考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

主観はカラダ、客観は脳

2010年03月24日 | 教育
 客観性が大事だと言うが、客観とは、他人との共有を求めるということである。他人を説得するのに有用になるのが客観性、客観ということで、しばしば数字が用いられるのは、「抽象」としての共有物だからだ。(抽象とは「同じ」を表すものである。)しかし、外界を捉えることそのものは、捉えるその人にしかできいないことである。これは感覚に根ざして行うことであり、具体的には「暑い」、「寒い」等の主観と言い換えることが出来る。つまり、人によって大いに異なるというわけだ。よって、他人と共有できないものだから説得力に欠け、客観の下に見られることが多くなる。何かの説明を求める際の批判として「それはあなたの主観だ」と言う言葉があるだろう。
 しかし、現実の世界を捉えるのに必要なのが、まずは各人の感覚に基づく主観的な判断であるのは間違いのない事実である。これは、客観も主観あればこそということだ。学校の勉強は、抽象であるからには客観が重視されるが、近頃の生徒を見ると、客観の元になる肝心な主観に乏しいように思われる。主観というより、そもそもの「感覚」が乏しいのである。自分では何も感じない、ということだ。先生が大事だと言うことをただ単に覚える、公式を当てはめて問題を解く、などのことは行う。しかし、それぞれに実態的な感覚がないように感じられる。もっとも、私だって、中高生の時にしっかりと体感して勉強をしたかどうかと言われてもアヤシイ側面はある。それでも、「勉強」として目の前に突きつけられた抽象をより具体的なものとして自分の感覚で捉え直そうとする姿勢という観点で生徒を見ると、何だかなぁ、という気がしてならない。
 モノを捉える感度が鈍いから、主観も育たず、客観性はただふわふわ宙を漂っていうのが現実ではないかと思う。抽象が、あまりにも空に浮遊しているかのようである。まるで虚構の脳化された社会に生きているように思われる。

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