「教育に強制は付きものだ」と言うと、途端に反発する人がいる。強制と言っても、された側が意識できる強制と、意識できない、独りでにそうせざるを得なくなる強制の2種類があると私は思うが、おそらく、「強制」に反発を感じる人は、後者を強制と見なすまい。
強制嫌いの人たちの判断の基盤にあるのは、快不快の感覚だろう。人から無理矢理「しろ」と言われたりさせられたりするのは、端的に言って「不快」なのである。しかし、自分が納得したうえでするのは、実質的に不快感を感じることであっても、何らかの「意味」や「意義」を見出しさえすれば不快を軽減することができるから、強制されたという気分が減じる。「納得する」ということだ。しかし、納得できない不快は減じることが出来ないゆえ、不快は不快でどうしようもない。つまり、これは「脳の判断」に支配されたものではないかと思う。納得するのは脳だからだ。
快不快は、本来、身体的な感覚だ。風呂に入れば気持ちいいし、不味いものは不味いのである。しかし、そこに、何かしら意識的なものが加わると、快不快は身体性を逸脱する。不味くても、「健康に良い」と納得していれば、同じ不味さも軽減されるということだ。これは、意識が身体を支配し始めたと言い換えて良かろう。
ってことは、教育における強制を嫌う人たちは、身体性より脳に依存しているということになる。
「強制はいけない、納得させろ」は現代人の考え方である。現代社会がそれだけ脳化され、身体性を失いつつある時代であるということがよくわかる一例と言えよう。
う~む、そうか。教育に強制がつきものだという考え方が、昔ながらのものだと思うが、そのように考える私のような人間の方が、身体性に準拠し、地に足が着いた生き方を志向しているということになる。不味いものを不味いと感じた自分をそのまま受け容れ、あえて、これが美味いものであると思い込ませない自分の身体感覚に対する正直さを大事にする生き方と言うことだ。
さあ、皆さん、どっちが良いと思いますか?(別に二者択一というわけでないけど。)
強制嫌いの人たちの判断の基盤にあるのは、快不快の感覚だろう。人から無理矢理「しろ」と言われたりさせられたりするのは、端的に言って「不快」なのである。しかし、自分が納得したうえでするのは、実質的に不快感を感じることであっても、何らかの「意味」や「意義」を見出しさえすれば不快を軽減することができるから、強制されたという気分が減じる。「納得する」ということだ。しかし、納得できない不快は減じることが出来ないゆえ、不快は不快でどうしようもない。つまり、これは「脳の判断」に支配されたものではないかと思う。納得するのは脳だからだ。
快不快は、本来、身体的な感覚だ。風呂に入れば気持ちいいし、不味いものは不味いのである。しかし、そこに、何かしら意識的なものが加わると、快不快は身体性を逸脱する。不味くても、「健康に良い」と納得していれば、同じ不味さも軽減されるということだ。これは、意識が身体を支配し始めたと言い換えて良かろう。
ってことは、教育における強制を嫌う人たちは、身体性より脳に依存しているということになる。
「強制はいけない、納得させろ」は現代人の考え方である。現代社会がそれだけ脳化され、身体性を失いつつある時代であるということがよくわかる一例と言えよう。
う~む、そうか。教育に強制がつきものだという考え方が、昔ながらのものだと思うが、そのように考える私のような人間の方が、身体性に準拠し、地に足が着いた生き方を志向しているということになる。不味いものを不味いと感じた自分をそのまま受け容れ、あえて、これが美味いものであると思い込ませない自分の身体感覚に対する正直さを大事にする生き方と言うことだ。
さあ、皆さん、どっちが良いと思いますか?(別に二者択一というわけでないけど。)
はじめまして。
といっても、ほぼ1年ブログを拝見しております。
私は長く会社勤めをしていたのですが、縁あって今年度から学校で仕事をしています。
高校生に英作文をどうやって教えようかとネットで探して時に出会ったのが先生ブログの「私が受けた英作文の授業」というタイトルでした。すごく参考になりました。
やっと無事に1年を終えましたが、学校現場に初めて飛び込んだ者としては、良くも悪くも毎日が驚きの連続でした。正直、疲れきったし、ヘコむことの方が多かったのですが、そんな私を元気づけてくれたのが先生のブログでした。ありがとうございます。
勝手ながら、これからも毎日チェックさせていただきます!よろしくお願いします!
「私が受けた英作文の授業」を、久しぶりに読み返しました。長いけど、けっこう良いことを書いてますねぇ。(笑)
ひとさまのお役に立てたとは、幸甚ですが、もっと良い作文指導の書き物もあると思いますよ。技術も大事です。(私にはない。)
私の書くものの良いところは、「姿勢」を書いていることだと思います。多くの指導書は、具体的な項目だけですから、私はそこんところに逆に違和感を感じます。
ある生徒が、acutualyと書いて間違えたのですが、この子、絶対に出来ない子だと思う。ac「u」がマズイ。この子は、母音と子音の区別がよくわかってないのだから、認知(?)のレベルから改善しないとできるようにならない。多くの指導は、ろくに歩けない生徒に助走してジャンプしろ、と言っているのではないかと思うことがあります。まあ、世間に出ると、とにあっく格好を付けるというか、仕上げることが大事だから、こういう方法もアリだと思いますが、勉強の理解にはなかなかムツカシイ。でも、こういうこと、意外に多くの先生に通じない気がします。生徒も認識しないし。世間の尺度でないから仕方ないのだろうけれど。
私のブログで良かったら、どうぞ,いくらでもお読みください。気楽に遊んでってください♪
教育の強制に関してですが、教育には納得よりも先に強制が必要だと思います。
というのは、私は、強制力が伴った教育の中で納得を得て徐々に強制に対する不快感が消えるのではないかと思うからです。
ですが、やはりこの考えでは相当の忍耐力が必要でしょう。
教育者の強制力と被教育者の忍耐力の調和が重要なのではないかと
納得ばかり追及すると膨大な時間がかかりますしね
例をあげれば、暗記と理解のどちらが優先されるべきかが度々問われるのと同じことなのではないかなと
思いました。
夜も更けてますので端折らせてください。
「納得」は、商業主義と関係するかなとか思ったりします。でも、教育は、商業主義ではないから。それに、納得はその人の意思と関わります。いかなる理由であろうと「納得しません」と言ったら、それまでだし。
日本語の「面白い」という言葉がくせ者なのですよね。「わっはっは」と「ふむふむ」が一緒になるから、ふつーの子供は「わっはっは」をまず面白がるから、忍耐の後にやっと到達する面白さをなかなか理解しません。
世の中、勉強に対する誤解が蔓延していると思います。学校の中でもそうだから、どうなるのだろうか? いかに今の世の大人が、ちゃんと勉強をしてこなかったかということでもあるでしょうね。
また気楽に遊びに来てください♪
>いかなる理由であろうと「納得しません」と言ったら、それまで
だから科学は実験室で証明してみせる.あるいは「こんな鉄の塊が空を飛ぶわけない」と言っても,飛行機にのせられてハワイに連れて行かれたら反論できない.
その人の意思に関わりなく認めざるを得ないのが「強制了解」.
「納得させろ」じゃなくて「納得したくない」けど「認めざるを得ない」.それが科学の側面.
「納得したくない」というのも現代人の特徴だと思います.いずれにせよ自分の意思のほうが高級だと思っている.
「科学は宗教の解毒剤」というのも養老先生の言葉ですが,日本の公教育は基本的に宗教は扱わない.その一方で科学はどんどん扱おうとなっていますが,科学も宗教も同根のはずです.
最近,「科学技術」という言葉を「科学・技術」と科学と技術のあいだに「・」を入れることが推奨されるようになってきましたが,おそらく学校教育で盛んにやられているのは「技術」のほう.
真に科学を扱うと宗教と同じで危ないことになる…と思っているのでしょうが,僕が考えるに,宗教も,本当の意味での科学も扱わない教育は極めて危険です.
おそらく僕が上に書いたのは,ほり先生のこのエントリを別の角度から述べているだけで同じことを言っているのだと思いますが,強制というものをもう少し幅を広げると当たり前のことなのですよね.自分独自の日本語の文法を使っても通じませんから,日本語の文法を「強制」されている.英語もしかり.
「強制」じゃない教育ってあるんでしょうか?
なのに強制はけしからんという人が科学教育は推進する.日本は科学技術立国だと.
大きな矛盾を感じます.今の日本の学校で科学を教えることができるのか?この状況で理科離れなんてよく言うよなぁ.
問題なのは理科や科学のほうじゃなくて,思想・哲学のほうでしょう.
また、もう、難しいことを。。。(ほりがよくわからないだけの話なので、構わないのですが。)
アポロの月面着陸はでっち上げだという主張があるそうですね。そんな話を思い出しました、私はひねくれ者。
手品やマジックも、「実際にこの目で見たんだ、ウソじゃない」とか。
いくら強制了解と言っても、論理的な思考などの素地がないことに無理でしょう。納得しない奴は納得しないし、納得する人は容易に騙される。
「素地」が、思想・哲学になるのかなぁ。それが科学教ということかな。
日本にいたら、日本語を習得せざるを得ないということ、養老先生、書いていたような気がしてきた。その通りなんですよね。それで、これも強制だ、というと、そうじゃない、そう言うことは強制と言わない、
足場がしっかりしてない立ち位置では科学は無理です。
納得する、納得しないというのも脳味噌が勝っている世界観ですね。
>日本にいたら、日本語を習得せざるを得ないということ、養老先生、書いていたような気がしてきた。その通りなんですよね。それで、これも強制だ、というと、そうじゃない、そう言うことは強制と言わない、
の後、
「と言う人はけっこういるように思います。」が完璧、抜けてます。
まあ、科学というのは、世界観だから、どんな前提でものを言うかによって、変わるけど、その共通認識を持つのが難しいのではないかしら、とか。
その足場を作るのが、思想、哲学なのだろうな。
養老先生が、物質が原子で出来ているという考え方とアルファベットの共通点を述べています。西洋的な考え方だとか、言ってなかったかしら。そういうことでしょう。