ニーチェは「未来の文献学」ということを言っているらしい。未来の誰かのために、この一行、この一文字を書くのだ、という意味のよう。
僭越ながら、とてもよく分かる。分かってしまう。書く理由というのを突き詰めて考えると、どうしてもそこに至らざるを得ない。至らざるを得ないのだけど、それでもやはり迷うし、うろたえてしまう。決然と書くことができない。
「未来の文献学」というのは、外付けの動機なのかもしれない。ただ内心を吐露したいという「発作」を隠すための。明確な理由が欲しくて、他者のためと言っているだけではないか? そういう疑いが頭をもたげてしまう。
表白欲求というのは承認欲求と背中合わせ。ただし承認欲求とは評価されたいという欲求ではなく、ただ分かってもらいたいという欲求に違いない。つまり共感の欲求。しかし共感欲求というのは、誰かに自分の成功を見せつけたいという欲求ではありえず、自分の傷を傷として認めてほしいという欲求のことだろう。けれどそれは必ずしも傷を癒してほしいという欲求ではない。そうではなく、この傷が誰かの光となることで、自分が傷ついた事実を贖おうとする欲求ではないか。自分の傷が誰かに報いることを望んでいるのではないか。そうだとすれば、やはり「未来の文献学」ということになる。ここに行き着いてしまう。
それにもかかわらず、ぼくは迷う。うろたえる。怯える。この堂々巡り。
答えは出ているのではないか? しかしこの論法に瑕疵があるのではないかと、それを探し回る。
チェーホフは、「誰のために書くべきか」ということに悩んだらしい。昔その悩みにひどく共感したものだけれど、今改めて、たぶん当時よりも高次元でその悩みに共感する。というより、その悩みの凄まじさに戦慄する。チェーホフの問いは、ぼくのよりも激しい。
僭越ながら、とてもよく分かる。分かってしまう。書く理由というのを突き詰めて考えると、どうしてもそこに至らざるを得ない。至らざるを得ないのだけど、それでもやはり迷うし、うろたえてしまう。決然と書くことができない。
「未来の文献学」というのは、外付けの動機なのかもしれない。ただ内心を吐露したいという「発作」を隠すための。明確な理由が欲しくて、他者のためと言っているだけではないか? そういう疑いが頭をもたげてしまう。
表白欲求というのは承認欲求と背中合わせ。ただし承認欲求とは評価されたいという欲求ではなく、ただ分かってもらいたいという欲求に違いない。つまり共感の欲求。しかし共感欲求というのは、誰かに自分の成功を見せつけたいという欲求ではありえず、自分の傷を傷として認めてほしいという欲求のことだろう。けれどそれは必ずしも傷を癒してほしいという欲求ではない。そうではなく、この傷が誰かの光となることで、自分が傷ついた事実を贖おうとする欲求ではないか。自分の傷が誰かに報いることを望んでいるのではないか。そうだとすれば、やはり「未来の文献学」ということになる。ここに行き着いてしまう。
それにもかかわらず、ぼくは迷う。うろたえる。怯える。この堂々巡り。
答えは出ているのではないか? しかしこの論法に瑕疵があるのではないかと、それを探し回る。
チェーホフは、「誰のために書くべきか」ということに悩んだらしい。昔その悩みにひどく共感したものだけれど、今改めて、たぶん当時よりも高次元でその悩みに共感する。というより、その悩みの凄まじさに戦慄する。チェーホフの問いは、ぼくのよりも激しい。