を言ったという親のことは聞いたことはないですねぇ.

オマエがちゃんと宿題やっていかなかったのが悪いという感じでしょうかね.

ホリ先生のご主張に同意なのですが,上のような体験があったので,ちょっと別の次元で違和感がありました.

生徒から滅茶苦茶嫌われていた塾の先生がいたけど,商売的には大成功だったよ,と.

今は違うのかな.
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すごい塾でしたね (ほり(管理人))
2009-08-24 10:56:00
ゾウムシさん、コメントをありがとうございます。

今もそんな塾があるのかなぁ。。
上記の記事を書いたそもそもの動機は、どうみても、生徒が塾の目先の合理主義に犯されているのが、イヤでイヤで仕方がないことです。
で、学校だって、そんな風な考え方に毒されてる。

>ちなみに,その先生は,実は塾反対の立場だったのかもしれません.高校になったら自分で勉強しろと言っていました.

良い先生ですね。
「自分で勉強が出来る」が、大事なことだと思います。
近頃は、「どれだけできるようになったか、どれだけ学力(試験で測定可能なだけの学力)がついたか」ばかりで、自立した学習者になることを求めない。親も社会環境も。それが、「成果」だと誤解して。(くどいと言いわれそうだけど、偏差値55の考え方です。)

ゾウムシのコメントで、記事の舌足らずな面に気がつきました。生徒や保護者が求めるものが、「なるべく労少なくして効率的に点を上げる方法」なんです。これに応えるのが、塾の使命になっている。人気もそういう観点がほとんどでしょう。(そのうち、追記します。)

ゾウムシさんの塾は、今風に、真っ向から対立していますね。
いつだっけ?内田先生が、男性の稽古事について書いてました。わざわざプレッシャーを感じるために、つまりは、イヤな思いをするために稽古事をする、みたなこと。
今の男性でそういう稽古事をする人がたぶん少ないことと、効率主義に基づいた子供の塾通いの目的は、同根ですね。

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ボクはいつも例外を書くのかな(笑) (ゾウムシ)
2009-08-24 11:43:04
どうもボクは例外ばかり書いて,流れを乱しているようです(笑).

すみません.

ちなみに,先述の塾が良かったのどうか今でも判りません.

懐古趣味的に,「あのときは,殴られたけど,今となってはいい思い出」なんて,まったく思いませんもの(笑).

同級生と久しぶりに会っても,「あの先生は酷かったなぁ」という言葉だけで,どちらかというと嫌悪感のほうが多く残っていることを確認し合います.

でも,なんでそれでみんな辞めずに通っていたんでしょうかね.

一旦通い始めたから,簡単に辞めるとは言い辛い雰囲気があったのかも.

一度やると決めたら,とりあえずやる,と.

親から無理やり強制されてという感じでもなかったですし,片田舎だからそれだからみんや向上心というか野心があったわけでもない.

今考えると不思議です.

なぜ,そういう塾に通ったのか.

あそこはスパルタで体罰もあるって,公然とした事実でしたから.小さな町ですから,みんな知っていました.

それを知っていて,親も行かせるた.また,ボクの場合は,自分で行くと言いました.ほとんどの子が自分の意思だったんじゃないかと思います.

スポ根がまだ死後ではなかった時代だからでしょうかね.

ただ,今となって,スポ根を肯定しているかというと,そうとは必ずしも言えないですね.

そのあたりが何とも面白いですね.

いつも例外を書いて済みません.ホリ先生のおっしゃる大意については異論ありません.
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上は誤字脱字多くてすみません (ゾウムシ)
2009-08-24 11:46:37
上は誤字脱字多くてすみません
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敬称ぬかしてごめんなさい (ほり(管理人))
2009-08-24 14:51:06
ゾウムシさん、コメントをありがとうございます。

さっきの私のコメントで、一カ所、ゾウムシさんを呼び捨てにしてました。
大変な失礼、申し訳なく思います。誤字脱字は、私、いつも記事にもコメントにもめちゃ多いのですが、ほんとうにごめんなさい。

>一度やると決めたら,とりあえずやる,と.
>スポ根がまだ死後ではなかった時代だからでしょうかね.
>ただ,今となって,スポ根を肯定しているかというと,そうとは必ずしも言えないですね.

今は、こういった価値観がないですね。
「スポ根」には、「やり続ける価値」があるんじゃにのかな。
今は、成果が出なかったら無駄だ、とか、そんな見方ばかり。「続ける価値」が否定されすぎている。年功序列がなくなるのと一致してるのかな。私の言葉で言うと、「過程を大事にしない」ということか。
若い人がすぐに仕事を辞めたり、自分で死ぬのも同じかな。「何かをし続ける価値」「生き続ける価値」を軽視しているから、そうなる。

>そのあたりが何とも面白いですね.

生徒を見ていて思うのは、「変わりたい」と思っている子が普通だと言うことです。たぶん、成長したい、ということだと思うんです。
でも、今の社会は、暗に、子供が成長して大人になることを拒んでいる。「ありのままでいいよ」とか、「個性を大事にしろ」とか。
その意味で、子供は分裂させられているのが可哀想と言える気がします。
スパルタ先生が、嫌がられながらも好まれた(?)のは、子供に「変われ!」といメッセージを発していたからのような気がしてきました。「叱られる」とは、自分を否定されることだから。自分を否定しないことに、価値観の転換を図るほどの成長は見込めないから。

子供の成長は、スロープを上るより、むしろ、階段に成長なっているように思います。学校行事や受験もその一つになってたりする。「元服」や通過儀礼もそれでしょう。これ、渦中にいる者にとっては「苦痛」だろうけど。

大人より、子供の方が、感覚的に知ってるのじゃないのかな。
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Objection!! (Objection!!)
2017-01-20 22:59:19
勿論あなたの仰る通り、学力以前に大事なものはあります。それは人間性や社会性と言った全ての土台となるものですよね。こうした土台を疎かにしてその上にどんなに学力を積み上げたところで全く意味がありません。そういう人間はいつかどこかで大崩壊することでしょう。でもね、土台だけじゃあ意味が無いんですよ。土台はあくまでもスタートラインなんですから。例えるなら、土台をいい加減にしてその上に家を作られても困りますが、土台しかしなかったらそれは家とは呼べないんですよ。そこまでいかなくても、中途半端でも困ります。土台をしっかりと作って上の家が屋根がないとか、、、
全部揃って完成してはじめて1つの家と呼べるのです。
教育も一緒ですよ。
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Unknown (ほり(管理人))
2017-01-31 23:35:52
Objection!!さん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

「土台」と「屋根」は何を指してのことでしょうか。
人間性や社会性も学力と関わります。別個のものではないという考え方を私は取ります。

現況のテストの点数だけを学力とは思いません。
私の教科の英語で言えば、「英語の文章を正しく読み取り(或は聞き取り)表現をする力」をいかに育成するかが大事です。しかし、最大の問題は、今の英語教育においてそれがより適切になされていないことです。上っ面での評価ばかり。
これでは人間性も社会性も本物の学力も育成しにくい。

困ったことです。
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