霊光殿天満宮
(れいこうでんてんまんぐう)
京都市上京区新町通今出川下ル徳大寺殿町365
京都御所の近くの住宅街の中に鎮座する霊光殿天満宮。
〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)
徳川家康公
(とくがわいえやす)
霊光殿天満宮は、「老松神」と呼ばれた菅原道真公の6代目の子孫・菅原定義公によって祀られた神社です。「霊光殿」という仰々しい名前の由来は、901(昌泰4)年に菅原道真公が大宰府に左遷された際、俄かに天から一条の霊光が差し込み、その光とともに天一神(大乗仏教でいう十二神将の主将である方角神)と帝釈天が降臨して「菅公よ、汝には罪はない。左遷されても落ち込むことはない。3年後には汝を天に召し、策を弄して汝を陥れた政敵どもを悉く滅ぼしてあげよう」と告げていったというエピソードから名付けられたといわれています。
この霊光が差し込んだ場所が菅公の所領地があったといわれる河内国若江(現在の東大阪市)の地で、社伝によると1018(寛仁2)年に後一條天皇の勅命を受けた菅原定義公が社殿を建立したとあります。ゆかりのある土地であったが故に、菅原道真公との繋がりをより深いものにしたいという思いから、当時起こったであろう自然現象を「霊光伝説」として語り継いで神社の名前にしたと考えられます。
社殿の前に建つ舞殿。春には美しい梅の花に映えます。
天変地異などが収まってきた平安末期から鎌倉にかけて、憤死した菅原道真公の強烈な怨霊を鎮めるといった意味合いのあった天神信仰も少しずつ趣を変え、「勧善懲悪の神」として正直者・一心に思いを込める者を救ってくれるという信仰に発展していたようです。霊光殿天満宮の建立においても、一心に国家鎮護を祈る思いを叶えて欲しいという後一條天皇の思いが込められていたのではないでしょうか。ちなみに後一條天皇からは「霊光殿」の勅額と神嶺3ヶ庄が下賜されたそうです。このあと霊光殿天満宮は若江の地から京都へと遷座されました。
近衛家の旧鎮守社の社殿をこの地に移転し、社殿としています。
「弘安の役」と呼ばれる1281(弘安)年の蒙古襲来の際には、勅命を受けて霊光殿天満宮において敵国降伏の祈祷を行ったところ、モンゴルの軍船が「神風」によって悉く沈没したという伝説が伝わっています。この時には全国の寺社に対して夷敵調伏の勅命が下っていたため、このような伝説は各地の寺社に残されています。残念ながら応仁の乱の際には戦火に遭って社殿や社領はすっかり荒廃してしまい、御神体も東寺に遷されて難を逃れました。
その神徳は引き続き広く知られていたようで、1570(元亀元)年には徳川家康公によって鎧剣が奉納され、天下泰平の願文も納められております。27歳の若き徳川家康公は、三河国を完全に掌握して三河守の叙任を受け、今川氏真公を追いやって遠江国の大半を制覇した時期で、この祈願が効いたのか家運の開けた徳川家康公によって深く信仰され、手厚い庇護を受けました。
社殿右にある、菅原定家公を御祭神に祀る老松神社(左)。右はその奥にある古井戸。
代々霊光殿天満宮の祠官を務めていた若江家は、江戸時代には家系が絶えていましたが1616(元和2)年に幕府の手で再興されて再び祠官の任に着きます。その頃には現在地より東、京都御所の北側の塔之段町に遷されており、1636(寛永13)年には若江家の再興に尽力したということで徳川家康公が合祀されました。現在地に遷されたのは1761(宝暦11)年。霊光殿天満宮は皇室からも厚い崇敬を受け、1840(天保11)年と1858(安政4年)に社殿が修築されたときには、禁中より寄付をうけ、禁祀御祈祷所と定められました。 現在境内に鎮座する社殿は、1872(明治5)年に近衛家の旧鎮守社の社殿を拝領したものだそうです。
1902(明治35)年の菅公没後千年祭で建てられた記念碑(左)。右は境内の狛牛。
アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩2分
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拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放
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