考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

考え方の理解は、次元や意味探索能力の問題

2006年07月30日 | 物の見方
 養老先生の思想を理解するのは難しいが、それでも、理解できる部分はいくらかある。読んでいて、なるほどともの凄く納得できるのだ。こんなものの見方があったのか、と目から鱗なのである。
 しかし、私が感心する養老先生の考え方を批判する人もいる。彼らは、なぜ、批判するのだろうか。そういう人たちのものの見方というかスタンスはどんなのだろうか。反対する人の意見を聞くと、「あ、わかってないなぁ」と思う。「そうじゃないんだって、先生の言いたいことはね、、、」と感じる。しかし、それ以上説明できる言葉が出てこない。たぶん、アタマのいい人たちなのだと思う。それなのに、理解しない。人の考えがわかるとはどういうことかと思う。わからないのはどうしてかとも思う。
 学校で話をしていても、私の話が通じない、というか、わかってもらえないことがかなりある。「間違っている」と言われたことも何度かある。養老先生に言わせれば、これもそれも「バカの壁」なのだろうが、何故それが生じるのだろうか。
 逆に考えて、なぜ、私は養老先生の考えを「わかる」と感じ、しかも感心し、興味深く思うことができるのだろうか。違いはどこにあるのだろうか。

 養老先生の考えに反対する人の意見を聞くと、「わかってないなあ」と感じながらも「あ、なるほど」と思う。その人に同意しての「なるほど」ではない。「その人の思考の枠組みが感じ取られる」と言う意味での納得である。

 「考え方」を私のコトバで説明すると、「原点を起点とするベクトルの次元(あるいは座標軸)」である。考え方の道筋、価値観である。考え(ものの捉え方)をどの方向に走らせているか、である。
 養老先生が、言語は視覚と聴覚を結びつけたものだという。視覚は空間を捉え、時間がない、時間が止まっている。一方の聴覚は時間である。だから、人間の考える次元は空間の3次元と時間の次元を合わせた4次元なのだということである。(「考える人」今季号にもあったと思う。)これほど明確な説明はない。(私は子供の時から、なぜ次元は空間の3次元と時間を合わせた4次元なのだろうと思っていたが、その答えがやっと本当にわかった。しかも、目は2コだから空間が3次元になった。目が1コだったら、視覚情報は2次元の平面だっただろう。)人間は、この4つの次元で外界を捉えて理解しているというわけである。

 これと似た考え方で、個々の思想も捉えられるように思う。(←これ、今、この文章を書いていて思いついた。で、自分で妙に納得している。だって、前々からの「知的作業能力」と「意味探索能力」という視点の考え方で、ベクトルの次元を考えていたから。それらが結びついて、とってもクリアになった気分。嬉しい♪♪ ちなみに、この能力については過去記事でいくつか書いてます~。)
 空間と時間が人間としての普遍的「ものの見方」ならば、個々人のものの見方に固有の次元があって良かろうと言うことだ。
 (うん、そうだ、きっと、そうだ。わくわく。)
 (うん、なんか、繋がった気がする。うれしー♪)

 えー、筆が走りそうな気がするが、内田先生が26日のブログに「知的に6才のままの大人」問題を指摘していた。これも、要は同じ問題である。内田先生の言う「幼児的なモチベーション」は考え方や価値観、要は「次元」の問題である。「オレ的に面白いか、面白くないか」とか「金になるかならないか」という六歳児でもわかるモチベーションをもたらす価値観は、ただ「六歳でもわかる低次元」でしかないということである。

 では、学校の勉強とは何か、それが問われる。私の解答は「次元を増やすためにやるもの」だということだ。そう考えると、全ての辻褄が合うのである。

 しかるに、昨今の問題は、「次元」を増やす学習、私の言葉で言う「意味探索能力」を増やしたり豊かにしたりする方向ではなく、「知的作業能力」を高めることを大きな目標にしてきていることなのだ。
 だから、「効果的な学習」が良しとされてしまうのである。原点を起点とするベクトルで喩えるとわかりやすい。ベクトルの次元(座標軸)、つまり矢印の方向は「意味探索能力」で、ベクトルの大きさ、矢印の長さが「知的作業能力」に喩えられる。効果的な学習というのは、目標を定めた上でのものである。つまり、方向の定まった矢印をひたすら速く長く、どこまで効率よく進むことができるかを課題にする学習である。あらかじめ方向の定まったベクトル、その人が既に持っている価値観、言い換えれば、「わかりやすさ」に則った価値観上をひたすら走り続けることである。これは、その人がまだ持っていない価値観、意味探索能力を開発しない。(だから、「わかりやすい授業」が良いことにならないのである。)

 これまで過去記事に書いてきた「意味探索能力」は、抽象化・概念化の視点で述べた内容である。それが間違いだったわけではないが、自分の中で釈然としないものがあった。たぶん、階段を一つ飛ばしていたのだ。しかし、「意味探索能力」を視覚が捉える空間や聴覚が捉える時間と同じ次元で述べてかまわないことに、今、気が付いた。♪♪ で、普遍的人間と個人が結び付いたわけだ。

 内田先生が問題視する「幼児的なモチベーション」は、意味探索能力の意味で、低い次元にあるのだ。「次元」という見方をすれば、大人も子供もない。で、今の学校教育でやっていることが「作業能力重視」だから、幼児的なモチベーション、価値観のままに作業能力ばかりを重視するから、「知的に六歳の大人」が大量生産されるということになる。

 うん、そうだ。すっきり~♪

 うん、だから、「バカの壁」は、次元の問題である。えっ?そんなこと当たり前だって!? 私は、今、意味探索能力の点でも考えられることに気が付きました。で、ホントは、途中で、生徒の叱り方にも触れようかと思ったのだけれど、ちょっと時間切れ。もう、寝ます。

 お付き合いくださいまして、どうもありがとうございました。今回の文章、わかりにくくてすみません。(追記:朝になってからちょっと直しました。)いつもありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いします。
 おやすみなさい。



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