Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

田中さん?

2013-06-06 02:42:10 | アニメーション
先日買ったアニメーション事典の「ノルシュテイン」の項目に書誌情報が掲載されていたのですが、そこに田中さんという方の書いた「ノルシュテイン映画の心理的時間」(原文ロシア語)という論文(?)がありました。へえ、日本人でノルシュテインを研究していてロシア語で論文を書ける人って、意外といるんですねえ。早速検索かけてみましたが、この「田中さん」がどういう方なのかは分かりませんでした。

「優秀な人間はそうでない人間を疎外している」とかそういうことを本当は書こうと思っていたのですが、あまりに卑屈で暗い内容になりそうなので、やめました。でも、自分が「弱い人間」を排除することでのし上がっているということは、彼らは自覚した方がいい。

あれ、この文脈でこんなことを言ったら、まるでこの「田中さん」が優秀な人間で云々という感じに聞こえてしまうな・・・。そういうつもりは全くありません。悪しからず。

そういえば明日は朝が早いのに宿題まだやってないな。なんかやる気しないな。

トーポリの降る街

2013-06-04 02:16:34 | 本一般
トーポリというのはポプラの一種だそうで、この時期になると白い綿毛を飛ばします。今日は街中をこの綿毛が舞い、まるで雪のように地面に積もっていました。顔にくっついたりするとむず痒いのですが、見ている分にはなかなか幻想的で綺麗。

モスクワの中心部を書店を探して彷徨っていたぼくは、トーポリの降りしきる中、最近聞いたこんな話を思い出していました。「トーポリの綿毛を掴まえられたら願いが叶う」。なんとも乙女チックな都市伝説ですねえ。綿毛はふわふわと舞い飛び、なかなか掌に収まってくれないことから生まれた話なのでしょう。でも今日くらい中空を飛び交っていれば、容易く掴まえられそうな気もしました。「6月の雪」とも言われるほど、それは街を白く染め上げる。

さて、本日は「ヒュペリオン」という書店へ。やや分かりづらいところに位置していましたが(というより周囲の雰囲気がスラムみたいでちょっと怖かった)、非常にユニークなお店で、行った甲斐がありました。『祖国アニメーション百科事典』(つまりロシア・アニメーション百科事典)、『出来事と出来事性』、『記号学の旅』という本を購入。ぞれぞれアニメーション、哲学、文学のジャンルに属する本。このことから分かる通り、『ヒュペリオン』はとても幅広いジャンルの本を扱っており、しかもその一冊一冊が大変おもしろい。他所ではちょっとお目にかかれないような本を何冊も目にしました。思いがけない本の数々に、久々に書店で興奮してしまった。

ただ、ぼくの購入した本の合計金額は1070ルーブルだったのに、なぜか1670ルーブル取られました。おかしいなあとは思いつつ、自分の勘違いかなと思って言われたとおりの金額を払ってしまいましたが、寮に戻って改めて本の裏に書かれた金額を合計してみると、やはり1070ルーブル。600ルーブルも多く支払ってしまった!レシートをもらえなかったので、今更文句を言う訳にもいかず、悔しいまま。2000円ほど間違えたことになって、日本では考えられません(ロシアでも考えられない?)。たぶんお店の人は「170」を「770」と見間違えたのだと思いますが、う~む、けっこう分かりやすく記入してあったんだけどなあ。

そんなわけでちょっと後味は悪かったのですが、でも品揃えはいいですね。

まるで悲しみのように

2013-06-02 02:36:50 | 本一般
現在、『言の葉』バブル中でブログへのアクセス数が急増しています。普段の倍近く。ぼくのブログにはいつも週1500人~1600人ほどの方々が訪れて下さるのですが(閲覧数は4000~5000)、次の一週間はどのくらいになるかなあ。

昨日は『耳をすませば』と『言の葉の庭』について書きましたが、2年前に『耳をすませば』と『塔のむこう』(新海監督のマンガ)について書いていますね。
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/e810ecef394ac302629f712031508443

いま読み返してみると、(我ながら)なかなかおもしろい。

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「ただ生活しているだけで、本はそこここに積もる」。
日本で暮らしていても、モスクワで暮らしていても、それは変わらないですね。こちらに来てから9か月ほどになりますが、本をたくさん購入した記憶がほとんどありません。それにもかかわらず、先日部屋にある本を数えてみたら、100冊を越えていました。謎です。9か月で100冊なので、やはりそれほど買っているわけではないとは思うのですが(日本から持参した本もあるわけだし)、これを日本に持ち帰らねばならないので、そのことを考えると気がふさぎます。段ボール一箱では仕舞い切れなさそうですねえ、これは。そうすると費用が嵩む。最寄りの郵便局まで本を運ぶ手間も増える(一度で全て運べない気がする)。トランクにできるだけ詰め込んで、郵送する分は減らしたいなあ。ともかく厄介ですね。

だいたい、梱包は郵便局できちんとやってくれるんでしょうか?本をどっさり渡しても、緩衝材もなく段ボールに詰められると少々困るのですが・・・。かといってこちらで前もって段ボールに詰めておくことはできないし(だってその段ボールをどうやって郵便局まで運べばいい?)。緩衝材はこちらで用意するので、それと本を同時に渡せばいいのかなあ。なんかよく分からないなあ。こういうのってストレスだよなあ。

一応EMSで送るつもりなので、国際標準に倣って丁寧に取り扱ってほしいものですが、ロシアにそれを要求するのは間違っているような気もする(と言ったらロシア人に失礼かな)。

ただ生活しているだけで、本はそこここに積もる。まるで悲しみのように。

モスクワで『言の葉の庭』を観る

2013-06-01 06:30:24 | アニメーション
5月31日に全世界で視聴可能となった新海誠監督の最新作『言の葉の庭』、観ました。幾つかのトピックについて書きたいと思います。

・『耳をすませば』のモチーフ
今作には『耳をすませば』の残像があるように思います。主人公が靴作りの職人を目指す少年であることは、『耳』におけるバイオリン作りの職人を目指す少年というモチーフと響き合っていますし、また作中からは『耳』を仄めかす台詞を聞き取ることができました。家を出ていくタカオの兄が言う、「部屋が広くなっていいだろ」という台詞、それからクラスメイトの世間話の一部「ほんと月島らしいよな」という台詞。前者は、やはり家を出ていく汐(雫の姉)が言う台詞と共通しています。後者に関しては特に説明する必要もないでしょうが、雫の名字は月島でした。

・『耳をすませば』の変奏
『言の葉の庭』は、『耳をすませば』の変奏であると考えることができます。特筆すべき変更点は、少年目線になったこと、年齢差が生まれたこと。

・『耳をすませば』のテーマ
新海監督は『耳をすませば』が好きなことが知られていますが(http://www.anikore.jp/features/shinkai_1_3/)、彼はこの映画を初恋が実る奇跡的な物語として捉える一方で、それは現実にはほとんど例がないと冷静に考えてもいます(この点に関しては、『星を追う子ども』の舞台挨拶で触れられていたはずです)。したがって、『秒速5センチメートル』のような「初恋が実らない話」を作ろうとする意欲が生まれてくるわけです。新海監督が『耳をすませば』に本来備わっているのとは別の意味での「ありったけのリアリティ」(『耳』パンフレットにおける宮崎駿の言葉)を加えたのが『秒速』であるとみなせるのです。『言の葉の庭』においても、そのような意味での「リアリティ」は息づいているように感じられます。つまり、恋というものはお互い惹かれ合ってさえいれば必ず成就するようなものではないという現実=リアルが前提としてあるわけです。この前提を形成するのが本作における男女の年齢差でしょう。

・『耳をすませば』と風景
では、『耳』と『言の葉の庭』における共通テーマは何かと言えば、その最大のものは風景に対する視線だと思います。前者に関連して「イバラード目」と言われる世界に対する新鮮な視線は、一見すると凡俗で薄汚くさえ思える世界から、まるで子どもが初めて世界を目にしたときのような新鮮な驚きと喜びを取り戻してくれます。新海作品に通底している風景美は、まさにこのような「イバラード目」を視聴者にも授けてくれるかのようです。新海監督の視線のフィルターを通して見つめられた世界は、あまりにも美しい。『言の葉』においてその風景美は途方もないものになっています。輝いている世界を描くのみならず、そのような世界の輝きの独自の見せ方にも磨きがかかっており、「何を」「いかに」見ればよいのか、教えてくれているかのようです。

・リアリティを突破する
先程、男女の年齢差が一種のリアリティを形成していると書きましたが、もしもこの年齢差が乗り越えられない壁として機能し続けるのなら、リアリティはリアリティのままであることでしょう。ところが、この壁=リアリティは、突破される予感があります。その契機となったのは、タカオとユキノの心情激白でしょう。これまでの新海作品では、主にモノローグで物語が進行することが多く、登場人物の内に秘めた想いは必ずしも相手に届きませんでした。ところが今回、二人は感情を爆発させてダイアローグを行うのです。そしてそれによって、二人の距離は心理的にも身体的にも縮まることになります。ディスコミュニケーションからコミュニケーションへの転換と捉えてもよいと思います。恐らく突破されるリアリティというのは人間関係のそれだけではなく、風景のそれでもあるように思われます。つまりリアルを超えた美。人間というものは世界をこれほど美しく眺めることができるという例証。

・再び『耳をすませば』
『耳』における恋愛は、互いを見つめ合う類のものではなく、前を向いて地に足付けて歩く人のそれでした。『言の葉』においても、遠い地点を目指して歩こうとする少年が主人公です。前を向くこと。今作の最大のポイントはそこなのではないか、と思っています。


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という感じで、あえて『耳』との関連に的を絞って書いてみましたが、恐らく今作の最大の見所の一つは風景美です。日本にいる方は是非劇場でご堪能下さい。46分。1000円です。