Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

忘れたい論文

2014-03-08 02:05:38 | お仕事・勉強など
大学からぼくの論文が掲載された雑誌が送られてきたのですが、正直言ってこれは見たくはない論文と言うか、記憶から払拭したい論文です。

ただ、ロシア文学関係者の方々(特に若手)には、ぜひ一度お読みいただきたい論文でもあります。というのは別に内容が優れているからとかそういう理由ではないのですが。

もともとこれは学会誌に応募してリジェクトされた論文でして、それを少し改稿したものです。つまり、はっきり言うと、学会誌に掲載されるレベルではないと判断された論文です。ですから、ロシア文学を勉強されている方々、とりわけ学会誌に論文を投稿されている若手の方々には、ぜひお読みいただいて、参考にしてもらいたいと思うのです。

もしお読みいただければ、「こんなのだから落とされるのだ」とお感じになられる人もいらっしゃるでしょうし、あるいは「このレベルでも落とされるのか」と驚かれる人もひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。

初稿を書き上げてからもう一年以上経っているので、ぼくは自分の論文を割と客観視できているつもりです。その上で言うと、この論文が学会誌に落とされた一番の原因と(ぼくに)思われるのは、「独自性のなさ」です。

しかしその点については、ぼくはかなり確信的でした。というのも、この論文で心がけたのは、とにかくデータを提供することで、自分の意見を押し出すことは控えていたからです。もうこれまでにこのブログで何度も書いていますが、ぼくのやっている分野(作家)の日本での研究というのはそんなに進んでいないので(研究者の数が少ないので)、この分野に取り組もうとすれば、ほとんど一から勉強を始めなくてはなりません。それはけっこうきついし、また世界的にはとっくに知られていることを自分で一から掘り起こさないといけないのは、時間の無駄でもあります。だからこそ、先行研究を網羅的に紹介し、それをまとめ上げることに、非常に大きな意味があると考えました。

ところが、論文というのは自分独自の切り口でシャープにまとめ上げたものが好まれるようなんですよね。ぼくのようなタイプの「論文」は、「研究ノート」として扱われるようなのです。そういうものだと言われればそれまでですが、しかしこれからの研究者に役立つものを提供しようとしたぼくとしては、遣り切れないわけです。だって、ぼくのこの「論文」は、たとえ学術的な「論文」という範疇に収まらないとしても、読まれる価値があるからです。仮にぼくが自分の意見をすぱっと言い切った論文を書いて、それが学会誌に掲載されたとしても、それを読んで喜ぶのって誰なんでしょう。少なくともぼくが実際に書いた「論文」は、これからこの分野を研究しようとする人たちにとってはとても喜ばれるものだと思うのです。ぼくはそういうものを書いたのですから。ところが、そういうものは掲載を拒否されてしまうわけです。

査読されたとき、非常に高い評価をくれた人がいましたが、一方で最低の評価を下した人もいました。中間くらいの評価の人もいました。つまり、完全に評価が分かれたわけです。高い評価を過半数から得なければ掲載されない仕組みなのかもしれませんが、そういう点も納得できかねる部分ではありました。

で、これが掲載されないっていうのは、今後この分野を研究する人たちにとってはマイナスだろうとぼくは考えたわけです。それでまあ色々あって(先生に相談させていただいたりして)、大学の紀要(なのかな?)に投稿することになったのです。最初は思い切って「研究ノート」のつもりで書き直し始めたのですが、それはそれで書き方がよく分からなかったので(徹底できなかったので)、結局またしても「論文」という形になりました。しかしその過程で、初稿にあった重要事項を削除したりもしました。それがなければこの原稿の価値も少なくなるなあと思いつつ、かろうじて「論文」という形式にまとめるため、泣く泣く削除したのです。だから、ぼくにとって今回の決定稿は、初稿ほどの価値はない中途半端なものです。それで今はあんまり思い出したくないのです。

改めて読み返してみると、いまいち言っていることが判然としない部分もあり、確かに優れた論文ではないと思いますが、でもリジェクトされるようなものでもないと思うわけです。実際、ぼくの論文を読んでいただいたある方からは、このレベルだったら前回の学会誌に掲載されてもおかしくなかったと仰っていただけました。慰撫するお気持ちがあったのかもしれませんが、でも執筆から一年以上経って客観的な見方ができるようになったぼくが自分で読んでも、やはり腑に落ちないのです。

自分の意見を打ち出すとか、おもしろい切り口で対象を切り取るとか、そういう作業に別に苦手意識はないので、それが論文なんですよと言われたときには驚いたわけですが、でもぼくの考える「論文」と、学会誌で要求される「論文」とには、はっきりとした齟齬があるのです。後者にすり寄って自分の考えを歪めることは容易いですが、本当にそうする価値はあるのだろうか、と立ち止まって考えざるを得ません。というのも、そうしてしまうことで、この分野の研究は遅れてしまうし、ぼく自身の研究目標も遠ざかってしまうからです。

そういう意味で、学会に対してかなり冷めた目を持ち始めたってのは事実です。だから、どうでもいいやって思い始めてます。ロシア文学の発展に貢献するとか、次世代の研究者のためにとか、やっても評価されないどころか、(リジェクトすることで)やること自体を押し潰されてしまうので、もう知らないよ。

これだけが理由ではないけれど、こんなこともあって、ぼくはロシア文学から距離を置くことにしました。まあ気が向いたらまたどこかの雑誌に投稿することがあるかもしれませんが、それはもう趣味のレベルだと思います。どんなに体裁が整っていようとも、何か大きな目標や志の失われた、ぼく個人にとっては趣味のレベルのものだと思います。それが仮に「論文」と人から呼ばれたとしても、ぼくはそれを論文とはみなさないでしょう。志の低い雑文に過ぎません。

さて、そんなわけで、今回のぼくの(ひょっとしたら最後の)「論文」は、多くの若手研究者に読んでいただきたいと思っています。僭越ながら、「論文」はいかにあるべきか、ということを考えるための一助になるのではないかと思っています。ま、反面教師にしてください。

読みようによってはかなり不遜なことを書いてきましたが、この文章が的を射ているかどうかは、ぼくの「論文」をお読みいただいてから判断なさって下さい。