神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・兵庫県神戸護国神社。

2006年08月20日 | ■神戸市灘区
武運長久・健康長寿


兵庫県神戸護国神社

(こうべごこくじんじゃ)
神戸市灘区篠原北町4-5-1




市道山麓線沿いに立つ兵庫県神戸護国神社。春には美しい桜の花で包まれます。


〔御祭神〕
兵庫県東部地域出身の戦没者53,000余柱



 阪急六甲駅から北に歩くと六甲登山口の交差点に出ます。そこから市道山麓線に沿って西へ少し歩くと、桜の名所でもありフリーマーケットでも賑わいを見せる兵庫県神戸護国神社に辿り着きます。ここ兵庫県神戸護国神社は、兵庫県東部出身の戦没者約5万3千柱を祀っている神社で、兵庫県姫路護国神社と合わせて11万柱にものぼる兵庫県出身戦没者を祀る祭祀・鎮魂の場となっています。参拝を済ませ、数多く立ち並ぶ慰霊碑に手を合わせていると、自ずと「2度とあのような惨事を引き起こしてはならない」という思いと、今の平和な日本社会のありがたさ、そしてその礎となって戦場に散っていった先人たちへの感謝の念に包まれました。





境内にはこのような慰霊碑が多数建てられています。



 明治以来、毎年官民合同で神戸市兵庫区会下山町の地に祭壇を設けて招魂祭が行われていました。その後、王子町にあった関西学院の跡地3,000坪を取得、1940(昭和15)年4月27日に地鎮祭が行われて社殿の造営が始まり、翌1941(昭和16)年7月18日には境内が整い護国神社鎮座祭が執り行われました。
 護国神社鎮座祭に先立ち、1940(昭和15年6月25日には内務省指定の「護国神社」に列せられ、出征した兵士たちの御霊を弔い且つ戦地での無事を祈る人々に厚く崇敬されてきましたが、1945(昭和20)年6月5日に来襲した474機のB29による神戸大空襲に遭い、兵庫県神戸護国神社は境内の全てを焼失する大被害を受けました。この時の空襲では、米軍による絨毯爆撃によって3,000t以上の焼夷弾が落とされ、神戸の市街地の約28%が無差別に焼き尽くされました。この時の空襲を含めた神戸での犠牲者の数は9,000人近くにのぼり、15万人近くの市民が負傷、焼失した家屋は15万戸など、壊滅的な被害を受けています。





昭和34年に現在地に建てられた社殿。



 兵庫県姫路護国神社の記事でも述べましたが、戦後のGHQによる占領下では「護国神社」という名前は軍国主義施設として廃止される恐れがあったため、「兵庫御霊神社」と改称する事でかろうじて存続が認められる事となりました。その後、1950(昭和25)年には「兵庫県神戸護国神社奉賛会」が設立されて社殿の復興計画が進められ、1951(昭和26)年9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約によって独立国家として日本が再出発した後の1952(昭和27)年に再び「兵庫県神戸護国神社」の名前に戻されました。
 1957(昭和32)年1月、社務所が完成し、さらに1959(昭和34)年11月には灘区篠原北町の現在地にて社殿が再建され、本格的に復興を果たすこととなり、継続的に境内の整備も進められてきました。しかしながら、1995(平成7)年1月17日未明に神戸を襲った阪神・淡路大震災によって社務所が半壊するなど、兵庫県神戸護国神社は大きな被害を受けましたが、戦没者遺族崇敬者の皆さんの熱意によって再興され、翌1996(平成8)年11月には無事「阪神・淡路大震災被害修復竣工奉告祭」が執り行われました。





北方異民族慰霊の碑。先の大戦でなくなられた他国の方もお祀りされています。



アクセス
・阪急電車「阪急六甲駅」下車、北西へ徒歩8分
・JR「六甲道駅」下車、北西へ徒歩15分
兵庫県神戸護国神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved. 

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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