考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

私が受けた英作文の授業

2008年10月21日 | 教育
 高校3年の時の授業は、和文英訳の課題を指名された生徒が板書し、先生がそれを解説なども加えて直していく。解説がよく分からないときもあったが、まあ、神妙に聞いていた。もちろん、板書の作文は他人のものだから、自分のとは全く異なり、訂正される箇所も、自分の作文とは全く関係がなかった。それで、その板書をノートに写したかどうかは覚えがない。(たぶん、写してないと思う。)で、一通り、解説が終わると、先生がやおら模範解答を板書する。それを、せっせと写す。高三の後期にもなると、課題がかなり高度で、模範解答も2例くらい書いて下さったと思う。で、せっせと写す。
 板書の作文は先生に直してもらえるが、自分の作文は直してもらえない。指名される人は運が良いなと思ったような記憶もある。結局、自分の作文の出来がどの程度かは、わからないままだった。それで、定期テストではとにかく模範解答を覚えていく。こういうときは、こういう表現を使うのだな、とかなんとか、理解して覚える。もちろん、これは表現の幅を広げるためである。(主たる目的は点を取ることでないのだ。自分の知っている表現だけで満足をしているのでは、勉強をする意味がない。このあたりのところは、実は、一般に「勘違い」されがちのところである。)定期テストではほとんど同じような文が出たような気もするが覚えはない。全く同じようなのもあったと思うが、ビミョウに違っていたりしたとも思う。だから、本質的なことはちゃんと理解してないと出来ない。よって、予習など全くせずに、ただ先生が最後に板書してくれる模範解答だけを写して試験前に覚えいたのでは授業の意味がない。とにかく、悩みつつも自分で英語を書いてみる。自分が書いた英語に整合性があるかどうか、自分で考える。この段階での自分の「実力」を知るのである。その上で模範解答をいただく。(笑)そうすると、同じ模範解答の英文が、あら不思議、重みを持ってくる。「なるほど」と感じることが出来る量が全然違うのである。自分が思い付くことが出来なかった、或いは知らない表現があることがはっきりわかることで、「世界が広がる」からである。

 自分の作文の出来がわからないのはいかがなものかと思ったりもした。しかし、授業で行う先生の添削の様子を見ると、他人の作文であっても、なぜそのように直すべきなのか自分にも理解できる部分があり、また、理解できない部分もあった。(理解できないのは、そのときに初めて習う表現だったように思えてきた。)理解できる部分は、とにかく自分の作文にも共通する「普遍的なもの」だったと思う。譬えそれが他人の作文であったとしても、添削を通して身に付くのは、応用を利かせる力である。(だから、板書の添削をオレの作文じゃないから関係ない、と言う顔をしている生徒の学習能力は弱いっまになる。)わからなかったのが何だったのかは、要はアタマに入り切れなかっただけの話である。
 で、授業後の感想は、わかったようなわからないような何だかヘンな気分であった。(笑)読解の授業のように気分がすっきりしないのである。こう言いたいときにはこのような表現を用いる、あのような別の表現をしてもいい、等と言われて、それですいすいアタマに入るわけでなかったし、分かったのか分からないのかもよくわからない点が、他の授業と大きく違った。英作文の授業が好きな生徒というのは、まあ、そんなにいないのではないかと思った。読解は、授業のポイントが、自分が分かったかどうかという「自分の問題」で済みそうな気がするが、書く行為は「書いたもの読んでくれる対象」を要求する。よって、自分が分かったのであるならば、自分で表現して相手に伝えなければならない、という何か使命感めいたものを帯びるのだろう。しかし、これは相手あっての話だから自分ではどうしようもない、という点で「すっきり感」が生まれないのだろうか。

 しかし、定期試験であろうと模擬試験であろうと、入試本番であろうと、作文の課題で自分に出来ることは、「これが自分で考えられ得るもっとも良い解答」を書くことだけである。で、入試だけでなく、その後の人生において書かされた英文や或いは日本語の文章であっても、書けるのは、自分でなるべく上手にまとまるように書いた文章でしかない。「書け」と言われて字数や枚数を埋める。物理的な量は一目瞭然で分かるが、内容がどうであるかは皆目検討がつかない。読んだ相手がそれをどのように読んでくれるかが分からない分、やはり「すっきりしない」。

 まあ、とにかく、「書く」という行為は、そもそもすっきりする感覚が無いのではないのだろうか。で、この「すっきり感」が「自分の言いたいことを言った!」という「すっきり感」だけなら、実にこのブログの駄文のように、「おー、書いたぁ~、満足。」で終わる。(実は、このブログの文章はほとんど独り言なのです。済みません。自分の思考の整理が目的です。こんな私におつきあい頂けましたら幸甚です。)が、他人の目に触れ、他人の評価を得なければならない、となると、「自分さえすっきりすればいい感」で満足するわけにはいかないから、「どうもすっきりしないなぁ」と言うことになる。明らかに他人の目に触れることが分かっている学校の課題は典型である。つまり、「読む相手」を必要とするから、その結果である「評価」が気になって仕方がなくなるのもよく分かる。 
 
 それでも、和文英訳のようなものの場合は、他人の評価を気にしたって実に「しようがない」のである。(笑)なぜなら、他人がどのように読んでくれるかは自分には全くわからないのだから。だって、外国語だもん、わかるわけないのである。出来るのは、自分として精一杯書き、より良い表現があればそれを取得すべく努めることが出来るだけである。
 まあ、「英語の先生」の立場から言うと、外国語の勉強は、そう思い切ることが出来るかどうかが、真の実力を育めるかどうかの分水嶺になるのではないかということだ。
 故に、授業などを通して習得すべきことは、「普遍」たるものである。クラスメートの作文と自分の作文に見られる「共通点」である。実際の試験に出る英文に「全く同じ文」はおそらくほとんど無いだろう。しかるに、「よく似た文」はあまたある。というか、ほとんどがそれである。(そもそも言語とはそのような性質を持つものである。)それで「実力」とは「よく似ている」を「普遍」として捉えることが出来るかどうかの力ということになる。それがS+Vの構造だったり、もっと細かい構文だったり、名詞でもな何でもそれぞれの特徴的な扱い方だったりする。それで、こういった「普遍」をいかに習得するかが、授業の目的たり得るのである。それで、細かくなればなるほど、「この表現はこう言うときに用いる表現でそれ以外の時には用いない表現である」などを多く習得することになる。(ちなみに、私は具体例を多く知らない。)こういった「普遍」の重要性は、平に「応用できる」からである。なのに「普遍」の存在があることを一顧だにせず、ひたすら細かい実例ばかりを気に掛けて、例えば定期試験で丸暗記に終始していたのでは、一例一例が全くの別物となり、「ちょいと変えて応用する」という能力を養うことができなくなるのである。せっかく記憶に留めた知識が応用能力に繋がらないのである。それで、「学校の英語は役に立たない」なんて言になってしまうのだろうなぁと思ったりする。

あー、長くなった。一応「すっきり」なのかな?(笑)

う~む。これで2600字だからなぁ。
生徒には「数十語で何々に付いて述べよ」なんて課題をやらせているが、これ、ほとんど拷問だよなぁ、と実は思ったりしている。数十語~100語程度で書ける内容なんて、何もないもの。まあ、それでも、マーク試験練習をさせるよりかは、ずっとマシであろうよのぉ。
 

2 コメント

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おっじゃましま~す♪ (50cent)
2008-10-23 00:14:21
えっと、
“数十語~100語程度で書ける内容なんて、何もないもの” は、?かしら。

しっつれいしましたぁ~
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どうも~♪ (ほり(管理人))
2008-10-23 21:36:42
50centさん、コメントをありがとうございます。

ははは。。ここ、突っ込まれるかなと、実は思ってましたの。

いろいろ考える子は、たくさん思い付くだろうから、それをてきとーにまとめるのも、いやだろうな、と思っちゃって。まあ、そういったことができるのも能力なんだけど。

「私が受けた英作文の授業」を60字程度で要約せよ。

解答案
「和文英訳の授業は、たとえ自分の和訳の添削でなくても、学習すべき事項の「普遍」の習得をめざし、応用力に繋げるものである。」(59字)
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