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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

やっほー

2006年10月05日 | 養老孟司
サイン貰っちゃった。って、接待役の親戚が、勇気をふるって気を利かせて貰ってくれたのです。わ~い、ありがと! 「ほう、高校の先生ですか」って。何にかって? へっ、へっ、へっ、内緒♪♪♪ 送ってくれるって。早く着かないかなぁ~♪ 

(畏れ多くも)「目から鱗」養老先生の読み方(だって!)

2006年08月10日 | 養老孟司
 よく似たことばかり書いているけど、養老先生の話を理解しない人は、階層性を理解しない人のように思う。

 ものごとを言葉で説明するときは、コトバの定義がその時々で違ってくることがある。国語の問題で「下線部(あ)の○○と下線部(い)の○○の違いについて説明せよ。」なんて言う問題をやらされたと思う。○○は共に同じ言葉である。なのに、意味づけ(定義)を違えて文中で使っている。だから、読解をする側は、その違いを認識しなかったら、文意を正しくつかめないのだ。

 で、養老先生の場合は、これが頻繁に起こっているような気がする。現物を当たって書いているわけではないから説得力がないけど(笑)、養老先生の文章を読みづらいと感じる人は、その転換の波長を養老先生に合わせにくい人だろう。

 よく聞く批判に「矛盾したことを言っている」というのがある。字面で読めば確かにそうだが、同じ○○という語を使っていたり、或いは主張をしていたりするけど、定義や状況が違うのである。だから、批判的に読む人は、そこのところを誤読していると思う。

 彼の文章は、というか、考え方は「入れ子構造」をしている。私も「入れ子構造」の論理を思考の方法として取るから、私にはそんなにわかりにくいことがないのだと思う。
 「入れ子構造」とは、例えば、大の箱の中に中の箱が2つあって、中の箱にまた小の箱が入っているような階層構造である。で、特に、小の箱が小さくて、隣には中の箱の空いた空間がある、みたいな場合が難しい。小の箱にある「コトバA」と、同じ中の箱の中にありながら空いた空間にある「コトバB」は、隣同士に並んでいて同じコトバだったとしても、入っている箱の次元が違ってる(コトバAは小の箱、コトバBは中の箱)ものだから、異なる意味合いで使っているということになる。それを同じ定義で解釈して、「矛盾」と捉えるのである。次元じゃないが、「28度は(やはり汗が出るから)暑い」「28度は(35度の外と比べて)涼しい」である。で、養老先生は、言ってみれば(  )内に書いたようなことを省略する。だから、(  )がわからない人は、28度を養老先生は暑いと思っているのか涼しいと思っているのかわからなくなって、「矛盾する」と言うのだ。或いはまた、読み手の感覚で、「コトバB」も「コトバA」も同じ意味でのみ解釈して誤解する方法である。「28度は暑い」と思いこんでいる人は、「28度は(35度の外と比べて)涼しい」という読み方をしないのである。

 ややっこしいかな。要は、前者は、言わば、次元や状況の違いを認識しない読み方で、後者はコトバの意味そのものにとらわれる読み方であると言うことだ。

 考え方というのは様々あるわけだから、文章を読むときは書き手が何を基準にそう言っているかという視点を持つことが大切だ。その基準は、書き手によって異なり、読み手は読み手自身の視点で読むのではなく、あくまでも書き手の視点を共有しようとしなければならないだろう。それができないとき、誤解が起こる。
 まあ、それで、現代国語(現代文)の問題は、それを問うていると思う。だから、「素直な気持ちで(自分の考え方やコトバ単独の定義にとらわれず)」「その文章のコトバの論理に従って」読むことが大事なのだと思う。それを自己流の解釈で読むと、間違える。「自分のコトバで説明せよ」なんて言う設問があったりするが、落とし穴である。文章中の言葉(の定義)を使って答えないと筆者の主張から外れることになるから点は取れないはずだ。

 で、少し戻るが、養老先生は、(  )の中に、こちらが思いもしない次元の見方を盛り込む。だから、読む人の脳味噌を「ぐりぐり」する。当然の前提として「書いてない」から、我々は捜さなければならない。おそらく、ついて行く難しさはそこにあるだろう。が、「箱」を見つければ、こちらの「思いこみ」に気が付くのだ。
 「だったら、ちゃんとわかるように書け」と思う人がいるだろう。しかし、そんなモノいちいち書いていられまい。養老先生の「箱」は、何か総合的なものだから、(入れ子になる「次元」はそういうものだ。)書ききれるわけがない。文章は、書かれる段階で、既に何らかの「前提」を読者に要求する。読者は頑張って、考えてついて行くしかないのである。文章の理解とはそういうものだ。

 養老先生の文章は、まあ、ともかく、「箱」が多く、その箱もコロコロ変わるときがある。だから、読み手は、今、養老先生はどの箱、どんな箱に基づいて言っているのかをぱっぱぱっぱと認識し分けていかないと間違える、あるいはさっぱりわからない。

 それで、これが肝心な点だが、養老先生の魅力は、箱がぱっぱぱっぱと入れ替わる面白さなのである。或いは、こちらが思いもしなかった箱の存在に気が付かせてくれる面白さ、つまりは、捉え方の次元が代わる面白さ、そこに新しい世界観が開けてくる面白さである。だから、養老先生は、「目から鱗」なのである。


「始原の遅れ」ってさ

2006年07月14日 | 養老孟司
 「考える人」夏号が出てますよ~。養老先生と内田先生の対談+万物流転です。

 内田先生との対談で、「始原の遅れ」ってのがありました。レヴィナスのコトバらしいです。内田先生は「気がついたらすでにゲームは始まっていて自分はフィールドでプレイしているような状況」に喩えてます。「何となくルールらしいものはわかってくるのだけれど、いつ、どうしてそんなゲームが始まってどうやって決着が付くのか、そういったことは相変わらずわからない。すでに始まっているゲームに、ルールを教えられないままに投じられている存在」ということです。

 これって、まるで私の人生みたい。

 気が付いたら、幼稚園に行っていて、小学校に入って、中学校へとどんどん進んで、何となくそのうちに自分は「こうしなければならないのだろう」とか、ルールがわかってくる、なんて。でも、実はよくわかんないんのである。うん。最近、不惑を遙かに過ぎて、やっと、人生って、そういう状況なんだ、と気が付いてきた。なんで他の人は皆、子どもの時からうまくプレーしているのだろう?
 私ってユダヤ人だったのかな。(笑)かなり自分が意識的な人間だと言うことと関係するのかなぁ?

 養老先生は、ホントに頭が良いと思います。思わぬところに、深遠な裂け目を提示します。それが深い。真っ黒けに深い。(笑)私としては、養老先生のアタマの良さを少しでも感じ取れたのが、幸運です。

 それでまた、養老先生はとても刺激的なのです。私が「何か」に至るきっかけを与えてくれます。「ん、だから、、、、」「それは、、、」というきっかけです。「、、、」は「、、、」で、まだコトバになりません。(笑)でも、それでいいのです。そのうち「言葉」になって何かが出てくるかも知れないし、出てこないかもしれない。出てきたら、そのうち、ブログに書く。(笑)ブログって、便利。(笑)

中央公論と文藝春秋で養老先生

2006年05月13日 | 養老孟司
 さあ、養老ファンよ、本屋へ急げ。今月号は、文藝春秋と中央公論に養老先生の対談がある。中身は見ての、お・た・の・し・み♪

 しかし、養老先生は、やっぱり他の人と違う。何が違うって、ものの見方の基本を提示している点だ。だから、抽象化の苦手な人はわかんないと思う。私は自分の知的能力に関して、記憶力や言語能力、論理的思考力など、あんまりアタマ良くないけど(中高生の頃、どれだけ歴史で苦労したか! 語彙貧困、的確な言葉を選べない、数学コンクールに出るようなややこしい問題が苦手)、抽象化能力だけは、人並みを多少超える程度にはあると思っている。(一見関係のないもの同士の共通性を見つけ出すのが得意。)だから、少なくとも、養老先生のすごさだけは理解できる。(内容を深く理解できなかったとしても。)良かった。。。。人間だけが持つ能力は、そりゃぁ、多々あるが、抽象化能力もかなり人間独特の能力だと思うから、人間に生まれて良かったと自己満足している。

脳の時代万歳

2006年04月22日 | 養老孟司
 私は「バカの壁」以前からの養老ファンである。ちくま学芸文庫「唯脳論」第1刷1998年発行を持っているのが自慢である。(笑・へへっ、しかも養老先生のサイン付きだぜっっ。流行の講演会で書いて貰っただけだけれど。)

 で、その影響で、昔から学校でも「だから、脳がね。。」と話をしていたのだが、多くの場合「あの人は何でも『脳』だからね。。」と揶揄されていただけだった。当然、今流行の「脳のトレーニング」なんて何もなかった頃である。アタマを、脳細胞を鍛えろと言っても、「だから、何、それ?」と重要性を認識するどころか、大方が相手にしてくれなかった。

 でも、今は違う。
 話がスムーズに通る(気がする)。生徒にだって、堂々と話せる。理解してもらえる。

 嬉しい。

 世の中全般として誤った認識がないとは言えないだろうが、私にしてみれば、隔世の感があると言っていいほどである。うん。

 今日のNHKの養老先生は、真っ青のシャツだった。やっぱり養老先生は、はっきりした色がお好きなようだ。



「考える人」の養老先生

2006年04月11日 | 養老孟司
 「考える人」の春号が出ました。「万物流転・意識の博物学」が、滅茶苦茶面白い。ドキドキ胸が高鳴ります。何がって? よくわかんないけど。(笑)

 私、たぶん、抽象化能力はそれなりにあると思んだけれど、言語能力が低いので、うまく表現できない。抽象化ってのは、たぶん、「同じだ」とわかることです。これ、結構、わかる。
 
 「同じ」と「違う」の話です。意識の話です。
 ついでに、概念の階層性にかかわる、入れ子構造の話も出てくる。日本人は、階層性の感覚に乏しいらしいが、関係詞がないからだそうだ。(英語の文法で、私が最も好きだったのは、実に「関係代名詞」。(笑)凄く面白いと思った。もともと概念を階層的に捉える考え方をする性質だったのだと思う。モームの文体が好きだった。外国人の英語だから、言葉そのものに情緒がぐちゃぐちゃしてなくて、関係詞が多用されていて、すっきり、読みやすいと思った。)

 養老先生、大好き。
 私の脳味噌のずっと延長上に、養老先生の脳味噌があるに違いない。それで、私が養老先生を面白いと思えば思うほど、私の脳味噌は、養老先生の脳味噌へと至る道にどんどん近づいても行くのだろう。
 自分の脳味噌と近い感覚の人の本が読めて、私はとても幸せだ。自分がどこにいるのかわかるから嬉しいのだ。 

 ついでに、内田先生との対談もあり。これはまだ読んでない。万物流転だけで興奮してしまいました。

色えんぴつの色

2006年03月03日 | 養老孟司
 スタジオパークの養老先生は紫色のセーターを着ていた。高級そうだ。(バカの壁以来、背広が高級そうだ。昔の「脳と心」は何となく普通っぽかったのに。)「脳と心」では、真っ赤なセーターだった。「人に壁あり」は真緑のシャツだ。ブルーのジャケットと縞のシャツってのもあるなぁ。
 養老先生は、色鉛筆にある色が好きなのかなぁ。
 明日の「科学大好き土曜塾」に、養老先生が出ます。みんなで見ましょうね。
 養老先生、大好き。

(追記)
 今日の養老先生は「クリーム色」でした。しかし、「表現しにくい色」ではない。
 私も馬鹿ハウスに行って養老先生とお話ししたいなぁ。

養老先生かわいそ~

2006年02月05日 | 養老孟司
 今日のTBS時事放談は、堺屋太一氏と養老先生だった。収録がいつなのかわからないけど、養老先生が大好きというベトナム風うどん「フォー」がテーブルにあった。「どうぞ」と言われても、しゃべりながら、しかもテレビに出てるのに食べられないよなぁ。。最初、ちょいとばかり恨めしそうにフォーを眺めた養老先生、すっかりお預けを食らっちゃって、お話が終わるまで待ってなきゃいけなかった。

 冷めて伸びて、かわいそー。

養老先生を読んで疑問が解けたこと・その3

2006年01月17日 | 養老孟司
 小学生の時、炭水化物は唾液のアミラーゼによって麦芽糖に変わる、だから甘いんだ、消化に良いよう、よく噛んで食べよう、と習った。

 でも、唾液のアミラーゼだけで口の中のご飯の全部が麦芽糖に変わるわけでない。「でんぷん」のままだとどうなるんだと心配になった。(で、たぶん、小学校では膵液にもアミラーゼがあることをあまり習わなかったんじゃないかと思う。)そしたら、中学生になってからか、お腹に入ってからもアミラーゼが出て消化されると聞いて、何だか騙された気がした。でも、だったら、わざわざ口の中で唾液がアミラーゼを出さなくても良いんじゃないのかと思った。なぜそんなめんどーなことをするのだろうと、そのときからずーーーーーーっと疑問に思っていた。

 そしたら、養老先生の本に、炭水化物は高分子化合物だから、そのままではプラスチックのようなもので味がない。口に入ったとき、それが食物であることがわかるよう、味が出るように口の中で糖に変わるんだ、おいしくなければ食べないから、とかいうことが書いてあって、やっと長年の疑問が解けた。

 養老先生は、私が長年疑問に思っていたことに説得力のある答えを与えてくれる。
 だから、大好き。