考えるのが好きだった

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具体的な指導は思考力を養わない

2011年07月29日 | 教育
 どんどん加筆修正。
 近年は、指導は何であれ、子供たちにわかりやすく伝えることが重視される。一般の社会でも「わかりやすさ」が求められるから、書店の本はおそらく、「具体的にわかりやすく述べる」が骨子になっているだろう。また、学校では、一部の生徒への配慮から集団全体への注意事項であっても具体的な指導が良しとされる。具体例を挙げると「ちゃんとしなさい」はわかりにくいから、具体的に「背筋の伸ばしなさい」「忘れ物をしないように気をつけなさい」などの具体的な言を与える方が良いとされる。もっとも、もっと具体的な事項でないと、具体的だと思わない人も多いだろうが、「具体」と「抽象」とは、あくまでも相対的で幾層もの階層持つものだ。
 人間の思考は、常に具体と抽象の間を行き来する。「ということは、どういうことか?」という問いかけは、何も勉強に限ったことではない。日常生活においても重要である。
 
 また、同じ「具体」と言っても、幾重もの階層性があるからには、ある人にとっての具体的な指示が、別の人はにとってはちっとも具体的ではないことも多い。だから、指示する側は「なぜ、そこまで言わなくてはいけないの?」という思いを抱くことがある。
 困るのは、より具体的な指導は、たとえ、特定の生徒には必要不可欠であっても、いったん集団教育の場に取り込まれて敷衍化されると、大ざっぱな抽象的指示で十分な大多数の生徒に不要な指示や指導を押しつけることになりかねないのである。この弊害が「指示待ち人間」と呼ばれる存在だろう。

 私は必要以上に具体的な指導は、生徒の思考力を高めない「悪い指導」ではないかと思う。

 目先の目的について短期的に見ると、かなり具体的な指導事項はすべての生徒に大変に効果的である。これがたち悪い。ややもすると、目先の効果に目を奪われて、内在する真実に気がつかないことがある。
 「掃除をしなさい」ではない「箒で床を掃きなさい」の指示は、何をして良いのかがはっきりとわかる。しかし、掃除の際に、常に「箒で床を掃きなさい」「机をぞうきんでふきなさい」と言われ続けたら、生徒は「掃いたらどうするんですか?」「ぞうきんは濡らすのですか?から拭きですか?」などの疑問、更なる指示を要求するようになるだろう。更に、「集めたゴミを取って捨てる」「使ったぞうきんを洗う」など、もっと具体的な指示も必要になるだろう。生徒は、「掃除をする」目的が、「その場所をきれいにする」ためではなく、「自分が箒を持って掃く仕草をする」ことによって、指示した教員に自分が指示に従っていることをアピールすることになっていたりする。生徒は箒を持って掃いているのにゴミが散乱したまま、ということは、実は、ときに目にする光景である。「何のためにその行為をするか」ですら、「目的を考えろ」と言わない限り考えなかったりする。
 あーあ。

 「指示待ち人間」は、中学、高校、大学と、上位の学校に行けば行くほど、教師のあいだで問題にされる。小さい頃から、よくわかるようにという配慮のもとで具体的な指導ばかりを受け続けると、指示待ち人間になりやすくなるのではないか。しかも、指示する人間ばかりみる癖がつき、おそらく、経験的に思われるのは、「自分より上手な人を見てまねぶ」こともしなくなるのである。これはミラーニューロン?の働きが悪いと言うことだろうからかなり「重症」であろう。

 「具体」とは、実にさまざまな行為や事象や事物を指すから、全部一つ一つの異なるものについては、おそらく「言葉」が存在する限り、すべて述べないことに指導にならない。
 しかし、一般社会において言明されるのは、「ちょっとした方法だけ」だったり、「最終的な目的」だけだったりする。そんなときに求められるのは、自分で考える能力である。これは、大人になって社会人になったから、即、身に付く能力ではない。小さいときから少しずつ試行錯誤しながら、失敗をしながら獲得していく能力である。
 よって、子供に何らかの指導や指示を与える際に最も重要なのは、その場でこちらの意図するように子供の動かすことそのものではないことだ。子供はゲームの駒ではない。意図することをさせる過程そのもので、子供は自己の考え、試行錯誤する能力そのものを高める力を獲得しなければならない。子供にさせる行動や行為は、それそのものが目的でありながらも手段でなければらないのである。この点、近頃の教育は、方法論が徹底しているから、子供に自分で考える隙を与えないのである。これがいけない。
徹底させることが教育であるという勘違いだろう。
 
 一方、「ちゃんとしなさい」と言う、謂わば、「いい加減な指導」を受ける子供は、「ちゃんとする」とはどういうことであるかを考えなければならない。「ちゃんとする」という非常に曖昧な表現は文脈に依存するから、自分が今どのような状況にあって、自分は指示する人から何を期待されているのかも、すべて自分の頭で考えなければならない。これは、一時的には、指示が伝わらない状況を生み、さらに子供はわかりにくく実に不快で、指示を出す側も意図が伝わらないから不快になりかねない。
 双方にとって、正直言って、良いことが何もないのである。しかるに、こうした「伝わらなさ」こそが思考力を育むのではなかろうか。
 「掃除をしなさい」でも同様である。与えられた時間が5分なのか、30分なのか、1時間なのか、丸1日なのかで同じ場所の掃除の仕方が変わるだろう。その場にある道具によって方法は変わるだろう。これは、自分で考えて判断するほかない。たとえ同じ場所の清掃であっても、5分で行う掃除と丸1日かける掃除では、やることが全く異なるだろう。
 
 人間の思考は、具体的なものを抽象的にとらえたり、また、違う角度でとらえたりできることである。ところが、指導や結果を急ぐ、言葉を換えれば非常に効果的で効率的な指導、誰でもきちんとわかるように伝える具体的な指示や指導は、教育において最も重要であろう能力の伸長を阻んでいるのである。(念のために言うが、私は、「作業的な能力」を言っているのではない。)

 なんと皮肉なことでしょうか。

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