廣田神社
(ひろたじんじゃ)
兵庫県西宮市大社町7-7
神仏霊場兵庫 豊饒の道・第3番札所
廣田神社の一の鳥居。この先には長い参道が続きます。
〔御祭神〕
天照大御神・荒御魂
(あまてらすおおみかみのあらみたま)
住吉三前大神
(すみのえみさきのおおかみ)
八幡三所大神
(やはたのみどころのおおかみ)
諏訪健御名方富大神
(すわたけみなかたとみのおおかみ)
高皇産霊大神
(たかむすびのおおかみ)
西宮にある神社といえば、多くの方が「えべっさん」で有名な西宮神社を頭に浮かべると思います。しかし西宮にはそれを遥かに凌ぐ、兵庫県で一番の高い格式を誇る神社が凛として鎮座しています。927(延長5)年に編纂された「延喜式」の神名帳の中でも最も格式の高い官幣名神大社に列せられた神社、それが廣田神社です。朝廷より臨時の祈願を受ける勅祭社の1つにも名を連ね、しばしば奉幣勅使の派遣を受けました。勅祭社は日本全国で伊勢神宮や石清水八幡宮などわずか22社しかなく、兵庫県では唯一廣田神社だけが選ばれていました。
宅地開発の進む中、廣田の森が緑を守ってきました。
神功皇后が三韓遠征に向かう際に守護した神々は、凱旋を飾って都へ戻る帰路、それぞれが望みの地で祀られていきます。事代主尊は長田国で祀られることを望み(長田神社)、稚日女尊は活田長狭国での祭祀を希望しました(生田神社)。このとき天照大御神は「我の荒魂を皇居に近づけしむべからず。御心広田国に居らしむべし」との神託を授けられたそうです。こうして201(神功皇后摂政元)年に創建されたのが廣田神社だといわれています。廣田神社はもともと上ヶ原・高隈原の地に祀られていたと言われています。ここは今で言うところの西宮市五月ヶ丘だという説が強く、戦後しばらく、宅地開発が進む前までは祠が残っていたそうです。その後、すぐ南を流れる御手洗川のほとりに遷され、1724(享保9)年には水害を避けて現在の地に遷座されたそうです。
伊勢神宮の遷宮の際に出た御用材を譲り受けて建てられた社殿。
和歌の神としても崇敬を受けていた廣田神社では、1128(大治3)年の西宮歌合や南宮歌合、1172(承安2)年の広田社歌合など度々歌合が行われていた事が記録に残されています。しかし和歌を愛する公家たちの崇敬のみならず、荒御魂を祀る勝ち運の神として、平氏追討のために源頼朝公が淡路・広田荘を寄進して必勝を祈願したり、豊臣秀頼公が戎社(西宮神社)を含む両社の改築を行ったり、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗公によって現在地へと遷座されるなど、武家からの崇敬も厚いものがありました。神頼みというよりは、幅広い崇敬を受け社格も高く、海上交通に大きな影響力を持つ廣田神社を、政策上抑えるべき重要な拠点だと認識していたからではないでしょうか。
阪神タイガースが優勝祈願に来る事でも有名な神社です。
明治時代に入っても、兵庫県で唯一の官幣大社に列せられた廣田神社は、天照大御神の荒魂を祀っている事から、和魂を祀っている伊勢神宮と同じように神宮に昇格させようという話もあったそうですが、戦争終結と共に立ち消えになってしまいました。本殿は1945(昭和20)年8月5日の空襲で全焼してしまいますが、伊勢神宮の第58回遷宮の際に出た御用材を譲り受け、1956(昭和31)年より7年かけて再建されました。廣田神社は、京都の西方にある重要な神社だということで「西宮」と呼ばれていました。平安時代の貴族たちは、廣田神社への参拝を「西宮下向」などと呼んでいたそうです。その後、「西宮」は神戸市東部から尼崎市西部まで広がる廣田神社の社地一帯を指す言葉となり、室町から江戸期には「えべっさん」で有名な西宮神社の周辺の事を指すようになったといわれています。
延喜式内社の伊和志豆神社(左)と、西宮市役所の近くにある廣田神社の石標(右)。
アクセス
・JR「西ノ宮駅」下車、阪急バス「廣田神社」バス停より徒歩3分
・阪神電車「西宮駅」下車、阪神バス山手東回り「廣田神社」バス停より徒歩3分
・阪急電車「西宮北口」下車、阪急バス甲東園行き「廣田神社」バス停より徒歩3分
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拝観料
・境内無料
拝観時間
・常時開放
公式サイト
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