新海誠と『耳をすませば』。
ぼくにとっては永遠のテーマです。
その理由はともかくとして、なぜ新海作品と『耳をすませば』とが並置されるかと言えば、双方が共に恋愛を扱っている一方で、まるで対蹠的な作品だからです。
『アニメージュ』が特集したジブリの関連記事を掲載した、ロマンアルバム『スタジオジブリの軌跡』という本が発売中ですが、そこには耳すまの記事も載っています。ぼくは元の『アニメージュ』を持っているし、そこで行われている宮崎駿のインタビューも当然読んでいるのですが(彼はこの作品ではプロデューサー)、改めて読み返してみると、新海作品との違いに自ずと気付かされます。宮崎駿は次のように語っています。「雫という子は常に自分自身をしっかり見つめながら、頑固なまでに自分の道を、自分自身の手で切り開いていこうとしている。そんな、「常に自分自身であり続ける」という人物を描かなければ、少女マンガを映画作品にする意味がないわけです」。「職人としての自分自身の才能を直視しながら未知の世界を切り開いていく、そんな少年の姿を描いてみたかったんです」。宮崎駿の語る少年少女像は、自分自身で自分の道を切り開いてゆこうとする確固たる信念をもった人間です。
これに対して、新海誠の『塔のむこう』という漫画では、主人公の女子高生がこう独白します。「――だからつまり、あたしは何にもなりたくなんてないんだ。あたしはまず、ちゃんと、あたし自身になりたい」。ここに描かれるのは、確固たる自我をもちえない、自分の道をまだ見つけられない不安定な少女の姿です。
雫も最初はやはり確固たる信念は持っていなかったし、自分の道というものを深く考えたことがなかった。けれども聖司に出会い、その真っ直ぐな生き方に触発されて、やがて自分の道へと歩み出してゆくのです。翻って『塔のむこう』の少女は、最初から最後まで自分の道を見出すことができず、あまつさえ「あたしは何にもなりたくなんてないんだ」と心に思います。「あたし自身になりたい」とは考えても、その手立てが講じられることはなく、彼女にできるのはただ「塔」までひたすら歩くことだけでした。しかしそれすら完遂できずに彼女は電車を使うのです。少女自身の、そして彼女の魂の彷徨。つまり、『耳をすませば』においては、白紙に鉛筆で一本の線を引くかのように、少女の成長がくっきりと印象付けられ、他方で『塔のむこう』においては少女の魂が螺旋状にぐるぐると右往左往し、どこへ至るでもないのです。塔まで歩くその軌跡は恐らく一直線ではなく、ジグザグの複雑なものなのでしょう。ここでははっきりとした少女の成長が描かれることはなく、ただ歩くという行為が題材になっているように、彼女の迷いそのものに焦点が絞られているのです。「発端、迷いの過程、解決」を一通り示してみせる耳すまに比べて、『塔のむこう』はただただ「迷いの過程」を記述しているに過ぎません。そしてこのような傾向は、恋愛描写においてもやはりまたそうなのです。
宮崎駿は先のインタビューで述べています。「人を好きになる、ということは、人間にとって本来極めてシンプルな行為のはずです。したがって、まどろっこしい心理上の駆け引きや、煮え切らない心の裡、といったものを描く甘ったるい恋愛ドラマではなく、もっと素直に恋愛感情を表現する、正々堂々とした、ラブロマンスを作りたかったんです」。新海作品とは対蹠的であることは、もはや明らかでしょう。というのも、そこではまさに「煮え切らない心の裡」を描くことにこそ力が傾注されているからです。例えば『秒速5センチメートル』のタカキは、13歳頃の淡い恋心を、20代後半まで引きずり続けていました(最後に想いを断ち切る様子が描かれますが)。
くよくよと悩んだり、想いを秘め続ける新海作品の主人公たち。一方で率直に想いを明かし、二人で未来へ歩み出そうとする耳すまの恋人たち。端的に言えば、前者は恋愛の現実を描き、後者はその理想を描いていると言えるでしょう。あるいは、恋愛の苦しみ/恋愛の喜び。希望型の恋愛と停滞型の恋愛。この点で、やはり耳すまと新海作品とでは、心理描写に非常に大きな違いがあるのです。
こうなると、両方とも大好きだ、という立場などありえないような気がしてくるのですが、ところが現にぼくがそうなのです。これは困った。困りましたが、しかし実はそれほど可笑しなことではないかもしれませんね。現実の描写にその主人公と同じように傷つき、そして慰撫され、理想の描写に心を奮い立たせられることは、別に不思議ではないから。
耳すまと新海作品とは対蹠的だ、と何度も繰り返してきましたが、共通点もあるように思います。それは、共に「肯定してくれる物語」であること。ただし、肯定の対象が違います。耳すまは、恋する心の肯定、ひいては生きることの肯定の物語です。新海作品は、悩む心の肯定、生きる上で苦しみを背負うことの肯定の物語です。そういう、踵を接する両極の物語たち。
すばらしい。
ぼくにとっては永遠のテーマです。
その理由はともかくとして、なぜ新海作品と『耳をすませば』とが並置されるかと言えば、双方が共に恋愛を扱っている一方で、まるで対蹠的な作品だからです。
『アニメージュ』が特集したジブリの関連記事を掲載した、ロマンアルバム『スタジオジブリの軌跡』という本が発売中ですが、そこには耳すまの記事も載っています。ぼくは元の『アニメージュ』を持っているし、そこで行われている宮崎駿のインタビューも当然読んでいるのですが(彼はこの作品ではプロデューサー)、改めて読み返してみると、新海作品との違いに自ずと気付かされます。宮崎駿は次のように語っています。「雫という子は常に自分自身をしっかり見つめながら、頑固なまでに自分の道を、自分自身の手で切り開いていこうとしている。そんな、「常に自分自身であり続ける」という人物を描かなければ、少女マンガを映画作品にする意味がないわけです」。「職人としての自分自身の才能を直視しながら未知の世界を切り開いていく、そんな少年の姿を描いてみたかったんです」。宮崎駿の語る少年少女像は、自分自身で自分の道を切り開いてゆこうとする確固たる信念をもった人間です。
これに対して、新海誠の『塔のむこう』という漫画では、主人公の女子高生がこう独白します。「――だからつまり、あたしは何にもなりたくなんてないんだ。あたしはまず、ちゃんと、あたし自身になりたい」。ここに描かれるのは、確固たる自我をもちえない、自分の道をまだ見つけられない不安定な少女の姿です。
雫も最初はやはり確固たる信念は持っていなかったし、自分の道というものを深く考えたことがなかった。けれども聖司に出会い、その真っ直ぐな生き方に触発されて、やがて自分の道へと歩み出してゆくのです。翻って『塔のむこう』の少女は、最初から最後まで自分の道を見出すことができず、あまつさえ「あたしは何にもなりたくなんてないんだ」と心に思います。「あたし自身になりたい」とは考えても、その手立てが講じられることはなく、彼女にできるのはただ「塔」までひたすら歩くことだけでした。しかしそれすら完遂できずに彼女は電車を使うのです。少女自身の、そして彼女の魂の彷徨。つまり、『耳をすませば』においては、白紙に鉛筆で一本の線を引くかのように、少女の成長がくっきりと印象付けられ、他方で『塔のむこう』においては少女の魂が螺旋状にぐるぐると右往左往し、どこへ至るでもないのです。塔まで歩くその軌跡は恐らく一直線ではなく、ジグザグの複雑なものなのでしょう。ここでははっきりとした少女の成長が描かれることはなく、ただ歩くという行為が題材になっているように、彼女の迷いそのものに焦点が絞られているのです。「発端、迷いの過程、解決」を一通り示してみせる耳すまに比べて、『塔のむこう』はただただ「迷いの過程」を記述しているに過ぎません。そしてこのような傾向は、恋愛描写においてもやはりまたそうなのです。
宮崎駿は先のインタビューで述べています。「人を好きになる、ということは、人間にとって本来極めてシンプルな行為のはずです。したがって、まどろっこしい心理上の駆け引きや、煮え切らない心の裡、といったものを描く甘ったるい恋愛ドラマではなく、もっと素直に恋愛感情を表現する、正々堂々とした、ラブロマンスを作りたかったんです」。新海作品とは対蹠的であることは、もはや明らかでしょう。というのも、そこではまさに「煮え切らない心の裡」を描くことにこそ力が傾注されているからです。例えば『秒速5センチメートル』のタカキは、13歳頃の淡い恋心を、20代後半まで引きずり続けていました(最後に想いを断ち切る様子が描かれますが)。
くよくよと悩んだり、想いを秘め続ける新海作品の主人公たち。一方で率直に想いを明かし、二人で未来へ歩み出そうとする耳すまの恋人たち。端的に言えば、前者は恋愛の現実を描き、後者はその理想を描いていると言えるでしょう。あるいは、恋愛の苦しみ/恋愛の喜び。希望型の恋愛と停滞型の恋愛。この点で、やはり耳すまと新海作品とでは、心理描写に非常に大きな違いがあるのです。
こうなると、両方とも大好きだ、という立場などありえないような気がしてくるのですが、ところが現にぼくがそうなのです。これは困った。困りましたが、しかし実はそれほど可笑しなことではないかもしれませんね。現実の描写にその主人公と同じように傷つき、そして慰撫され、理想の描写に心を奮い立たせられることは、別に不思議ではないから。
耳すまと新海作品とは対蹠的だ、と何度も繰り返してきましたが、共通点もあるように思います。それは、共に「肯定してくれる物語」であること。ただし、肯定の対象が違います。耳すまは、恋する心の肯定、ひいては生きることの肯定の物語です。新海作品は、悩む心の肯定、生きる上で苦しみを背負うことの肯定の物語です。そういう、踵を接する両極の物語たち。
すばらしい。