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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

養老孟司と藤原正彦の似ているところ

2005年05月31日 | 養老孟司
 大それたタイトルだなぁ。。。

 養老先生はこの頃「身体を動かせ」「参勤交代しろ」「自然を見ろ」ってなことしか言ってない気がするけれど、昔書かれた本を読むと、「日本は明治時代は和魂洋才だったが、戦後は和魂を失った」ってなことを書いていたと思う。教育勅語はどんな本を探しても載っていないし、(これ、経験した。ある時、教育勅語ってどんなんだったんだろうと思って百科事典や何やらかんやらをを捜したけど、どこにも見つからなかったのだ。)宗教・哲学がこの国の教育にない、ということも書いておられる。養老先生は、自分が受けた宗教教育(養老先生はカトリックの中学高校に通った)は、当時は反発したが今では良かったと言っている。

 藤原正彦先生は、武士道の精神が大事だと思っている。それでまた、日本人に必要なのは、情緒力だと言っている。武士道は、藤原さんが士族の出だからのようだが、彼は、お祖父さんから漢文の素読をさせられたり、また、親からも卑怯を憎む精神で育てられたりしている。

 それで、思ったんだけれど、養老先生の宗教哲学教育も、藤原先生の情緒力も、同じようなことじゃないのかなって。お二方とも、人間が生きていく上でのバックボーンになる部分の重要性を述べていると思う。宗教、哲学、情緒、武士道というと、4つが4つとも、全く違うものではある。(だから、4つの異なる言葉が存在してるのだが。)しかし、この間私が纏めた(?)知的作業能力と意味を探索する能力のような分け方をすると、宗教も哲学も、情緒も武士道も、全て、意味を探索する能力に類すると思う。

 養老先生が、身体を動かせ、自然を見ろ、などというのは、知的作業能力に属する類になる。身体を使った入出力が増え、人間が生まれ、生き、やがて老い、死んでいく過程での自然の成り行きは、全てが知的作業能力に大きく関わる。
 しかし、それだけで人間は十分に生きることはできないものだ。知的作業能力をどのように使うか、どの方向に、何のために用いるかが本当のところはもの凄く重大なのだ。ここで出番が来るのが、意味探索能力になる宗教哲学だったりするのではないかと思う。藤原先生は宗教がお嫌いらしいが、藤原先生も、物事の判断の基準になるのが(←言葉は違っていると思うけど)日本人の場合は情緒力だとおっしゃる。だから、この4つの言葉に関する定義は異なっても、お二人は、本当は似たようなことをおっしゃりたいのだ。お二方の人間の見方に対する考え方の枠組み、骨格は、私は同じものだと思う。

 私は学校でいろんなことを生徒に話していると、授業をしても、題材のついでの雑談でも、たとえば、信仰や宗教に関わることは非常に触れにくい。私はもちろん特定の宗教の信者ではないし、大晦日は除夜の鐘を聞き、年が明けたら初詣に出かけ、クリスマスにはケーキを買うふつーの日本人でしかないが、学校で、宗教・哲学に関わることが話しにくいというのは非常に具合が悪いことではないか。(ところで、なぜ話しにくいかというと、誤解を招くと困ることになりやしまいかと心配するからだ。)生徒の様子、考え方を見ると、彼らがより良く、より人間らしく生きていくのに必要なのは、同じ「生きる力」とは言ってもテクニックのようなものだけではなく、そういった生きる意味での根本精神ではないかと、私はもの凄く感じるのだ。今の若者は精神面での根無し草になっている。宗教も哲学も、日本人としての情緒力は、そこを補ってくれるに違いないと感じる。でも、今の学校のシステムでは、どうしようもないのが現状だ。それでまたついでに付け加えると、学校の先生で、こんなことを言う人は誰もいない。教員の誰もが、そういったものの必要性を全く感じていないというのが、これまた精神の貧困に関わる気がするのだ。


動物的であることと脳化社会の折り合い

2005年05月02日 | 養老孟司
 先日の「世界一受けたい授業」で、養老先生が出ておられた。途中、「おばさんが元気だ。好奇心が強い。決めつけない。同年代のおじさんに比べておばさんは元気だ。」という話があった。で、曰く「おばさんは好奇心が強い。生き物を見ているとだいたいああいう生き方していますよね。」とか何とか、蟻か何かがエサを運んでいる映像が入って、聞きようによってはおばさんを馬鹿にしてるようでもあるけど、実際は全然そういうことはなくって、養老先生は「おばさん」を身体を上手く使いこなして生活する、広ーい意味での「自然」の存在であると考えて発言されているのだ。

 人さまを見ると、うまく生きているか生きていないかは、身体をどう使っているかがやっぱり関わっていると思う。生きていくのが上手な人(←「世渡り上手」というのとはちょっと違って、生き生きと生きているかどうかということね。)は、確かにどこかで身体を動かして、外界に刺激を求め、刺激を受け、うまくバランスを取っている人だ。こういう人は、何かでじっとしていることが続いたりすると、自ずから外界に出向こうとするようだ。「こんなことしてちゃぁ、いけない。運動しよう。外に出よう。」とか言って。この感覚をほとんど本能的に持っている人は、皆、心身共に健康みたいだ。(養老先生だって、あんなにアタマを使って抽象的な思考をしていながらまともなのは、虫取りをして身体を動かしているからだろうなぁ。マメそうでもあるし。)でも、まあ、養老先生もおっしゃっていたけれど、こういう人は、端から見ると、時によっては確かに「軽い」「おっちょこちょい」に見えてしまう。で、そうじゃない人の目には「あんなマネ、したくない」類かもしれない。

 しかし、この健康的な感覚は、身体性に裏打ちされた本能のようなものだと思う。だから、普段から身体を使っている人は持ち合わせていて、そうでない人は、ついつい失いがちになる感覚のような気がする。それで、問題なのは後者、この感覚に乏しい人(あるいは、この感覚を何らかの形で押さえつけてしまっている人)だ。

 人はまだ身体性(動物的存在)と脳化の関わりをはじめとして、自分のこと、自分の存在のあり方をよくわかっていないんじゃないかと思う。だから、ここまで社会が脳化すると、上記の感覚をほとんど忘れている人は、日常生活で、自分の中の「身体を持つ動物的存在としての自分」と「脳化社会で暮らしている意識の世界だけで生きようとする自分」との折り合いをつけるのが、とっても難しくなるんだと思う。その象徴が「元気のないおじさん」なんだろうね。

 「元気のないおじさん」は、自分の身体性を忘れ、それゆえ無意識的なバランス感覚もなくしてしまっている。こういう場合、意識的にそこを補えればいいのだが、これがなかなか難しい。なにしろ身体性と意識の関わりといったかなり抽象的な事柄、無意識的なものの存在を認識しようとしない考え方が今の通常の思考法だもの。だから、ふつーの「元気のないおじさん」が自分の身体性の重要度を意識するわけがないのだ。それで、ひどいときには病気になっちゃったりする。最近は30代の若い人でもストレスで様々な症状が出ている人がいるらしいけれど、いずれも自分の動物的(身体的)側面と意識中心の脳化社会との折り合いがつかない状態なのだろう。

 現代の脳化社会はこの種の「本能」を抑圧させる方向に向かわせる。「おじさん」の方が、会社などの人間が作り上げたシステムに組み込まれている分、脳化社会の影響をもろに受ける。だから、養老先生は、「参勤交代」を主張されるのだろう。参勤交代は、生き物としての身体性を意識しろ、それで脳化との折り合いを付けろってことなんだよね。

 以上、養老先生のお言葉を自分の言葉で解説してみました。

「養老先生と遊ぶ」のどうでもいい感想

2005年04月04日 | 養老孟司
 見開きを開くと、あっと驚き、舌出し養老先生のどアップだ。どこかで見たと思ったら、アインシュタインもこんな写真あるよね。編集者か誰かのアイディアか? ご本人はどう思ってるのかなぁなんてついつい余計なことが頭をよぎります。私は、はい、養老先生は「仏教圏のアインシュタイン」と思っています。(この論法だと、正確には「お釈迦様こそがアインシュタイン」となりますが、まあ、私としてはそれでも良いのです。)

 「養老先生ってどんな人?」の14人の答えがちょっと面白かった。
 まず、感想① 14人の中には、答えがもの凄く短い人と長めの人がいる。それぞれどういう関係なのかなど、どーでもいーことが意外に興味深い。先日ちょっと触れた斎藤孝さんのは短くて当たり障りない感じで、さもありなんと思った。方法論(アプローチの仕方)が全然違うからしようがないね。
 
 それから、感想② 私にとっては、米原万里さんの答えが最高~~。笑えて仕方がなかったよぉ。もちろん私は養老先生を存じ上げません。でも、うん、その通りだろうねぇ~~と著しく同感できてしまうのです。「勝手に省略癖」は、実にうまいこと言ったものだ。本を読んでいて私も感じるから。冷静な目で見ると、普通の人(何をもって普通かは置いておいて。)、ここ、わかんないだろうなぁと思うことしばしば。でも、逆に、先生のあっち行ったりこっち行ったりのリズムが私自身には極めて快感で面白かったりする。養老先生は「話が飛ぶからわかりにくい」と言われるらしいが、私も人からそう言われる。(もちろん養老先生とレベルは違うけどね。)だから、共鳴するのかなぁと思ったりしている。

 須賀原洋行さんのマンガ、面白かった。最後の「・・・哲学が長年悩んで悩んで思索を続けてきたところに解剖学者が横からあっさり答えを言っちゃった、という感がある。・・・」は、私は哲学の勉強をしたことがないが、そんな気がする。昨日、なんとなく中島義道の「生きにくい・・私は哲学病」を拾い読みした。(つい先日買ったのに01年の初版。あまり売れてないのね。。)この人は哲学者らしいが、やはり何かまどろっこしい。以前、中村雄二郎の対談集をちょっとだけ読んだこともあるが、何かまどろっこしいというか、結局、「何なのでしょうねぇ」で終わっているのが全然すきっとしない。でも、養老先生は、唯脳論で本当にしゃきっと説明してくれるから私にとっては納得いきやすかったのだ。
 
 「脱線だらけの人生相談」は、私は「イマドキの先生」として「あらあら、そんなこといっちゃぁ・・・」と申し上げたくなりまする。一つめの相談の回答、「・・・相手にしないっていうのも大事なことなんですね。それが通じる時代かどうかがわからないけれど。」
 はい。養老先生、今の時代、全く通じませんよ。先生は、良いタイミングで教師をお辞めになりました。

目から鱗の養老本

2005年04月02日 | 養老孟司
 子供の頃、当時「人の命は地球より重い」と言っているのに、事故で誰かが亡くなったりすると保険金でも保証でも命に値段が付いてしまうことや、1ヶ月働いた給料が仕事によって一定の金額とイコールになることが不思議でしようがなかった。「そういう相場だ」と聞いたかもしれないが、よく理解できなかった。でも、養老先生の本を読んだら、ヒトの脳の中では、外部の異なる情報を同じ電気信号に変換しているのはお金と同じシステムだとか書いてあって、やっとわかった。子供の時からの疑問が30年以上たって養老本を読んでやっと納得がいった。ずっと疑問を持ち続けて良かったと思う。

 でも、養老先生をどこで知ったのか、さっぱり覚えがない。10年くらい前から能楽にものすごく興味があって、「なぜ能はこんなにもおもしろいのか」から、能楽がおもしろいのは、一つには「自分自身が能楽をおもしろいと感じるからだ」というちょっとした結論に達し、(だって、つまらんと言う人だって大勢いるんだもの。「おもしろい」のが能楽そのものが持つ属性なら、すべての人がおもしろいと感じて当然なのに、現実はそうじゃない。)自分の脳に興味を持った。始まりがそこだったのは確か。

 養老本は、何かのエッセイから読み始めたような気もする。ひょっとしたら、多田富雄→養老孟司と繋がったのかもしれない。多田さんは能に詳しいし、私が興味深く思ったのは、能の文学的側面というよりもむしろ舞台芸術としての身体論に近かったから。で、養老先生のおもしろさを知って唯脳論を読んだ。だから、私の唯脳論は、文庫だが、ちょっとだけ古い1998年の第1刷。(ちょっと自慢。うふっ。)比較的最近だけれど、養老先生にはその本にサインをしてもらってえへへと喜んでいる。
 
 養老先生は、「リンゴ」と聞くと脳の中に「リンゴ活動」が起こるとおっしゃる。生徒に英語を訳させると、「appleという英語→リンゴという日本語」とやってしまう。そうじゃなくて、「apple→ネイティブが想起する概念やイメージ(つまり「りんご活動」)→その概念やイメージに最も対応する日本語→りんご」でなければならないと私は思うから、授業ではなるべくそうしろと言っている。これも、養老先生に背中を押してもらっている気分だ。

 ある掲示板で斎藤孝のほうが養老先生より良いとか理解しやすいとかいう言があった。これはこういうことじゃないかと思う。もし、斎藤さんが1次関数の説明をするとしたら、「2x+4y=7, 4y-7x=8, y=3x+1, 等々」となり(ええっと、これはあくまでも「たとえ」として述べているだけですから、私が言いたいことだけをくみ取ってくださいね。お願いします。)、養老先生がするとしたら、「mx+ny=l, y=ax+b 以上」で終わりそうだ。どっちが取っつきやすいかは明白だ。斎藤さんの話は、非常に具体的にかみ砕いて事細かなものだから受けやすい。対して、養老先生は基本中の基本のストレートな方法論だから、最初は馴染みにくくても、いったん考え方が身に付けばものすごく応用が利く。まあ、だから、私は養老先生の言うことはパラダイムだと思う。

 養老先生は、物事を一皮も二皮もめくってから、見る。まさに解剖だね。だから、皮のめくり方を学習することが大事だ。友人の子供が、最初は数学が苦手だったそうだが、やり始めてわかるようになったら、そのあとは結構すいすいできるようになったらしい。その子は、勉強したことで、アタマの中の「数学」というシステムが顕わになったのだ。それと同じ。「養老先生と遊ぶ」の本の中で、養老先生は「人間科学」を難しい本だと言っているが、私は人間科学より唯脳論の方が難しかった。唯脳論が先に読んだ本だったから、初めて養老先生に触れ、自分の脳味噌に新しい筋道をつけるのが大変だったのだと思う。しかし、人間科学は、言ってみればその延長にすぎないから、さほどでなかった。友人の子供の数学と同じだ。 
 

抽象化の能力(その2でもないのだけれど)

2005年03月31日 | 養老孟司
 昨日のアクセス数がかなり増えていました。カテゴリーを「養老孟司」にしたせいだと思います。新たにお訪ねくださいました皆様、どうもありがとうございました。ご期待に添えましたかどうか、心配です。
 
 数学の座標軸を使ったたとえが「下手」でしたね。言いたかったのは、表だっては違っているものでも、次元を変えて、より深く見ると同じ物だったりすると言いたかったのですが、あのたとえでは、逆の解釈ですね。書き換えようと思ったのですが、細長い三角形をXY平面上で表すとなると座標にルートがたくさんついてややこしくなるので諦めました。

 一応、受験校で教えているので、頭の良い生徒にも出会います。しかし、勉強ができる、試験で点数が取れる、というのと、深くモノを見る、日常生活の中から何かを取り出して抽象的にモノを考える能力は、イコールではないとつくづく感じます。センター試験で9割とっても、記述模試で偏差値70をはるかに超えていたとしても、つまり、論理的な思考力はあっても、これができない生徒がいます。

 人間の能力は、本当に不思議ですが、養老先生の考えを私なりに突き詰めて考えると、同じ「アタマを使う」能力であっても、2つに区別できる気がしています。なるべく誤解の少ない言葉で表現したいのですがまだ良い表現を思いつかないので。。。でも、そのうち書きますから、どうぞまた読みに来てください。

 ところで、「養老先生と遊ぶ」が最近発売になりました。もう、読まれましたか?

 私の感想は、ちょっと複雑というか何というか。(この手の本ではいつものことですが。)

抽象化の能力

2005年03月30日 | 養老孟司
 「言葉」は、抽象化の道具で、(養老先生の講演にも出てきた内容ですが、)「リンゴ」などの具体的な物体は、「抽象化」されたとしても、さほど問題にならない。(問題にならないとは、人によって捉え方がほぼ同じ、リンゴと聞いて同じようにリンゴを想像できると言うこと。)しかし、「正義」とか「民主主義」となると、人によって捉え方が違うから、問題になる。お互い、同じ内容についてしゃべっているつもりであっても、元々の捉え方はじつは全然異なっていて、誤解が齟齬が生じてくる可能性は非常に高い。

 私は、同じことが「ものの見方」にも全く当てはまると思っている。しかし、そう考えない人も多いようだ。言語は言語、日常の出来事は日常の出来事と、全く別物としてとらえ、「抽象化」が言語に置いても日常に置いても同様に考え得るものであるとは考えない人が意外にいる。(だから、物事を人に説明するときには、話は具体的に行えということになる。新書の「頭のいい人の話し方云々」の本(←部分的に立ち読みしかしてないけど。)にも、そう書いてある。)
 大学入試の小論文指導で、何かのマニュアル?に、入試で要求される「具体例」は、あくまでも一般化した抽象化された内容でなければならないと書いてある。あなたの個人的な体験ではないと書いてある。まあ、言われてみればそうだわな。大学の先生、大学で行われる学問は抽象的なものだから、要求されるモノはそうなる。

 抽象化というのは、次元の深さ、というか、まあ、私のたとえだと、XY平面で見るとある形に見えるモノであっても、Z軸を含めた立体で見ると、XY平面のその形はホントは違った形だったということが大いにあり得るということだ。(たとえば、簡単に説明すると、△ABCがXY平面上だとA(0,0)B(1,0)C(0,1)だったら面積1/2の直角二等辺三角形だが、XYZ軸上でA(0,0,10)B(1,0,0)C(0,1,0)なら、細長い二等辺三角形で、面積だって変わってもっと大きい。でも、XY軸上で見たら(つまり、Z軸に垂直方向で見たら(真上から見たら))、やはり面積1/2の直角二等辺三角形にしか見えないのだ。)

 これは、数学的な次元だけでなくて、本当は日常生活の中でもあり得るものだと思う。

 養老先生の話は、この手の抽象化がもの凄くたくさんある。だから、物事を抽象的に考え受け取ることが下手な人は、養老先生が何を言っているのか、さっぱり分からないのではないかと思う。モノを見て何かを判断し、まあ、つまり考えると言うことは、自分がある立場からある曲面で何かを切って見ると言うことだ。だから、人がどのような立場でどのような切り方をしているのかがわからないと、その人の言うことは分からないものだと思う。言っている方だってそうだけれど。でも、このことを自覚しない人は多い。

 不思議なのは、たとえば、東大の現代文の問題でも、できる人は少ない。(もちろんその中に私も含まれよう。)「なぜ、できないか」は、論理的思考だったり抽象化の思考が問題制作者より劣っているからにほかならない。(問題は順当なものと仮定する。この問題は、悪問だとかいう難癖はつけないでね。)だから、斉藤孝の東大の入試問題を解く本が出版できるわけ。で、私が何が言いたいのかというと、ほとんどの人間は、論理的思考や抽象化がうまくできる能力は持ち合わせていない。それでいながら、自分の論を正しいと展開していこうとするのは、無理があるってコト。で、その状態で議論するというのは、本当は全くの不毛だと言うこと。養老先生の「バカの壁」という言葉を借りると、バカの壁があると気がついてない人と、どこにどんなバカの壁があるか分かってない人とは議論不可能と言うことになる。

 理系だと、わかりやすい。烏合の衆の多数決でロケットの打ち上げは不可能だ。一人の専門家であっても、その人の説が正しければ、うまくいく。それがニュートンの力学だったり、アインシュタインの相対性理論だったりしたわけだ。こういうのは、「パラダイム」と呼ばれるものだ。

 ところが、文系系統の学問や教育は、ぱっと見て分かる類のモノではないから、判断がしにくいということになる。まあ、そのあたりで、衆人を納得させる手段として知恵として生んだモノが「宗教」じゃないかなと本当のところは思う。だから、宗教もパラダイムだと思う。

 と、私が書いたこと、表現の下手くそさはありましょうが、分かってくれる人は分かってくれると思うし、分かってもらえない人には全く分かってもらえないと思う。私のことをアホだと思った人もいると思うが、私がアホなのか、そう思ったあなたがアホなのかはわからない。

養老孟司のヒューマンD

2004年11月21日 | 養老孟司
 「ヒューマンD」は、養老先生密着番組だった。
 と、驚いた。毎日2回の講演をなさっているなんて!
 今度は思いっきり難しい本を書きたいというお話だったのに、
ご本の方はどうなっているのだろう。この分ではご出筆はなかなかであろう。
 ああ、、、、。
 私は楽しみにしておりますぅ~。

 養老先生、ご本もどうぞよろしく~。