考えるのが好きだった

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英語の読み方とアングロサクソン的考え方

2007年08月10日 | 教育
 ある人に、私の授業のやり方を言ったら、「英国語」を教えてるんだねと言われた。まあ、現代文の授業でやっているような読解を英語でやっているようなものだということだろう。そう言われればそうかな。だから、私のテストの問題のいくつかは、その場でしっかり読解すれば答えられる問題が多い。現代文の場合、しばしば言われるのは、「答えは全て問題文にある。」だが、それと同じことを私は確かにやっている。
 とにかく、私は「スカートを伸ばせ」も含めて、「英語の先生」ではないという自覚が十分にある。(笑)
 
 授業では、もちろん、英語で書かれた文章を読むわけで、文章を読むという行為は、思考法を深めることと同義であろう。だから、要は、私がやっているのは、アングロサクソン的思考法を生徒に体得させようとしているのだろうなということだ。それで、私がここに書いている文章は、その逆を行っているだろう。自分が教材を教えながら身に付けた文章構成で文章を書いている。(数学の影響も無視できないと思うが。)

 今の「グローバル」という考え方において、アングロサクソン的な論法?は、力を持っているが、ホントに、この思考法を学ばせて良いの?という疑問が私につきまとう。
 ところで、「アングロサクソン的思考法」と書くと、「じゃあ、アングロサクソン的ってどういうこと? 他の思考法にはどんなのを想定するの?」という疑問を持たれる方もいると思うが、私はこれに答えることが出来ない。他の思考法を知らない、まあ、「なじみがない」からだ。

 以前、「入れ子思考」と「螺旋思考」というコトバで思考法を規定したことがある。入れ子思考は、入れ子構造、つまり、関係詞などを持つ英語の構造がなす技の思考法で、私は入れ子思考法を取る。(私が英語が面白いと思ったのも、関係詞などが作り出す構造の妙味だった。)その反面、ぐるぐると回るように、似た部分を繰り返しながらまるで螺旋階段を上っていくように思考を高めていく方法を取ることは出来ない。(日本語は、こっちに近いと思う。再読してないが、小林秀雄の文章がその典型のような気がする。高校時代、教科書を読んで、「なんだ、この人、最初から最後まで同じことを繰り返し言葉を換えて言ってるだけじゃないか」と思った。だから、難解という気はしなかった。国語の出来る友人もそう言っていた。)

 誰でも人間の言いたいことは、大方一つのことだけである。その説明の仕方が、入れ子構造で説明するか、小林秀雄的に説明するかの違いだろう。(あ、大胆。)
それで、たぶん、脳味噌の構造で、「嗜好」と言うか「指向性」と言ってでも良いようなものが影響して、読解できたり出来なかったり、書けたり書けなかったりするのだろう。

 それで、私は、ひたすら、「英語的思考法」を教える。私の場合は、この思考法が「合っていた」。しかし、生徒はそうでもないだろう。彼らは自分の知らないことを知るため、学ぶために学校に来てはいるものの、日本中が「英語中毒状態」で、英語的思考法の訓練を受けさせられるのも、何だかこれで本当によいのかなぁと思ったりする。

 思考法というのは、人間の根幹である。その根幹をそこまで弄っていいのかなあと思ったりする。所詮人間の持つことが出来る考え方は一つだろう。私はこれが向いていた。しかし、向いてない生徒もいる。その根幹を揺るがすことはないのかなというのが、まあ、何年か前からの悩みというか何というか。。。

4 コメント

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異なる言語体系 (森下礼)
2007-08-11 08:33:50
英語の担い手のアングロサクソンだけでなく、ひろくヨーロッパの言語には関係代名詞を介する「入れ子構造」がありますね。とくにフランス語に顕著ですね。
 私がフランス語を勉強していたころは、この「入れ子構造」がとっても新鮮でしたね。現在ではむしろ「うざったい」という感じです。
 現在の「英語中毒状態」については、学習する幼少の生徒がいわゆる「セミリンガル」になる可能性もあるので、異なる言語体系を教えるべきでない、と思います。
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入れ子 (ほり(管理人))
2007-08-13 21:15:47
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

第二外国語はフランス語でしたが、もう、ほとんど覚えてません。(笑)quiって、whoにあたったっけ?程度。

英語の先生をしていながら何ですが、言語なんて、「才能」ですよ。
 生徒が突っかかるのは、関係詞。要は語順、つまりは構造の違い。これをぱっと理解する子はそれなりにできる。それから、もうちょっと違った、ホントの言語の才能。「語感」(って、定義しろと言っても困るけど。苦笑)が良いかどうか。(私は、前者はまだ良かったのだと思いますが、後者がどうも、いけない。全然ダメ。)後者の良い子は、前者も問題ないみたいで、あっという間に良くできるようになる。(でも、えてして数学が苦手だったりするのはどうしてだろう。)
 で、両方得意でない子が、困るんだよね。それこそ、セミリンガル状態になる危険性があると思います。
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セミリンガル (森下礼)
2007-08-13 21:32:39
 セミリンガルについては、今年3月の私のブログで取り上げましたが、
http://d.hatena.ne.jp/iirei/20070301

セミリンガルという言葉を創設したと思われる市川さんによれば、セミリンガルという現象がおきるのは、海外に家族で出張した家の子どもが、授業中・学校にいる間に英語をどんどん習得できるけど、家での日本語での家族間のコミュニケーションを嫌う、と言う現象があるそうです。そこでは、「会話」はできても、抽象思考が出来ない生徒がうまれる危険性がある、とのことでした。つまり、日本語でも英語でも中途半端な抽象思考しかできないという生徒のことを、セミリンガルと呼ぶというわけです。
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あ、なるほど。 (ほり(管理人))
2007-08-14 10:42:02
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

養老先生は、言語は抽象であるとおっしゃってます。で、言語を使えるかどうか、抽象思考が出来るかどうかでヒトに「淘汰」が起こったとまでおっしゃってるけど、すごく納得してます。
元々は、感覚世界に根ざしたもので、具体的な名詞、物質名詞から始まったのでしょう。動物でも「しゃべる」と言われているもの、イルカでも象でも(←よく知らないけれど。)は、そのレベルでしょうね。
でも、人間は、そこから演繹的に抽象化する使用法を見出した。「明るい」が光があって明るいという具体的な状況示すコトバだったところから、「彼はその分野に明るい」などの抽象的な用法が出てきた。抽象思考は、そういった演繹的用法を理解し、使用出来ることから初めて始まるものでしょう。でも、「セミリンガル」状態だと、たぶん、こういうのはムリ。(もっとも、この例はごくごく初歩的な段階を取り上げただけです。でも、この程度でもネイティブ小学生、中学生?では、理解できないん子も多いんじゃないのかなぁ。)
「生き物」として「生きていくだけ」なら、具体的な名詞などだけわかっていれば良いから、セミリンガル状態でも不自由はないでしょう。しかし、いったん、「それ以上」の世界に入り込もうとしたら、不可能です。まあ、人間が数百年、数千年かけて独自に発展させてきた文明や文化から遠ざかるのは間違いないでしょうね。端的に言えば、まともな書物は読めなくなる、詩や祭り(本来の)の世界から遠ざかるってことです。数学は、お金の計算だけとか。

英語でも、「日常会話」程度なら、語彙だけ増やせば中学成語で十分です。しかし、ちょっと込み入った内容、抽象や論理を伝えようとすると、高校英語が必要になる。
でも、多くの方は、そこまで理解しない。
(leibniz0さんのところを読んだばかりだからかしら?笑)本当の意味での抽象思考をする人、それを必要なことだと感じる人は、多分、今の日本にはそんなに多くないと言う現実もあるのでしょうね。
で、「学校」は、その必要性を説くところでもあるのに、本来的には機能不全に陥っている。(先生にこれを理解しない人が少なくないわけですからね。)「目先の試験対策」が勉強だと思ってるから。

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