走田神社
(はしりだじんじゃ)
京都府長岡京市奥海印寺走田3
走田神社の「走田」とは「走り稲=早稲」を作る水田、という意味です。
〔御祭神〕
天津兒屋根神
(あめのこやねのかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
姫大神(ひめのおおかみ)
長岡天満宮から北西に2㎞ほどのところ、バス道沿いに建つ長岡京市在宅介護センターのすぐ脇に、白い鳥居が建っています。この鳥居をくぐった奥に鎮座しているのが走田神社です。走田神社は延喜式内社に列せられる由緒ある神社だったといわれており、かつては妙見菩薩が合祀されていたため「妙見社」とよばれていました。
鳥居の奥の100段以上の石段を登ると、能舞台と社殿のある境内に着きます。
平安時代のはじめの頃の話。嵯峨天皇の命を受け、鎮護国家のための大寺院の建立地を捜し求めていた弘法大師の高弟・道雄僧都は、夢の中に現れた童子より長岡京の西山の地に適地があるとの啓示を受けます。夢に従ってこの地を訪れた道雄僧都の前に姿を現した童子は、「吾はこの山を守護する妙見菩薩なり。寺院建立の暁には千手観音を本尊に崇め、吾を走田神社に合祀せよ」というお告げを残したといいます。
やがてこのお告げにしたがってこの地に築かれた大寺院が「海印寺」ですが、残念ながら応仁の乱で焼失してしまい、現在は塔頭であった寂照院のみが残っています。海印寺建立の前からこの地に鎮座していたといわれる走田神社は奥海印寺村と長法寺村の産土神として村人たちの崇敬を集めていました。海印寺が建立された際、走田神社は寂照院の鎮守社とされ、お告げの通り妙見菩薩が合祀されたそうです。その後、明治維新以降の神仏分離令にともなって妙見菩薩像は寂照院に遷され、社号も正式に「走田神社」と呼ばれるようになりました。
江戸時代後半に再建された社殿。
実際のところ、この走田神社=延喜式内社の走田神社かどうかは定かではありませんが、1825(文政8)年に再建された社殿には1483(文明15)年の写しが残されていますので、少なくとも500年以上の歴史を持つ古社であることは間違いありません。
拝殿脇の摂社。社号は分かりませんが、お稲荷さんだと思われます。
走田神社のお祭りで有名なのが、正月13日に行われる「弓講」です。無病息災や五穀豊穣を祈念して行われる「弓講」では、羽織袴に身を包んだ2人の射手が、合わせて12本の矢を直径約1.3メートルの的に向かって射ます。12本の矢は睦月から師走までの月を表しているそうで、矢が的の中央の黒点に命中すれば、その月は豊作になるといわれています。
参詣人は、神事が終わると的の両側に立ててある御幣に一斉に押し寄せます。この御幣を見事とることができた人は、1年間息災に暮らせるといわれています。
アクセス
・阪急京都線「長岡天神駅」またはJR「長岡京駅」下車、阪急バス「明神前」バス停下車すぐ。
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拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放