考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

実は客観よりも主観の方が大事です

2010年03月20日 | 教育
 生徒の文理選択をどうするかという話で、どうみても、文系的な生徒が理系に進んで進学先がぱっとしないところになる、というのは実はよくあることである。もっとも「本人の希望」でそうなるのだが、わずか15か16の時点(高一で選択し、2年から文理別になる。)での選択が果たして正しいのだろうか、という疑問が残る。文理分けではないが、「保育士になりたい」という希望の生徒のきっかけは、私が知る分には、ほとんど全てが中学生の時の職場体験で、唯一行った保育園訪問である。
 文理分けの話をしたかったわけでない。そのとき、担任として他の選択を勧めることが出来るか出来ないか、と言う話をしていて、「しかし、結局、判断は主観的なものだから、こうだ、とは言い切れないよねぇ」というところに落ちた。私はちょっと釈然としなかった。
 判断というものは常に主観である。それで、主観の根拠になるのは、その人の「感覚」である。私が物理が出来なかったのは、物理的な捉え方、物理の感性に全く欠けているからだ。ぱっと、言われて、瞬間的に、そうだ、と判断が出来るのは、何らかの感性が自分に備わっていてのことだ。
 何であれ、判断の根拠を客観に求めることは多い。人を説得するときには、「数字」などの客観が重視される。しかし、イチローがホームランを打つときに、球をバットのどこに当てるかという判断は、他人に説明できるような数字などの客観ではない。あくまでも、彼の「感覚」である。熟練工が、ミクロンか何かの単位で金属を削るのは数値ではない。彼自身の感覚である。測定器械は、それを作る人の感覚以下のものでしかないからには、優れた人間の感覚が最も頼りになるのである。大事なのはこうした感覚だが、これは、他人から見ると、「主観」にしか見えないものである。
 よって、文理分けの適性にしても、短絡的に「大学入試」の点で、より良い「成果」を挙げたかったら、熟練工のような主観に基づいての判断が最も良いと言うことになる。それには、経験ということになるか。
 しかし、上記、あくまでも「目先」についてのみ述べたものである。生徒個人にとって、「本人の希望」に沿うのが良かったのかそうでない方が良かったのかは、長い目で見てもまあ、なかなかわかるものでない。「じゃあ、どっちだって良いじゃないか」となるなら、目先を取る、というのも選択である(と、学校に好都合の結論だなぁ)。

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