「パソコンのハードウエア知識」はお休みします。
これは、昨日の産経新聞に掲載された石原新太郎東京都知事の連載のサブタイトルです。
環境問題についての見解?、問いかけ?、なげき?の記事でしょうか。大新聞がそして一国の首都の知事が掲げたサブタイトルに、「ドキッ」とさせられました。
特集記事はこんな書き出しから始まります。
「人間は誰しも死ぬと承知はしている。しかし誰も、この自分が死ぬということを正面信じようとはしない。」
そして、今の地球が取り返しのつかないまでに環境破壊が進んでいる事実を書き連ねています。破壊が進み地球と地球上の生命が生き残っていけないことを解説しています。にもかかわらず先進国はじめ世界各国が何ら具体的な対策をとるに至っていないことを述べています。
最後にこんな言葉が。「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」と。
正直に言うと、私も「リンゴの木を植える」ことしか考えていないのかもしれません。
言い訳するなら、今の私のまわりには「環境問題を考え行動する」基盤などどこにもないように思えます。政治の世界でも、経済の世界でも、社会問題としても、「年金問題」「消費税問題」「テロ対策」「憲法改正」などは取り上げられ、自民党と民主党の政権交代のネタとして語られることはあっても、これほど深刻になった「環境問題」が身近にあまり語られないのは、何故なのでしょうか?
しかし、石油に代わるクリーンな代替エネルギーの開発、CO2の地下貯蓄、省エネ技術など環境破壊を止める技術開発が進んでいないわけではありません。日本の技術も捨てたものではなさそうです。では、この言い回し「やはり、地球は救われまい」はどういうことでしょうか?技術はあっても活用が遅々として進んでいないこと、進めることができないことを嘆いているのではないでしょうか?私は「政治不在」ではないかと思うのですが....
私たちは、政治の場で大切なことを語ることに慣れていないか避けていると考えざるを得ません。そしてみんな「リンゴの木を植える」ことしか考えていないのは、語る場がないからなのでしょう。
政治の欠落です。もちろん政治家だけの責任ではありません。
国の政治を担う政治家が、そのために貴重な税金を使うことを許され任されるのであれば、政治家が環境問題に対して政策を打ち出すのは当然のことではないでしょうか。もはや「環境問題」の取り組み姿勢を打ち出さない政治家は「政治家失格」とわれわれ庶民は断言すべきではないでしょうか。「環境問題」を語れない、公約を打ち出せない政治家を選出してはいけないのではないか!と思うのです。
「環境問題」は政争の不毛な議論に与(くみ)せず、良識ある政治の力による議論と努力しかないのでは、と思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか?
と言いながら、今日もブログビンゴに興じている私です。矛盾していておかしくて笑ってしまいます。
今日の数字も2つです。
今日(1月9日)の数字11・47
これは、昨日の産経新聞に掲載された石原新太郎東京都知事の連載のサブタイトルです。
環境問題についての見解?、問いかけ?、なげき?の記事でしょうか。大新聞がそして一国の首都の知事が掲げたサブタイトルに、「ドキッ」とさせられました。
特集記事はこんな書き出しから始まります。
「人間は誰しも死ぬと承知はしている。しかし誰も、この自分が死ぬということを正面信じようとはしない。」
そして、今の地球が取り返しのつかないまでに環境破壊が進んでいる事実を書き連ねています。破壊が進み地球と地球上の生命が生き残っていけないことを解説しています。にもかかわらず先進国はじめ世界各国が何ら具体的な対策をとるに至っていないことを述べています。
最後にこんな言葉が。「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」と。
正直に言うと、私も「リンゴの木を植える」ことしか考えていないのかもしれません。
言い訳するなら、今の私のまわりには「環境問題を考え行動する」基盤などどこにもないように思えます。政治の世界でも、経済の世界でも、社会問題としても、「年金問題」「消費税問題」「テロ対策」「憲法改正」などは取り上げられ、自民党と民主党の政権交代のネタとして語られることはあっても、これほど深刻になった「環境問題」が身近にあまり語られないのは、何故なのでしょうか?
しかし、石油に代わるクリーンな代替エネルギーの開発、CO2の地下貯蓄、省エネ技術など環境破壊を止める技術開発が進んでいないわけではありません。日本の技術も捨てたものではなさそうです。では、この言い回し「やはり、地球は救われまい」はどういうことでしょうか?技術はあっても活用が遅々として進んでいないこと、進めることができないことを嘆いているのではないでしょうか?私は「政治不在」ではないかと思うのですが....
私たちは、政治の場で大切なことを語ることに慣れていないか避けていると考えざるを得ません。そしてみんな「リンゴの木を植える」ことしか考えていないのは、語る場がないからなのでしょう。
政治の欠落です。もちろん政治家だけの責任ではありません。
国の政治を担う政治家が、そのために貴重な税金を使うことを許され任されるのであれば、政治家が環境問題に対して政策を打ち出すのは当然のことではないでしょうか。もはや「環境問題」の取り組み姿勢を打ち出さない政治家は「政治家失格」とわれわれ庶民は断言すべきではないでしょうか。「環境問題」を語れない、公約を打ち出せない政治家を選出してはいけないのではないか!と思うのです。
「環境問題」は政争の不毛な議論に与(くみ)せず、良識ある政治の力による議論と努力しかないのでは、と思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか?
と言いながら、今日もブログビンゴに興じている私です。矛盾していておかしくて笑ってしまいます。
今日の数字も2つです。
今日(1月9日)の数字11・47
11と19
「地球の環境破壊」については色々な見方がありそうですね。形あるものはやがて形を変え、いずれなくなる。永遠に生き続けるものはないし、太陽でさえいつか燃え尽きる。その通りです。物事の真理を語っているのでそれは確かに哲学ですね。
私には、「環境破壊」について語る資格などありません。豊かになろうとする人間の欲望を抑えられるとも思わないし、それが悪いと言い切ることもできません。しかし子々孫々与えられた宝を受け継いでいくことは義務だと思っています。「義理と人情」じゃないけれど、二つをはかりにかければほんのちょっと「豊かになろういう欲望」より「環境を守る義務」方が今は重いんじゃないか、ということが言いたかったのです。
人間は功利的だから、温暖化のために室温を1度下げましょう、なんて言っても寒けりゃまた上げます。でも灯油代が値上がりした、と言えば節約という我欲のためちょっと寒くても我慢します。それがいいのかどうかは分かりません。でも目標があれば効果を生む方法をとるべきだと思うわけで、それを政治的方法でと言ったわけです。
このコーナーに今日やっとたどり着いたものですから..。
地球環境の問題は、私達一人々が取り組むべき問題です。 誰かに任せるものでもありません。
身近で、出来ることは即やるべきです。
例えば、リサイクル。 身近な環境問題に直接かかわること。
ただ、二酸化窒素の削減などは、政治が主導すべきと思います。
みいちゃんは、「河内長野市環境を守る市民ネットワーク」に属していますが、この会は「日野谷の水源に産業廃棄物処理場を作ろうとする企て」を市民・河内長野市と共闘して、阻止することに成功しました。
関わる気さえあれば、幾らでも関われる分野はあります。行動しましょう! 地球を救うために!