神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

深江・大日霊女神社。

2006年09月03日 | ■神戸市東灘区
家内安全・厄除・交通安全

大日霊女神社

(おおひるめじんじゃ)
神戸市東灘区深江本町3-5-7

大日っつぁん



南に立つ真っ白な神明鳥居。伊勢神宮の鳥居と同じタイプのものです。


〔御祭神〕
大日霊女尊
(おおひるめのみこと)
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)
戎大神
(えびすのおおかみ)



 阪神電車の「深江駅」。阪神電車の駅の中では市内でもっとも東端にあるこの駅の南には、なかなか面白い成り立ちをした神社が鎮座しています。その神社の名前は、大日霊女神社。地元の方々が親しみを込めて「大日つぁん」と呼んでいるこの神社は、一人の住職さんのある行動がきっかけで生まれた神社です。





1908(明治41)年に神明造で建てられた本殿は、阪神淡路大震災で倒壊。
現在の本殿は2000(平成12)年に再建されたものです。


 昔、この辺りには薬王寺という寺院があり、大日如来尊を本尊としていました。しかし薬王寺の住職だった観空和尚は、1481(文明13)年にこの地を教化に訪れた蓮如上人の教えに帰依し、真言宗だった寺院を浄土真宗へと改宗してしまいます。この頃は応仁の乱が終わり、加賀国で加賀一向一揆が起こったり、京都・山科の地に本願寺が築かれるなど、浄土真宗がその勢力をどんどん拡大している時代でした。今もこの周辺に残る永井山正寿寺(深江)香雲山無量寺(青木)青木山西林寺(北青木)などは、この半世紀後に前後して開基された浄土真宗の寺院です。





かつては「踊り松」の南にあった白玉稲荷。隣には末光稲荷も。



 当時は「浄土真宗」という呼び名が浄土宗の否定というふうに受け取られる恐れがあったため、「真宗」と名乗っていたそうです。「一向宗」という呼び名は江戸時代、浄土宗側から幕府へと働きかけがあった結果「浄土真宗」いう名称の使用が禁じられたために付けられた呼び名です。「浄土真宗」と公に名乗るのは、明治時代に政府の大教院に宗教団体登録を行う際、浄土真宗本願寺が「浄土真宗」という名で登録して以降の事だそうです。





この地域で獲れた新鮮な魚介類を有馬温泉まで運ぶために設けられた「魚屋道」の記念碑。



 真言宗から浄土真宗へと宗旨替えしてしまった観空和尚は、寺号も「延寿寺」とかえてしまいます。このときご本尊も浄土真宗の教えに基づき阿弥陀如来尊に替えられてしまったため、寺を追い出される形になった大日如来尊像を村人たちが引き取って祀ったのが大日霊女神社の始まりだといわれています。ただ、深江村の氏神はこの大日霊女神社ではなく、森稲荷神社保久良神社が正式な氏神さまでした。深江を含む青木中野小路北畑田辺(以上神戸市)・三条津知(以上芦屋市)の村々は「本庄9ヶ村」とよばれ、森稲荷神社保久良神社を氏神にしていました。明治に入り、そのどちらか一方を氏神として選択しなければならなくなった際、深江青木の3ヶ村は森稲荷神社を、ほかの6ヶ村は保久良神社を氏神としたそうです。いまも、大日霊女神社の神主は森稲荷神社神田宮司が兼務しています。





今の国道43号線あたりを通っていた「旧西国浜街道」の記念碑。
この辺りでは43号線より1本北、神社の鳥居前を通っていました。


 1908(明治41)年には神明造瓦葺流造の本殿と瓦葺入母屋造の拝殿などが建てられました。残念ながら、1945(昭和20)年8月の米軍による無差別大空襲によって社務所やだんじり庫、樹齢集百年の松が焼かれるなど大きなダメージを受けましたが、本殿・拝殿は何とか戦災を免れました。その社殿も1995(平成7)年の阪神淡路大震災で全壊。2000(平成12)年に無事新しい社殿が再建されました。





「深江史の庭」。この地域にあった記念碑や石碑が一同に集められています。



アクセス
・阪神電車「深江駅」下車、南へ徒歩2分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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