考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

無意識を意識化する

2011年08月06日 | 教育
 勉強が出来る子と出来ない子の違いは、感性という感覚の問題と、無意識的に知っていることをいかに意識化できるか否かの問題だろう。
 出来ない子は総じて鈍感である。差異に気がつかない。出来るようになりたかったら、感覚を鋭敏にすればよいわけだが、これがなかなか難しい。しかし、結局、究極の学力増強は、この方策で、これしかない。
 「感覚」の視点でいうと、そもそも情報が入力されないとき、さらに、入力されてはいれも気がつかなければどうしようもない。たとえば「目が見えない」状態は、目からの情報入力がされていない。これはどうしようもない。近視や老眼であればレンズの助けを借りる必要があるだろう。しかし、入力はされているのに「見えない」ことがあるらしい。失明していた人が手術をして見えるようになるときとは、包帯を取って、それですぐに感動の一瞬が訪れるわけではないと聞く。光が目に入っても、脳がそれと認識しない限り「見えた」ことにならないからだそうだ。だったら、「脳に意識をさせる」ことが勉強について重要になろうというものだ。同じ脳みその話だから当てはまろう。
 また、昔、教材で読んだ話だが、足が動かないせいで歩けなかった子供が歩けるようになった話があった。専門医の指導で、訓練士や母親が足を動かす体操を施すことで脳を活性化させ、逆に、自分の意思で足を動かせるようにし、少女は歩けるようになった感動的な話である。(そういえば、コミュニケーション英語とか何とか言われてから、この手の教材がなくなったなぁ。)
 キュービズムのピカソが天才なのは、通常は無意識に行っている脳の中の空間ととらえ方を外に出して表現した点である。デュシャンの「階段を下りる裸婦No.2」は運動モジュールを描いた。ピカソもデュシャンも、作品の様相は全く異なる。しかし、いすれも網膜に映る絵画ではなく、脳の絵画である点が一致している。(←「見る脳・描く脳」岩田誠著にあるよ。)彼らが天才なのは、「無意識的に我々誰もが知っていたり行っていることを意識化した」からである。ニュートン万有引力の発見も同じである。
 だったら、同じことを勉強で行えば良い。無意識を、無理矢理にでも意識化させるのである。これ以外に、効果的な方法はないだろう。
 この意味で、作業的な訓練を特別な指導なしに単なる作業として行うことは、必ずしもその生徒の意識化する能力や感性を育てるわけではないから良い学習法と言えない。この点、上記の足の運動とは異なるだろう。昔、英語ではパターンプラクティスが流行ったが、効果的でなかったのですぐに廃れた。もし、「作業に効果があった」としたら、作業そのものが触媒のような働きをして生徒が自ら意識化することを発見したからである。もっとも、同じ作業であっても、指導者が適切に、つまり、生徒の感覚や意識化する能力を固めるように指導すれば、効果が異なるだろう。
 具体的にどうするかは、教科によるし、教える事項による。確実に言えるのは、勉強を教えることとは、単なる作業や、単なる知識の伝授では決してないということだ。

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