goo blog サービス終了のお知らせ 

考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

養老先生を読んで疑問が解けたこと・その2

2006年01月15日 | 養老孟司
 さっきまで「超バカの壁」を読んでいた。
 そしたら、そこにも書いてあったから、思い出すことができた。(先日書いた「養老先生を読んで疑問が解けたこと」の内容は思い違いだったということがわかった。)

 子どもの頃、中学生になっていたかも知れないが、いろいろな労働や商品がそれぞれ金銭に換算されたり、生命保険でも賠償金でも命に値段が付いたりすることが不思議でしようがなかった。
 そのとき父親が、相場というものがあるんだ、などと教えてくれたのかも知れない。が、ふ~んとは思っただろうが、やはり腑に落ちなかった。大人になってもそういうものだ、とは理解した。しかし、給料を貰って、労働を商品に換算して買い物をしながら、やはりわからなかった。
 でも、養老先生を読んだら、お金はアタマの中の構造、神経細胞のシグナルを外に出したものだと書いてあった。それで、やっと、納得がいったのだ。たぶん、30年くらいかかっている。「わかる」道のりは長い。(笑)

見性体験と唯脳論

2006年01月04日 | 養老孟司
 禅の修行をしていると、見性(けんしょう)体験と言うのをするときがあるそうだ。早い人は修行の3年目でもあるようだ。
 あるお坊さんの場合は、座禅を組んでいて鐘の音が聞こえてきたとき、金色の音波が見えたそうだ。幻覚である。その翌朝、雀がチチッと鳴いたとき、聞いているのは自分だが、自分はないという体験をしたそうだ。修行の方向が正しいということのようだ。
 石がどこかにカツンと当たる音を聞いて悟る、ということもあるそうだ。
 「無の体験」によって自分の知覚が変わり、世界が変わるという。 

 こんなの全部、唯脳論じゃないか。養老先生の言ってることと同じだ。だから、養老先生は、自分の考えていることは全部お経に書いてあったと言うんだ。

 だれでも、石の「カツン」を聞いて悟れる訳じゃない。その人がそれまでどうやって何をし、何を求めていたかによる。全部、その人自身の知覚の問題だということだ。

 本に書かれた唯脳論と禅の修行の違いは、禅の場合、「身体」を先に出していることだ。どういうことかというと、禅の修行は、まず、肉体を極限まで酷使し、飢えさせる。そのことによって、精神が、つまり、身体全体からひっくるめた脳という臓器が変容しやすくなる、あるいは脳の意識という働きが身体の変容を知覚しやすくなるのだろう。(←「あるいは」なんていう言葉でつなげたけれど、前者と後者で考え方の基本が全然違うよね。)上記金色の音波の見性体験は、臘八大摂心という数日間の不眠不休の座禅修行のときだったらしいから極限体験が脳(あるいは意識)を変えるということになる。

 養老先生は、禅の修行をせずにわかったんだから凄いなぁ。ご本人に言わせると、「解剖が修行」だったということになるのだが。

 ただ、「禅」とか「修行」という言葉を使うと、「=宗教」となって、現代人(日本人)には抹香臭さをイメージさせて「違う世界、私たちとは、現実とは関係がない」ということになる。

 しかし、「知覚」という言葉を使えば身近になるだろう。世界を「知覚」しない人は誰もいない。で、ブラックボックスだなと思う。入力があって、出力する。過程は、人によって違うから、ブラックボックスである。また、自分が行う判断も、自分で「感じて」、「考えて」、これこそ当然だと言動しているわけだが、その過程は、自分の外部に立つと、やはりブラックボックスであろう。自分で自分の全てを意識できるわけではない。しかし、ボックス内の過程がどうなっているかをある程度意識できたり出力が予想できることが「自分を知る」になるのだろう。で、多くの人に当てはまる入出力の過程を探ることが「人間を知る」ことになるのだろう。

 禅の修行でこのようなことが起こるのも、知るべき人間の特性の一つのはずだ。「無思想の発見」に書いてあったと思うけど、お釈迦様の時代は現代ほどモノはかなったから自分をよく見た、自分について考えたとかいうけど、禅の修行僧は、新聞もテレビも見ないものらしい。で、自分と向き合って己を知れ、ということだろう。

 ところで、私は新奇探索傾向が少ない。(笑)どこそこに新しい店ができたとか、今はこういうサービスをしている、とか何とかいう情報には疎いし、あまり興味もない。あれもある、これもある、と言う世界が苦手だ。その代わり、少しの情報(入力)でもいろいろ考えるのが好きだ。それでも考えるべき(と思われる)ことは、自分でついて行けないほど広がっていく。
 どっちが良いとか悪いとか言う問題ではない。が、私はマイノリティだと思う。人間のマジョリティは、新奇探索傾向が強いモノだから、(だから、人類の祖先はアフリカの森を離れて未知のサバンナに降り立ったのだ。)「ふつー」の人は、情報過多すぎる現代社会では、意識的に「遮断する機会」を得ることが今の生活に必要なんじゃないかなと思う。いくら新奇探索傾向が強いからと言って、情報量は多すぎるのだ。(で、より多くの情報を得たいと思う人の一群が、ひょっとしたら、新しい種へと進化していくかもしれないな。デザイナーチャイルドとかからね。まあ、でも、最終的には、身体との関係、つまり物理との関わりをどうするかだろうな。)
 
 で、子どもの場合の情報との関係は、、、。

 (あ、これ以上、考えるの無理。えねるぎー切れ。ここから先は教育問題になるなぁ。。 私ってやっぱり「先生」なんだね。(笑))


養老本が面白いわけ

2005年12月14日 | 養老孟司
 養老先生の「無思想の発見」の2回目読書中。
 養老先生の本が面白いのは、書いてあることを現実に引き寄せて考えることが出来るからだと思う。これは、養老先生の書いてみえることが、深い意味での「ハウツー」だからだ。(以前も書いたかな?)ご本人も、世の中を解剖する、てなことを何か(だいぶ昔の本)に書いていたはずだ。もっとも、ふつーの「ハウツー」は生活に密着した「ああすればこうなる」だが、養老本は、一皮も二皮もめくって奥に潜むモノを見ようとする、その方法だという点で大きく異なる。で、それがものすごく面白い。私は何か総体的なモノに関する洞察力は、子供の時からけっこうあった方だと思う。だから、そういう自分の脳味噌の癖が養老先生のモノの見方とちょっと似通っているのかなぁと思ったりする。養老先生の脳味噌は、私の脳味噌のずーーーーーっと先のところにあるって感じだ。で、それが心地よい。

 ちょっと関係ないけど「国家」もまだ読んでいる。(笑・ちびちびとしか読めないから、なかなか進まない。で、はじめの方のことはもうアタマにない。笑)まだ上巻だし、以降どうなっていくのか何にも知らないまま読んでるだけだが、アディマントスの言ってることは生徒の発言に思われるときがある。(どこがどうだって訳ではないけど、何となくね。)ソクラテスの返答は、素朴だなぁと言う感じがする。昔の哲学だからかなぁ。でも、「国家」も意外に読める。書いてあることが、現実の「何か」を想起させるからだ。だから、読んでてふと本を閉じたくなる。で、これはこういうことかなぁと想像する。
 「・・って、こういうこと」とか「・・って、どういうこと」と思わせる本は面白い。(注・だからといって、ちゃんと理解しているかどうかは別。)

 でも、私の場合、難しいコトバがたくさんあるとわからない。内田先生が褒め称えていた白川先生だっけ? 抽象語が並んだ文章は読めない。詳しい概念を知らないのと、「ってことはどういうこと?」と、まず、文章を解釈しなければならないから、これで私の場合はまず手こずってしまう。ただ逆に、抽象語って便利だなと思う。難しい内容を一言で表現できてしまうからだ。自分の言葉に代えようとすると、めちゃくちゃ長くなるしやっぱり説明しきれない。
 「言葉を知らない」って、ホント、不幸だわ。(←これって、「アタマが悪い」と同義だね。笑)
 それで、養老本が読みやすいのは、「ちゃんと」とか「ああすればこうなる」といった、文脈を見ないと英語に訳しづらいような(?)「ひらがな」表現が意外に多いことだ。英語で論文を書くのを止めた先生らしいとでも言うか、いかにも「日本語」である。

 ところで、これこそ関係ないけれど、ブログを始めてから考えを文章にまとめるようになって良かったことがある。脳味噌の配線がこんがらがってショートする感じ(!)がこの頃ちょっと減ってきたことだ。言語化すると脳味噌の整理がつくようだ。コトバってありがたい。切る作用のおかげだ。

進化している養老先生

2005年12月11日 | 養老孟司
 養老孟司著・ちくま新書「無思想の発見」を読んだ。
 もう一度読み直さなければならない。途中がちょっくら(だいぶ?)難しい。
 養老先生は進化している。さらにめちゃくちゃ理屈っぽい。(笑)
 しかし、書いてあることで私が理解したことは、私の職場に実によく当てはまる。
 養老先生は凄い。
 私は人間に生まれて良かったと思う。人間が少しわかってきた。それで、養老先生の言うことが(だいたい)理解できて良かったと思う。勉強をして良かったと思う。もっと勉強が出来たら良かったが、私の能力でこれ以上は無理だから仕方がない。

毒舌はハリネズミの撫で方

2005年12月02日 | 養老孟司
 内田先生のブログを読んだ。養老先生と対談をしたらしい。嬉しいな。早く読みたい。「考える人」早く出ろ~。

 養老先生は毒舌の大家らしい。まあ、私が読んでも根性悪いなぁと思う。読んでいて、ふつーの人が聞いたら怒るぜと思うことがある。でも、私も毒舌が好きだ。なぜなら、毒舌は一つの「切り口」だから。

 毒舌は、ハリネズミの撫で方の一種だ。(といって、見たこともないんだけど。)ハリネズミは、警戒するときに毛を逆立てるらしい。が、そうでなければだっこも出来る。なぜなら毛が寝るからである。

 さあ、あなたは、ハリネズミをだっこして撫でるとき、どうやって撫でるでしょうか。間違いなく寝ている毛に沿わせることだろう。
 言ってみれば、これが普通の言説。当たり障りのない、面白くも何ともない撫で方である。ハリネズミも誰も怒らない。では、毒舌とはいかなる撫で方か。寝ている毛に逆らって撫でる撫で方である。

 こりゃ、痛そうだ。みんな嫌がるはずである。

 でも、世の中のもの、何だってハリネズミかもしれないじゃないか。だれも、「真実の姿」を知っている人なんていないのだから。
 毛並みに沿って撫でていたって、わからないことがたくさんあるはずだ。だったら、反対向きに撫でてみろ。きっと新しい何かが発見できる。毒舌にはそんな役割があると思う。まあ、撫でる人そのものは面白がるだけでちっとも痛くないだろう。痛がるのは見ている方だけである。

私は養老先生と気が合うようだ。(笑)

2005年11月23日 | 養老孟司
 手持ちぶさたで中央公論12月号を買った。で、「鎌倉傘張日記」を読む。
 すると、「現実は人によって違う。唯一客観的現実なんてものは、皮肉なことに、典型的な抽象である。だって、誰もそれを知らないからである。私が演壇の上で講義しているとする。聴衆の目に映る私の全て異なっている。なぜなら、私を見る角度は、全員が異なっているからである。」

 ををっ!!!!!!
 私、十数年前の授業で、同じことを言っていたんだよ。(2番目の文の内容、抽象ってのは、さすがに気づいてなかったが。)

 養老先生、大好き♪♪

ジュラシック・コードVS人間脳

2005年07月09日 | 養老孟司
 先日の養老先生出演テレビ番組「ジュラシックコード」では、人類の脳の中での古い脳、本能的な欲望を司る脳を「爬虫類脳」と呼び、人類特有の新しい脳「人間脳」、理性を司る脳は、科学の進歩した時代では爬虫類脳の影響を強く受けているとしている。
 本能を抑える倫理観など、つまり新しい脳が強い力で古い脳を制御していたのが中世で、すなわち、神が力を持った時代だったと言う。だから、ニーチェの「神は死んだ」は、新しい脳が古い脳を制御しきれず、逆に新しい脳が古い脳に支配されはじめて人間の欲望が尽きない時代に入ってきたと言うことらしい。

 テレビ番組の養老先生とは関係ないが、養老先生はこの現象を「科学は宗教の解毒剤」と言い、また、「古い脳は本能的な欲望を制御できるまで進化しているが、新しい脳はまだ進化の途上にあるので欲望を制御できないでいる」と(言葉は正確でないが)言っている。

 両者とも、表だって見える現象からの推論だろうなあと思う。私は「神は死んだ」の他の解釈を知らないが、番組の説は確かに説得力がある。

 しかし、新しい脳の持つ欲望は、果たしてテレビ番組の推論のように、古い脳の指令で動くものだけではなかろうに。(番組ではそんな印象を受ける。)
 テレビ番組では、二つの脳の支配被支配の関係を、戦争などの負の側面や、他の、まあ、本能的な欲望を満たすための道具を生み出すための新しい脳の働きというとらえ方をしているが、新しい脳の働きはそれだけとは言い難かろう。
 物理学者や数学者の研究、文学者であっても、言わば世の中の役に立たない研究、つまり、他人の欲望を満たすことに繋がらない研究を、人があれほど強烈に求めて止まないのかの答えにはならない。(ニーチェが哲学者になって「神は死んだ」などと言う必要はないと言うことだ。)金や他の本能に強く関わる支配欲とは、やはり一線を画すのではないかと思うが。私がこんな風にいろいろ考えるのも、程度の差こそはあれ、新しい脳の持つ性質である「知的好奇心」で、古い脳からの欲求とは思えないし。
 そう考えると、養老先生の説に軍配が上がる。(と言っても、養老先生の説は、私が意図するものとはまたちょっと違うものであるが。)

 番組では、古い脳を抑えすぎるとストレスを生んで病気になると言っていて、この病気とは身体の病気だろう。が、新しい脳が抑えられても病気になるんじゃないかと思う。この場合は古い脳に抑制されると言うことではなく、逆にたとえば、本人が考えたがっていることを「考えるな」と言われたら、一部の人間は確実に脳の調子が悪くなるのではないかということだ。この場合、新しい脳が古い脳を超えて身体を支配していることを意味するだろう。(私なんて、アタマがおかしくなりそうだったら、--この文脈で言えば、新しい脳を抑制できなくて--、自分のブログを持ったようなものだし、本を読んでいるのだから。)

 うん、きっとそうだ。

 だから、工学部や医学部系の世の中の役に立つ学問は古い脳の支配を受けやすい分野だが、純粋数学や理論物理学、哲学や文学は、新しい脳の専売特許のようなものに違いない。それで、「宗教」(宗教「学」じゃなくてね)は、本当のところは、哲学と物理学を「世の中の役に立つようにわかりやすくしたもの」に違いない。だから創世記のようなものがあるのだろうし、神話があるのだろう。(というと、宗教と神話は違うとか言う人が出てくると思うが、まあ、そこまで細かく定義しないでね。人間のバックボーンになるものということです。)

 最初書こうと思っていたことと違うけど、アタマがすっきりして私は嬉しい。
 おつきあいくださってどうもありがとうございます。

 と書きながらも、すでにこの続きが脳裏に浮かんできていて、また「もやもや」が始まってしまいました。
 ああ、また違う「もやもや」も生じてきています。キリがないのでUPします。

「私の脳はなぜ虫が好きか?」から養老孟司の読み方

2005年07月03日 | 養老孟司
 わくわく。わくわく。わくわく。。。。
 というわけで、養老先生の本を買った。まだ全部読んでないけど、面白いから、感想を書きたい。私は虫に全く興味がない。それでも、養老孟司の本は面白い。なぜか?

 最初の話、「あなたにとって、虫とは何か」をみよう。B6版約6ページ76行からなるエッセイで目に付く単語を並べてみる。
 「腹の底」「政治」「数学」「x軸」「y軸」「左右逆転」「全共闘」「意義」「世界」「世間」「偏差値」「正規分布のグラフ」「視点」「現代人」「都市化」「実在」「行動の誘因」「善良な一般市民」「脳の実在感」「神」「国家権力」「文化大革命」・・
 もちろん、「虫」と言う語も41回出てくるが、果たして、上記の単語を羅列を見た人が、この文章が虫についてのエッセイだと思うだろうか?

 養老先生の面白さは視点の取り方である。虫を「だし」にして、養老先生は、人間と人生を自然という観点から語る。この視点の取り方は、どの本でも共通する。だから、養老先生を哲学とか宗教という人がいる。私も否定しない。本人も唯脳論にまとめたことは全部お経に書いてあったと言っている。

 ミリアム・ロスチャイルド女史に「自然史とは何か」を問うて、「生き方である」と言う答えを得て養老先生は明晰な答えだと感嘆する。ミリアムさんも素晴らしいが、感嘆する養老先生も素晴らしい。

 虫取りの旅中プーケットで友人を待つ養老先生は、暇をもてあまして「差異と同一性」について考えたそうだ。何を考えたかまでは述べられてない。(そのための本ではないからだ。)うんうん、具体と抽象だね、と私は思う。

 (気ばかり焦って文章にうまく纏められないのが歯がゆい。)

 私の見方では、養老先生は常に「意味」を問うている。自然や虫は具体で事象で、二つとして同じものはない。そこに、人間が現れ、生き方が語られるとなると、虫は虫のまま既に虫でなくなり、抽象化した概念になり、哲学になって意味が生じる。自然科学はややもすると、事象のみを追う。大概の科学者の本がつまらないのは、事象に終始しているせいである。自分がその事象に興味がない限り接点を見いだすことはできない。その点、養老先生の議論は、虫を象徴として扱っているので抽象化がなされ、その時点で一般化が成立し、接点が生まれる。よって、自分に引き寄せて読むことができるのだ。

 養老先生の著書を理解し面白いと思う人と、そうでない人の違いは明確である。この抽象化、一般化の視点を共有できるかできないかの違いだ。

 私は、人間の能力を大きく「知的作業能力」と「意味探索能力」の2つに分けて考えた方が人間について分かることが増えるように思っている。たとえば、何か一つをテーマとして地道に研究したり実験したりするのは前者で、そこからが見いだされるものをより大きな視点で、つまり抽象化し概念化し、生き方を探るまで探求するのが後者である。
 人間が物理的存在として空間と時間を占め、数十年したらこの世とおさらばするだけなら、他の動物と変わらない。そのうえで「やや」人間らしく生きようとするなら「知的作業能力」を存分に活かして活動していけばいい。しかし、「生き方」や「生きる意味」は別である。
 養老先生の著作にそのものズバリと記してあるわけではないが、全てから共通して立ち上ってくるのは、人間として普遍化できるこの視点ではないかと私は思うのだ。
 

ゲーデルの不完全性原理=バカの壁

2005年06月01日 | 養老孟司
 1日経ってよく見たら、表題、間違ってたことに気付きました。「不完全性原理」でした。ごめんなさい。そそっかしがり屋で。。。(以下、1日と同文です。)

 ところでこの表題、ゲーデルの不完全性原理は、バカの壁の向こうにあるからわからないって意味じゃないよ。両者、同じことを言っているってことだよ。

 今、ちくまプリマー新書の「世にも美しい数学入門」(藤原正彦・小川洋子)を読んでいるが、151ページに、ゲーデルの不完全性原理について書かれている。

 で、これって、養老先生の「バカの壁」じゃないのか。藤原先生の説明によると、人間の論理とか知性には絶対的な限界があるという原理らしいが、そのことについて書いてある数ページを読んでて感じるのは、この原理の主張は、まさに「バカの壁」だってことだ。

 もちろん、ゲーデルの不完全性原理は、本来は数式で書かれているのだろうけれど、それで、私は数式は理解できないけれど、これはバカの壁と同じことを言っていると思う。うん、断言する!

 藤原先生は、この原理を恐ろしい問題だとおっしゃているけど、養老先生は醒めているね。この思考の延長で、コンピューターをどんどん進化させると、今の人間程度になるだろうとかも養老先生らしい醒め方だ。「それ以上のことはそいつに聞いてくれ」とかも。(←これらは、この本や藤原先生とは全く関係ない内容。)

 私がわかることは、藤原先生の感性も養老先生の感性も、ゲーデルの不完全性原理もぜんぶひっくるめて、人間ってやつは、「そういう存在」なのだってことだ。


 話はちょっと変わるけど、いろんな考えが思い浮かんで、でも、言葉に代えるのがまどろっこしくて仕方がない。人間は言葉で思考すると言うけれど、私個人については、ちょっと違うところを使って思考している気がしてならない。だから、上記の「そういう存在」も、簡単には言葉にできない。もっともこれは、単に、語彙が貧困だったり、文章が下手だってことだけかも知れないけれど。
 表現力が中身に届かないのは、まだ言葉を覚えていない幼児が、自分の要求を表に出せなくてかんしゃくを起こすようなもので、その気持ち、うん、私、よくわかるなぁ。。。。でも、大人になってこの状態に陥ると、アタマがカオス状態で爆発してしまうんじゃないか、心配になる。言語は、思考の整理に用いられるものなんだね。