Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

かぐや姫の物語 前置き

2013-11-24 00:19:57 | アニメーション
パンフレットに掲載されている監督・高畑勲の解説と俳優・山口智子のレビューによって、この作品の肝の部分は言い尽くされているのではないだろうか、という気がしなくもないですが(とりわけ山口智子のレビューは実によく書けていた)、でも一応自分の言葉で感想を述べてみたいので、ここに少し書いておきたいと思います。

まず初めに言うと、すばらしかった。ここまで感動するとは思っていませんでした。感動する用意なんてできていませんでした。高畑勲の監督作は、世間的にはなぜか冷遇されている気がするのですが、もし何らかの先入観があって『かぐや姫の物語』を見に行くつもりがないという人がいたら、ぼくはその人に「試しに行ってごらん」と勧めたい。

でも、今yahooのレビューを少しだけ閲覧してみたら、低評価もそれなりにあって、驚きました。どんなに優れた作品で、どんなに自分の心に届いた作品でも、それが万人から理解されることはない、という当たり前の事実に、打ちのめされました。ああいうレビューを見ていると、文章のひどさ(文法的な誤り、誤字など)や内容のひどさ(事実誤認、明らかな的外れ、無教養、傲慢な姿勢など)にうんざりし、そういう人たちから低評価されてしまうことに義憤を感じる一方で、そういう人たちから高評価されてしまうことに遣り切れなさを感じてしまいます。もちろん、そうではないレビューもたくさんありますが、そうではないレビューも低評価だったり高評価だったりして、結局のところ万人から支持を得られているわけではないのです。

傑作だからこそ評価が割れるのでしょうか? ドストエフスキーだって、万人から理解されているわけではありません。生前は評価されなかった天才たちも大勢います。でもぼくは悔しい。こんなにも心揺さぶられる作品がけなされるのは見るに堪えません。ひょっとしたら「批評」というのはこういう瞬間に誕生するのかもしれないな、とふと思いました。

なんとかこの作品のすばらしさを人々に伝えたい。もっと知ってもらいたい。その欲求の一方で、しかし自分の言葉でそんなことが果たして可能だろうか、この作品を伝える言葉などそもそもありうるのだろうか、という不審が沸々と湧いてきます。この欲求と不審に引き裂かれながら、それでも欲求の勝る時間というものがあって、そういうときに慌てて「批評」を書かなくてはなりません。

どうやら前置きが長くなりすぎたようです。そしてその間に、不審の影が大きくなってきてしまいました。

『かぐや姫の物語』は、様々な見方をすることができます。ぼくは、「喪失の物語」としてこれを捉え直してみたい。そして一人の人間が生きて死ぬまでの過程とその「物語」とを密に関連させてみたい。というのは、ぼくが劇中で涙したのは、まさに「喪失」のシーンであったから。喪失の予感と、喪失の実現。

すみません、たぶん明日書きます。ぼくは劇場で嗚咽を堪えるのに必死でした。感動したからいい作品だなんて言うつもりはありません。ただこれは自分の心に響きました。余りにも高く、深く。よもやこれほどの衝撃を受けるとは、全くもって予期していませんでした。その衝撃の大きさのあまり、レビューを書くことすらできない・・・。