(これ、「善良」な人たちにはめちゃくちゃ顰蹙ものだろうなぁ。。)
私は、生徒や親御さんには、学校に「楽しい授業」「わかりやすい授業」「みんな良い先生」を求めて貰いたくないと思っている。もっと言うと、求めるべきものではないと思っている。なぜなら、「楽しい授業」や「わかりやすい授業」「みんな良い先生」は、「宝くじ」のようなもので、宝くじに当たったからといって、その人が真の幸福を得られるわけでないからだ。
宝くじは、当たればトクをした気分になる。しかし、一度当たったからと言って、また当たるとは限らない。「いや、やはりくじに当たるのは幸せなことだ」と思うかもしれない。しかし、次から次へと宝くじに当たり続けた人が、それで「幸せな人生」を歩めるようになったかというとそうでもなかろうし、そもそも「当たり続ける人生」なんてあり得ない。高額のくじに当たったがために人生を破滅させた人もいる。そんな話をあなただって聞いて知っているはずだ。
子供が気に入る授業や担任の先生というのも同じである。たまたま「良い先生」だったからといって、次もまた「良い先生」を期待するのは、一度くじが当たったから、次もまた当たると思っているようなものだ。人間とは実に不思議なもので、一度運良く当たったとなると、「次もまた当たる」と思い込んでしまう。だものだから、「外れ」とわかると、途端にがっかりする。「こんなはずではなかった」と思う。
ここまで読んで、「わっはっは。」と笑った人と、「学業に関わることを宝くじなどの賭け事をたとえに出すとはなんとけしからんことだ。」と憤慨した方がおられよう。また、「この人は、重大な過ちを犯している。宝くじは自分の意思で買うものだが、学校はそうでない。例えそのものがずれているではないか」と反論する人もおられよう。
困ったことに、人生とは、賭け事をするつもりがなくても「賭け事」に巻き込まれてしまうものである。親は選べないし、生まれる時代も国も、政治制度も選べない。学校も、先生も、実は、同様なのである。
しかし、納得しない人は多かろう。「要求すれば通る」という思い込みがあるからだ。この種の思い込みは、民主主義という政治制度のもとの幻想である。なぜ幻想かというと、せっかく選挙に行って投票をしても、必ずしも自分の思い通りの政策や制度が実行されるわけでないし、「ああ、これは面白い。良い政治家だ、成果主義良いな。実力主義良いな。努力する者が報われるのは当然である。競争をしよう。」という認識でなされた数々の政策(?)が、数年経ったらとんでもない理不尽を招くものだとわかってきた例もあるではないか。今の日本の国民の非常に多くの実感であろう。(これに関しての反論はなかろう。)
学校も実は同様なのである。要求すれば叶うものでないのである。それでまた、以下に述べる方が重要事項であるが、非常に困ったことに、多くの子供たちとその親御さんが「楽しい授業」「わかりやすい授業」「みんな良い先生」を求めれば求めるほど、学校の先生は頑張って「楽しい授業」「わかりやすい授業」をしようと努力し、「みんな良い先生」になろうと努力するのである。しかし、非常に恐ろしいことであるが、先生がそんな努力をすればするほど、実は、結果的に、学校の授業や先生全体のレベルはどんどん下がっていくのである。「楽しい授業」「わかりやすい授業」はものの数%の授業だけにとどまり、他の9割以上の授業は「全くつまらない授業」「わからない授業」になる。先生も「良い先生」は100人に2,3人だけで、他の90人以上の先生が「はずれ」の先生になっていくのである。
「そんなはずはなかろう。努力すればできるはずだ。努力の仕方が間違っているのだ。」と思われようが、正しい努力をしても100mを11秒で走れるようになる人は少ないし、甲子園に出られない球児は多い。希望の大学に入れない生徒も多くいる。(ついでに言うと、あんなに勉強をしても私は物理がわからなかった。)しかし、この問題の主たる要因は、「努力」でないのである。根底に、実は、更に以下に述べる、全く別物の要因が潜んでいるのである。これが大きい。皆がわかって楽しい授業を目指したはずの「ゆとり教育」の授業がそうでなかったとわかったのがも好(?)例の一つである。
理解しがたいことだろうが、なぜ先生が努力をしても、更に、努力をすればするほど、親や子供が願う「楽しい授業」「わかりやすい授業」「良い先生」からずれていく理由は、「楽しさ」「わかりやすさ」「良さ」とは、すべてが「極めて相対的な価値基準に則って決定されるもの」だからということなのだ。つまり、そもそも最初からボタンを掛け違えていたのである。
しかし、この「相対性」、および、「ボタンの掛け違い」を理解しない人は多いだろうと思う。諸悪の根源たるこの理由は、なかなか理解できるものでないと私は思っている。わかる人は、私のこれだけの説明で十分にご理解いただけるはずだし、もし、この説明でわからなかったとしたら、あなたは、おそらく、いかなる説明を聞いても決してわからない。
「私は時代相応の人並みの教育を受け、教養も身に付けた。だったら、理解できるはずだ。もう少し、わかるように説明できるはずだ。」と思われたとしたら、非常に残念であるが、普通のレベル、あるいは、普通を多少超える程度であっても、これはあなたに理解できることでない真実であると申し上げる。私は経験的に、偏差値55(「偏差値55」という数字は、大学受験の模擬試験における偏差値である。知的レベルで言えば、世間一般の平均をかなり高く超えるレベルである。)程度までの理解力ではなかなか理解できるものではないということを知っている。偏差値55レベルは、「自分が理解したいと思っていることは、説明されれば必ずわかる。真実は、自分の考え通りになっている」と無意識に考えがちになる人たちである。「いかなる説明を聞いても自分にわからないことがある」ということを理解しない、あるいは、自分に理解できないことを排除して世の中を捉える傾向がある人たちである。目的が合格点や平均点などの「点」を目指す勉強はできても、根本的な原理からしっかりと理解する勉強を自分一人ではやりようがない人たちでもあろう。「勉強をするとわかるようになる。」と考えて「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」とは思わない人たちである。私がこの段落で言いたいのは、「かなり多くの学校の先生を含めて、世間のほとんど大部分の人は、この理由を理解し得ない」と言うことである。
「宝くじは、当たったら、その後が恐い」と思うのが、人間、幸せになれるのである。
私は、生徒や親御さんには、学校に「楽しい授業」「わかりやすい授業」「みんな良い先生」を求めて貰いたくないと思っている。もっと言うと、求めるべきものではないと思っている。なぜなら、「楽しい授業」や「わかりやすい授業」「みんな良い先生」は、「宝くじ」のようなもので、宝くじに当たったからといって、その人が真の幸福を得られるわけでないからだ。
宝くじは、当たればトクをした気分になる。しかし、一度当たったからと言って、また当たるとは限らない。「いや、やはりくじに当たるのは幸せなことだ」と思うかもしれない。しかし、次から次へと宝くじに当たり続けた人が、それで「幸せな人生」を歩めるようになったかというとそうでもなかろうし、そもそも「当たり続ける人生」なんてあり得ない。高額のくじに当たったがために人生を破滅させた人もいる。そんな話をあなただって聞いて知っているはずだ。
子供が気に入る授業や担任の先生というのも同じである。たまたま「良い先生」だったからといって、次もまた「良い先生」を期待するのは、一度くじが当たったから、次もまた当たると思っているようなものだ。人間とは実に不思議なもので、一度運良く当たったとなると、「次もまた当たる」と思い込んでしまう。だものだから、「外れ」とわかると、途端にがっかりする。「こんなはずではなかった」と思う。
ここまで読んで、「わっはっは。」と笑った人と、「学業に関わることを宝くじなどの賭け事をたとえに出すとはなんとけしからんことだ。」と憤慨した方がおられよう。また、「この人は、重大な過ちを犯している。宝くじは自分の意思で買うものだが、学校はそうでない。例えそのものがずれているではないか」と反論する人もおられよう。
困ったことに、人生とは、賭け事をするつもりがなくても「賭け事」に巻き込まれてしまうものである。親は選べないし、生まれる時代も国も、政治制度も選べない。学校も、先生も、実は、同様なのである。
しかし、納得しない人は多かろう。「要求すれば通る」という思い込みがあるからだ。この種の思い込みは、民主主義という政治制度のもとの幻想である。なぜ幻想かというと、せっかく選挙に行って投票をしても、必ずしも自分の思い通りの政策や制度が実行されるわけでないし、「ああ、これは面白い。良い政治家だ、成果主義良いな。実力主義良いな。努力する者が報われるのは当然である。競争をしよう。」という認識でなされた数々の政策(?)が、数年経ったらとんでもない理不尽を招くものだとわかってきた例もあるではないか。今の日本の国民の非常に多くの実感であろう。(これに関しての反論はなかろう。)
学校も実は同様なのである。要求すれば叶うものでないのである。それでまた、以下に述べる方が重要事項であるが、非常に困ったことに、多くの子供たちとその親御さんが「楽しい授業」「わかりやすい授業」「みんな良い先生」を求めれば求めるほど、学校の先生は頑張って「楽しい授業」「わかりやすい授業」をしようと努力し、「みんな良い先生」になろうと努力するのである。しかし、非常に恐ろしいことであるが、先生がそんな努力をすればするほど、実は、結果的に、学校の授業や先生全体のレベルはどんどん下がっていくのである。「楽しい授業」「わかりやすい授業」はものの数%の授業だけにとどまり、他の9割以上の授業は「全くつまらない授業」「わからない授業」になる。先生も「良い先生」は100人に2,3人だけで、他の90人以上の先生が「はずれ」の先生になっていくのである。
「そんなはずはなかろう。努力すればできるはずだ。努力の仕方が間違っているのだ。」と思われようが、正しい努力をしても100mを11秒で走れるようになる人は少ないし、甲子園に出られない球児は多い。希望の大学に入れない生徒も多くいる。(ついでに言うと、あんなに勉強をしても私は物理がわからなかった。)しかし、この問題の主たる要因は、「努力」でないのである。根底に、実は、更に以下に述べる、全く別物の要因が潜んでいるのである。これが大きい。皆がわかって楽しい授業を目指したはずの「ゆとり教育」の授業がそうでなかったとわかったのがも好(?)例の一つである。
理解しがたいことだろうが、なぜ先生が努力をしても、更に、努力をすればするほど、親や子供が願う「楽しい授業」「わかりやすい授業」「良い先生」からずれていく理由は、「楽しさ」「わかりやすさ」「良さ」とは、すべてが「極めて相対的な価値基準に則って決定されるもの」だからということなのだ。つまり、そもそも最初からボタンを掛け違えていたのである。
しかし、この「相対性」、および、「ボタンの掛け違い」を理解しない人は多いだろうと思う。諸悪の根源たるこの理由は、なかなか理解できるものでないと私は思っている。わかる人は、私のこれだけの説明で十分にご理解いただけるはずだし、もし、この説明でわからなかったとしたら、あなたは、おそらく、いかなる説明を聞いても決してわからない。
「私は時代相応の人並みの教育を受け、教養も身に付けた。だったら、理解できるはずだ。もう少し、わかるように説明できるはずだ。」と思われたとしたら、非常に残念であるが、普通のレベル、あるいは、普通を多少超える程度であっても、これはあなたに理解できることでない真実であると申し上げる。私は経験的に、偏差値55(「偏差値55」という数字は、大学受験の模擬試験における偏差値である。知的レベルで言えば、世間一般の平均をかなり高く超えるレベルである。)程度までの理解力ではなかなか理解できるものではないということを知っている。偏差値55レベルは、「自分が理解したいと思っていることは、説明されれば必ずわかる。真実は、自分の考え通りになっている」と無意識に考えがちになる人たちである。「いかなる説明を聞いても自分にわからないことがある」ということを理解しない、あるいは、自分に理解できないことを排除して世の中を捉える傾向がある人たちである。目的が合格点や平均点などの「点」を目指す勉強はできても、根本的な原理からしっかりと理解する勉強を自分一人ではやりようがない人たちでもあろう。「勉強をするとわかるようになる。」と考えて「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」とは思わない人たちである。私がこの段落で言いたいのは、「かなり多くの学校の先生を含めて、世間のほとんど大部分の人は、この理由を理解し得ない」と言うことである。
「宝くじは、当たったら、その後が恐い」と思うのが、人間、幸せになれるのである。
「良い先生」の相対性について、常々感じていました。子供にしてもその保護者にしても、先生の良し悪しは、「昨年の先生は。。今度の担任は。。」という相対性で語ります。「それらが全て」において、どうしても比べた判断をしがちになるけれど、賢い親は「今年の先生は、これこれを大事にする先生、昨年の先生は、何々を大事にした先生」というような価値基準を変えて判断します。「良し悪し」という単純な一つの物差しで測りません。
以下、独り言。
「宝くじ」は余分だったかしら?(笑)
「偏差値55」は、上記、ちょいと書きすぎたと思っていますが、教育行政に関わっている人たち(ついでに言うと、大方の管理職)大部分の偏差値は55~あたりでしょう。大体は「先生」だから。教員養成学部だと学科の違いはあるけれど、まあ、基本的にそんなものだろうから。合格可能性が高い場合は60を超えるけれど、だいたいはドングリの背比べ。(送り出している者が言うのだから間違いない。)70以上ということは基本的にない。(70あれば、状況にもよるが易しめの旧帝大を狙う。)
70以上、80以上出の人は、たとえいたとしても、今度は逆に、「ふつー」の人たちの思考過程がわからないから、ついつい他の人の気をひくために迎合してしまうのかもしれない。内心、変だなあと思っても、日本人だから、公に口にしないのでしょうね。口にしたら、出世できないだろうし。それに、協調性があればあるほど、多数を占める下に合わせるものである。
「ぶんぶんカウンター」をつけてますが、IPを見ると、全国の私立国立とわず、大学からのアクセスがちらほらあります。先生か、学生かはわかりませんが、これ読んで、ゲラゲラ笑っているんじゃないのかな。(このブログ、面白いでしょ・笑)
また、良い先生って、、、あとからそれこそ何十年もたってから、あの先生の言っていた事がわかる!!いい先生だったなーと感じることありますよね。
>ただ、わかりやすい授業は必要ではないでしょうか?
こうした「わかりやすい授業は必要」という考え方は、落とし穴なんです。落ちる人が「ほとんど」です。
授業のわかりやすさは、小学校と高校では、また、違う側面があると思いますが、私は高校の
教員なので、「わかりやすい授業、はんたーーい派」(そんなのあるのかな?)です。
ぶっちゃて言うと、生徒は、やがて、自分ができないのを先生のせいにするようになるんですよ、自分の不勉強(と能力不足)を棚に上げて。
また、「わかりやすさ」とは、「誰でも本人が希望する限りのことはわかるものだ」という誤った前提と、暗に努力を否定する考え方に起因しているからです。
でもね、これ、なかなか理解してもらえないようですが、わかる人には一発でわかる。
以前、ある会合の雑談時、私が「わかりやすい授業はいけない」と、初対面の(ほとんど話をしてない)あるヒラの先生に言ったら、その先生に「その一言であなたが優秀な人だと言うことがわかります。ここにいる校長先生(20人くらいいた。)たちがあなたにはみんな、バカに見えるでしょ。」と言われたことがあります。(バカかどうかはともかく、ベクトルの方向が違うとは、思うけど。。。)
>また、良い先生って、、、あとからそれこそ何十年もたってから、あの先生の言っていた事がわかる!!
多くの生徒も保護者も、「今そのとき自分がどうのように感じたか」だけで評価することが多いのが現実です。
ごく当たり前のことじゃないんですか?
なぜ,こんな当たり前のことが通らないのか,僕はむしろこちらのほうに興味があります.
脳化社会だからかなとも思いましたが,それもちょっと違うような.大筋では脳化社会で説明できるのでしょうが.
例えば官僚組織の硬直性(頭の中だけの世界)にうんざりしている人はたくさんいると思います.役所に手続きに行くと発狂しそうになる.
でも一番うんざりしているのは,「ここに印鑑がないから受理できません」などと言っている官僚組織に抱かれている本人だと思うんです.
バカの壁が売れたのだって,「何かおかしいぞ」と潜在的に思っていた人がたくさんいたからでしょう.
「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」を心底理解できない人が多数いるのか,官僚組織の硬直性のように「なんとかならんものか」とは思っているが他の有効な仕組みが思い付かないから,とりあえずその状況に甘んじているだけなのか.
その状況に甘んじているからといって必ずしもそれを是とは思っていないはずです.
「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」を公言しないほうが,あるいはあえてそう思わないほうが,今の世俗を行き抜く上で得だという判断がはたらいているのでしょうか.
普通に考えれば,「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」に落ち着くと思うのですが,なぜこんな当たり前が通らないのか….
小学校と高校では違いますよね。
そして、わからないことを先生のせいにしてしまう生徒がいるのは、もしかしたら、その子達は、小学生時代に本当にわからない授業を受けてきた経験があるのかも・・・。小学校はわかる授業をしなくてはいけないと思うもので。ひらがなや音読、数の授業でわからない授業をされる先生をたまにいるもので。。。
また、高校は義務教育ではなく、自分で受けて入学してきているので、尚、先生のせいにするなんてとんでもないですよね。でも...今の子ども達は進学するのがあたり前になっていて、学ぶ場にいるありがたさ、その時間があるありがたさを感じずにいますよね。。。悲しい事です。
>なぜ,こんな当たり前のことが通らないのか,僕はむしろこちらのほうに興味があります.
それはですね、たいていの人は、ちゃんと勉強をしてないからなんです。
中学の勉強でさほど苦労しなかった能力、それなりの記憶力の持ち主ならば、大学受験で偏差値55程度の大学に入るための勉強は、「よし、この問題が解けるようにようになった」という程度で合格します。いわゆる「基本」とか「頻出事項」をそれなりに理解すれ解けてしまう。本当の勉強をしなくても、「試験対策」でできちゃうから、「勉強はすればするほどわからなくなる」まで行かないのです。
「わかった、わかった」で終わりだから、彼らは自分が頭が良いと思う。
それでまた、たぶん、お書きになった「はんこ」にしても、そうした組織に適応することそのものを「仕事をする」とか「仕事ができる」と思っている人が多いんじゃないのかな。
いつだったっけ? 内田先生ブログで、男性のおじさん対象の雑誌の記事をいかにも「おじさん風」の文体で若い女の子が書いている、とかいう話がありましたよね。私、思うのですが、たぶん、その若い女の子は、おじさんの振りをして記事を書けることを「仕事ができる」と思っているんじゃないのかな。それで、自分の仕事に疑問を感じない。(まあ、出版社に入るのは、55程度の大学では難しいだろうけど、思考の方法は余り変わらないのでしょう。)
勉強が「試験対策」「ハウ・ツーによる点取り」だったなら、仕事も似たような「ハウ・ツー」で、そこに「全人格に関わる人間としての自分自身」は反映されない。
同じに思われます。
ですから、おっしゃるような
>「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」を公言しないほうが,あるいはあえてそう思わないほうが,今の世俗を行き抜く上で得だという判断がはたらいているのでしょうか.
ということになるのでしょう。
>普通に考えれば,「勉強は、すればするほどわからないことが増えるものだ」に落ち着くと思うのですが,
ゾウムシさんも私も、ちゃんと勉強をしたんです。
>そして、わからないことを先生のせいにしてしまう生徒がいるのは、もしかしたら、その子達は、小学生時代に本当にわからない授業を受けてきた経験があるのかも・・・。
通りすがりさんのこの考えの根底にあるのは、「わからないのは先生のせいだ」と思う高校生と全く同じ認識ですね。
「悪いのは決して自分ではなく、私をこのようにした○○だ。」という被害者意識です。
ビートたけしがどこかで書いていましたが、「学校で先生に叱られた」と言うと、親から先生に叱られたとは、なんということだと、また叱られた,とか何とか。こうした親の認識は、「学校の先生の判断は常に正しい」というものでしょう。叱られるのは、子供がが100%悪かったと。
昔の先生がそんなに立派だったかどうか、実際には、わかりませんが。ただ、昔の先生は、それなりの矜恃はあっただろうし、良い意味でのエリート意識もあったし、家が貧しいから、お金のかからない(?)師範学校に行った、という人も多かっただろうから、今より多少、質は良かったかも知れませんが。
話が逸れたけれど、「学ぶ立場」にいる者が、「学ぶ」ためには、「自分は劣っている」という意識がないといけないんです。はっきり言って、「先生の教え方が悪い」という生徒に、思考力を兼ね備えて伸びていく生徒はいません。
通りすがりさんのような被害者意識的な「悪いのは私(だけ)ではない。相手に(も)非がある。」という考え方は、「学ぶ」という根源的な前提条件を踏みにじるものなんですよ。
このような言説が、このブログでも、いかなる形であれ、公然と述べられる。「述べられる」というのは、それだけで「正当化されている」ということなんです。(ここに論を俟たない。)だから、今の子供は、学べない。その意味で、気の毒ですよ。彼らは、学ぶ以前に
学ぶことそのものを外部の大人(「わかりやすい授業がよい」と考える親や学校の先生を含む)から否定されているんです。
「わからないのは100%自分が悪い」と思うことができる子供の方が、たくましく、自己の能力を伸ばしますよ。私が言う「能力」は、「テストの点数」なんていう、ちんけなものでないです。自分で自分の人生を切り開くことに通じる能力です。大事なのは、結局、これでしょう。
「わかりやすい授業」一辺倒の思考から、180度反対の考え方に転換するのは、今の時代、難しいですね。だから、すぐに引きこもるし、死ぬし、孤立する。
初めてコメントさせていただきます。
この記事がエントリーされてから、いろいろと考えながら何度も読んでおりました。
学ぶということは、永遠のパズルのようだなと思ったことがあります。
学べば学ぶほど、知というパズルのピースを得れば得るほど、
その外側である「わからないこと」は増えていく感覚。そんな感覚を思い出しました。
この記事を読んで、久しぶりに思い出しました。
学ぶということは、内面から湧き出る意思であって、
与えられるものではない、ということでしょうか。
ところで、いわゆる「良い先生」の定義とは何でしょうか?
・生徒に好かれるよう振舞う
・優しく甘い
・叱らない
・わからない事があればなるべく噛み砕く
・生徒が興味をそそるような話をする
…他にもありますか?
相対性についてですが、自分が思春期の際に大きく影響を受けたアニメに
エヴァンゲリオンというのがありまして(オタクですみません)、その監督の言葉に、
「私は相対的に面白いアニメが作りたいのではなく、絶対的に面白いアニメが作りたい。
前に作った作品以上だからといって満足はできないし、
他者が作った作品以上だからといって満足はできない。
自分が絶対的に面白と思う作品を作りたい。」
いたく感動し、以来自分も絶対主義であるべきと考え、誰かと比べて良いかではなく、
なりたい自分になれているかどうかで行動するようになりました。
#だからといって、大成はしていないですが。
#また、相対主義者に対して、絶対主義者が少数派というのも最近気がつきました。
ちなみに、自分にとっての良い先生(心に残っている先生)は、
浮いていた自分に「もっと自信を持てば良いんだ」と遠回しに言ってくれた先生です。
(まとまりの無いコメントで申し訳無いです。)
学ぶ意欲がない子ども、家庭に想像もできないような問題を抱えている子ども,障害を持っているお子さん、親が変わった考え方をされているお子さん。いろいろなお子さんがいます。だから、全部が教師の責任ではありません。しかし、たくさん、いる教師の中には、これでは子どもは絶対にわからないだろうという授業をされている方もいるということを教師自身も現実として受け止めるべきではないか?