『魔法少女まどか☆マギカ』について。
これから視聴するという人は読まないで下さい。
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まだ分からないところが部分的に残っていますが、作品について今更だけどちょっと考えてみた。
本作において、魔法少女というのは魔女に孵化するまでの過渡的段階、いわば幼虫やさなぎに相当するわけですが、魔法少女となったからには彼女たちは死ぬか、あるいは魔女にならなければなりません。そのように仕組まれています。もちろん契約の際にはそうした事実は語られることはないので、少女たちはただ自らの(誰かの)望みをかなえるためにだけ魔法少女となります。ところが、まどかだけは最後まで魔法少女になることを躊躇い続けるために、やがて魔法少女と魔女の秘密を知ることになります。はっきり言って、こんなハイリスクな契約は誰も結ぼうとはしない。真実を知らないのならばいざ知らず、自分が近い将来必ず死ぬことになる、あるいは魔女になってしまう=世界に害悪をもたらす存在になってしまうと知って尚、どうして契約を交わすことができるでしょうか。何かを希望することによって魔法少女となったのに、その末路は何かを絶望することによって魔女になること。その宿命を背負わなければいけない。しかし、まどかは決断する、魔法少女となることを。過去、現在、未来のあらゆる魔女を消滅させることを希望して。
これはある意味で反則技とも言えると思う。魔法少女→魔女という世界の理を捻じ曲げてしまうことだから。物理法則を無視し因果律を破壊した、世界の書き換え。ほむらの行為によって因果の糸が集中することになったまどかにだからこそできた、強大な力の行使。本作ではきちんとこの「反則技」が可能なものとして設定されている点がすばらしいところなのですが、それはここでは措きます。問題にしたいのは、まどかの愛。彼女は絶望に陥る魂を愛で包み込み、それを救済する。そして大切なのは、それが見返りを求めない愛であるということ。まどかはその望みの必然性によって、過去と現在と未来とに存在することになりますから、したがって人間ではありえなくなります。通常の魔法少女もまた既に人間足りえていませんが、まどかの場合は、その人間的形状さえも失うことになります。あらゆる時空間に遍在する、概念としてのまどかに昇華するからです。そして書き換えられた世界にはまどかという人間は記憶の中にさえ存在しません。魔女を発生させないという概念となって遍在するのみです。これはまどかの無償の愛です。少女たちの切実な希望を絶望に変えないための、希望を希望として守り抜くための、まどかの愛です。
思えば、この作品に登場する主な魔法少女たちは、見返りを求めない愛ということについて葛藤します。その意味で、今作のテーマの一つは間違いなく愛であり、そして主人公はまどか一人ではなく、個々の魔法少女たちであると言えるでしょう。
さやかは、密かに慕っている少年の怪我を癒すために魔法少女となりますが、それは取りも返さず他人のための見返りを求めない愛のはずでした。はずでした。しかしやがて彼女は精神的に追い詰められてゆき、やがて親友と少年との友好を見るにつけ、自分が見返りを求めていたことを知ることになります。愛というのは何らかの見返りを必要とするのか、それを問いかけてくるさやかのエピソードですが、自らの深層心理を知るにつれて、さやかの負の感情は増長し、ついに魔女と化します。いわば、さやかは愛の葛藤に押し潰されたわけです。誰かのために、ということが結局、自分のためだったということを悟り、さやかは魔女になったと言えますが、実はそれはこの世の必然であり、魔法少女は絶望して魔女になるか、あるいは魔女に殺されるしかないのです。
ところが、さやかは見返りを求めない愛を捧げる対象ともなっています。捧げる人間は二人いて、一人はまどか。もう一人は杏子。まどかは、さやかが既に「ゾンビ」となっていることを知って尚、抱きしめくれなんて言えないよ、と嘆くさやかを抱擁します。自分がもはや人間的な愛の対象にはなりえないと思い詰めるさやかを、まどかは懸命に愛そうとします。当然そこには何らかの見返りはありえません。また、杏子は、やはり最初は他人のために戦うことを決意しながらも、やがて自分のために戦う道を選んだ杏子は、さやかとは対蹠的であり且つ同位的でもあるのですが、彼女は魔女と化したさやかを人間に戻す術がないと知るや、さやかの寂しさを受け入れるために、自爆して共に死にます。個人的には、ここからエンディングのイラストまでの流れはぐっときた。そのイラストが催涙弾かよって感じで。
そしてほむら。彼女はまどかのために、何度も何度も同じ時間をループして、ただまどかのためだけに、仲間の死を幾度も体験し、自らも幾度も傷つき、悲しみ、嘆き、しかし絶望だけはせずに、夢中で同じことを試行してきました。これもまた、自らを省みない無償の愛でしょう。
キュゥべえの契約というのは、高い代償を支払わなければならないものですから、この物語は希望とその代償についての物語だとも言えるのですが、しかし愛という観点から振り返ったとき、これは愛とその代償についての物語と言った方がいいように思うのです。いや、愛 with 代償ではなく、愛 but 代償の物語です。
この世界には、あらゆることに表と裏があるように、あらゆることに代償が、その対価がある。希望の対価は絶望であり、愛の対価は代償です。だからこそ、魔法少女は必ず魔女になるのであり、無償の愛は悲劇的にしか終わらないのです。まどかは、そのような世界の理を捻じ曲げてしまったのです。したがって彼女は世界を新しく創造したとすら言えるでしょう。書き換えられた世界にも憎悪はなくならないとしても、しかし希望は絶望に変わらず、魔法少女は魔女と化さず、愛は無償のものとなりえます。まどかは無償の愛という概念として遍在し、宇宙はその法則に支配されます。
まどかはほむらの無償の愛を知り、ほむらもまどかの無償の愛を知るただ一人の人間となります。さやか、杏子、そしてマミもまた、誰かのために戦い、死んでゆきましたが、この作品は、「誰かのために」ということが、ただただ尊いものだという当たり前のことを声高に叫んだ作品のような気がします。何らかの代償なしに愛するということ、しかしそれがなされるためには世界を作り変えなければならない、という苦い認識が根底にあるとしても、その愛する行為をとにかく肯定したいのだという真っ直ぐな気持ちが表れているように思いました。
これから視聴するという人は読まないで下さい。
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まだ分からないところが部分的に残っていますが、作品について今更だけどちょっと考えてみた。
本作において、魔法少女というのは魔女に孵化するまでの過渡的段階、いわば幼虫やさなぎに相当するわけですが、魔法少女となったからには彼女たちは死ぬか、あるいは魔女にならなければなりません。そのように仕組まれています。もちろん契約の際にはそうした事実は語られることはないので、少女たちはただ自らの(誰かの)望みをかなえるためにだけ魔法少女となります。ところが、まどかだけは最後まで魔法少女になることを躊躇い続けるために、やがて魔法少女と魔女の秘密を知ることになります。はっきり言って、こんなハイリスクな契約は誰も結ぼうとはしない。真実を知らないのならばいざ知らず、自分が近い将来必ず死ぬことになる、あるいは魔女になってしまう=世界に害悪をもたらす存在になってしまうと知って尚、どうして契約を交わすことができるでしょうか。何かを希望することによって魔法少女となったのに、その末路は何かを絶望することによって魔女になること。その宿命を背負わなければいけない。しかし、まどかは決断する、魔法少女となることを。過去、現在、未来のあらゆる魔女を消滅させることを希望して。
これはある意味で反則技とも言えると思う。魔法少女→魔女という世界の理を捻じ曲げてしまうことだから。物理法則を無視し因果律を破壊した、世界の書き換え。ほむらの行為によって因果の糸が集中することになったまどかにだからこそできた、強大な力の行使。本作ではきちんとこの「反則技」が可能なものとして設定されている点がすばらしいところなのですが、それはここでは措きます。問題にしたいのは、まどかの愛。彼女は絶望に陥る魂を愛で包み込み、それを救済する。そして大切なのは、それが見返りを求めない愛であるということ。まどかはその望みの必然性によって、過去と現在と未来とに存在することになりますから、したがって人間ではありえなくなります。通常の魔法少女もまた既に人間足りえていませんが、まどかの場合は、その人間的形状さえも失うことになります。あらゆる時空間に遍在する、概念としてのまどかに昇華するからです。そして書き換えられた世界にはまどかという人間は記憶の中にさえ存在しません。魔女を発生させないという概念となって遍在するのみです。これはまどかの無償の愛です。少女たちの切実な希望を絶望に変えないための、希望を希望として守り抜くための、まどかの愛です。
思えば、この作品に登場する主な魔法少女たちは、見返りを求めない愛ということについて葛藤します。その意味で、今作のテーマの一つは間違いなく愛であり、そして主人公はまどか一人ではなく、個々の魔法少女たちであると言えるでしょう。
さやかは、密かに慕っている少年の怪我を癒すために魔法少女となりますが、それは取りも返さず他人のための見返りを求めない愛のはずでした。はずでした。しかしやがて彼女は精神的に追い詰められてゆき、やがて親友と少年との友好を見るにつけ、自分が見返りを求めていたことを知ることになります。愛というのは何らかの見返りを必要とするのか、それを問いかけてくるさやかのエピソードですが、自らの深層心理を知るにつれて、さやかの負の感情は増長し、ついに魔女と化します。いわば、さやかは愛の葛藤に押し潰されたわけです。誰かのために、ということが結局、自分のためだったということを悟り、さやかは魔女になったと言えますが、実はそれはこの世の必然であり、魔法少女は絶望して魔女になるか、あるいは魔女に殺されるしかないのです。
ところが、さやかは見返りを求めない愛を捧げる対象ともなっています。捧げる人間は二人いて、一人はまどか。もう一人は杏子。まどかは、さやかが既に「ゾンビ」となっていることを知って尚、抱きしめくれなんて言えないよ、と嘆くさやかを抱擁します。自分がもはや人間的な愛の対象にはなりえないと思い詰めるさやかを、まどかは懸命に愛そうとします。当然そこには何らかの見返りはありえません。また、杏子は、やはり最初は他人のために戦うことを決意しながらも、やがて自分のために戦う道を選んだ杏子は、さやかとは対蹠的であり且つ同位的でもあるのですが、彼女は魔女と化したさやかを人間に戻す術がないと知るや、さやかの寂しさを受け入れるために、自爆して共に死にます。個人的には、ここからエンディングのイラストまでの流れはぐっときた。そのイラストが催涙弾かよって感じで。
そしてほむら。彼女はまどかのために、何度も何度も同じ時間をループして、ただまどかのためだけに、仲間の死を幾度も体験し、自らも幾度も傷つき、悲しみ、嘆き、しかし絶望だけはせずに、夢中で同じことを試行してきました。これもまた、自らを省みない無償の愛でしょう。
キュゥべえの契約というのは、高い代償を支払わなければならないものですから、この物語は希望とその代償についての物語だとも言えるのですが、しかし愛という観点から振り返ったとき、これは愛とその代償についての物語と言った方がいいように思うのです。いや、愛 with 代償ではなく、愛 but 代償の物語です。
この世界には、あらゆることに表と裏があるように、あらゆることに代償が、その対価がある。希望の対価は絶望であり、愛の対価は代償です。だからこそ、魔法少女は必ず魔女になるのであり、無償の愛は悲劇的にしか終わらないのです。まどかは、そのような世界の理を捻じ曲げてしまったのです。したがって彼女は世界を新しく創造したとすら言えるでしょう。書き換えられた世界にも憎悪はなくならないとしても、しかし希望は絶望に変わらず、魔法少女は魔女と化さず、愛は無償のものとなりえます。まどかは無償の愛という概念として遍在し、宇宙はその法則に支配されます。
まどかはほむらの無償の愛を知り、ほむらもまどかの無償の愛を知るただ一人の人間となります。さやか、杏子、そしてマミもまた、誰かのために戦い、死んでゆきましたが、この作品は、「誰かのために」ということが、ただただ尊いものだという当たり前のことを声高に叫んだ作品のような気がします。何らかの代償なしに愛するということ、しかしそれがなされるためには世界を作り変えなければならない、という苦い認識が根底にあるとしても、その愛する行為をとにかく肯定したいのだという真っ直ぐな気持ちが表れているように思いました。