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Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

新海誠に関する論文を読む

2010-03-20 01:53:32 | アニメーション
『アニメーションの映画学』所収の論文、加藤幹郎「風景の実存 新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」を読みました。新海誠に関する論文で、ここまで本格的なものを読んだのは実は初めてだった気がします。

この著者は基本的に、風景と人間との対応関係を前提にしているのですが、ぼくの見たところ論文の勘所はそこにではなく、映画の中の細部への注目にあります。例えば、『秒速』において、第一話でタカキが一人列車に座っているカットと、第三話で大人になったアカリがやはり一人列車に座っているカットとを連結させ、「一〇年以上の歳月を閲して、ようやく向かい合わせにすわることが可能になったかのように見えるよう画面が構成されている」と指摘する個所などは、ぞくぞくと鳥肌が立つほどで、ロマンチックで切ない想像力を掻き立てられます。

他にも、「春の落花と冬の降雪は白の主題系の中心を占め、この映画がふたつの季節の隔たり、ふたつの距離の産出、ふたつの恋愛の破局を描くことに照応する」という、『秒速』の「白の主題」を巡る卓見(白の主題とは、まさしくクラウドスケイプ、すなわち雲の風景が基点になっている)など、刮目すべき高見がテキストで星のように煌めいています。

また、『秒速』におけるロケットの打ち上げも白の主題系に収まるものであり(噴射された夥しい白い煙)、それをタカキの孤独感の精神風景とみなすことには納得できます。ただし、ぼくは新海誠においては風景と登場人物との断絶感を見てとっていて、加藤氏があくまで両者の融合した地平を目指そうとするのには、もろ手を挙げて賛同できかねます。

新海誠が世界的に希有な「風景映画」の作り手であり、その創作においては物語内容よりも風景が先行する、という主張は、新海誠映画の風景の重要性を余すことなく伝えています。また、加藤氏はどういうわけか登場人物の名前を記載しない方針を取っており(これは彼の他の論文でもそうなのでしょうか)、そういう執筆方法からも、偶然か必然か、風景の特例化が透けて見えます。しかしそれでもなお、風景は人間の存在を前提にしており、それとの関係の中で生きてくるものだという。それが普遍的な主張にとどまるのならば、ぼくは判断をためらいますが、しかし殊新海誠に関する限り、その主張は必ずしも当てはまらないのではないか、と思うのです。あるいは、風景-人間という関係性を脱構築するものとして新海映画が機能している様相が垣間見えてくる、と言ってもいい。

『雲のむこう』のサユリは、世界で自分だけが取り残されているという孤絶感を内語します。世界は恐ろしいほど美しいのに、私はそこから無限に遠ざけられている――このような繊細な感覚は、実は他の作品の登場人物にも見られるもので、『ほしのこえ』のミカコなども、孤軍奮闘する姿を通して、ノボルとの永遠に思えるくらい隔てられた距離を通して、そして美しい風景を通して、その孤独感が浮き彫りになります。新海作品では風景描写の美麗さはほとんど特異なほどで、監督の風景への拘りは、加藤氏も書いているように「異常」とさえ言えるかもしれません。登場人物はそのような美しすぎる風景の中に画像としてはうまく溶け込んでいますが、しかし心理的には断絶しています。風景の「美」に対して、人間の「苦」がクロースアップされ、登場人物たちは風景に参入することができないのです。

象徴的なロケットの噴射の例で考えてみましょう。これは、タカキの孤独な心象を見事に表現した風景となっています。この光景を目撃して、カナエは自らの想いを封印することにします。というより、いかにタカキが自分から遠い存在であるのかを残酷なほど深く理解します。何かは分からないもの、存在するのかさえ分からないものを求めて、ひたすら孤独な旅を続けるロケットに、タカキのアカリを求める心情が重ね合わされているのですが、そのように考えた場合、これは一つの心象風景であって、風景と登場人物との関係が密接なように見えます。ところが、この風景はアカリにとっては自らの孤独(タカキと共に生きることができないのならば、それは孤独でしかない)を強調するよう作用しているのです。新海作品では、圧倒的な存在感を放つ風景は、登場人物の心理的な孤独感を強めてしまうのです。確かに、表面的に見れば、それは風景と登場人物との対応関係ということになるのかもしれません(いわば反比例の関係)。しかしながら、より物語内容に即して見るならば、この関係性は、関係性というよりはねじれなのです。登場人物たちにとって、風景は重荷であって、残酷な美であり続けます。それが一人の少年の心象風景であるときでさえ、一方では少女の喜びや期待を裏切る絶望の風景として立ち現れてしまうわけです。

風景との心理的な一体化が果たせない、それに裏切り続けられてしまう登場人物たちの孤独をいかにして解消するのか。それこそが、風景美を誇る新海誠の試みになりえるのではないでしょうか。新海誠ならではの試みです。風景と登場人物との協同関係を無条件に前提してしまう視点からは、こういったテーマは見えてこないのではないでしょうか。人間は世界の美を前にしてどのようにそこへ参入してゆけるのか。自分の暗黒面をどのように風景と交流させるのか。世界の中で生きている「私」、という自我論的な問題は人間にとって深遠な問いでありえますが、その問題を追求するのが新海誠のアニメーションである、とひとまず言っておいてもいいのではないかと思います。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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コメント (se)
2010-07-21 15:03:32
こんにちは

この論文レヴューが面白かったのでコメントさせて下さい。

僕は今日初めて新海作品(「雲のむこう・・・」)を見たのですが、貴方(何て呼ぶべきなんですかね)や加藤さんの様な風景と人物やストーリーの関係性が明確には気付きませんでした。

このレヴューを見て成るほどと納得しました。正比例したり「反比例」したり、もしくはそれらが並行しているのですね。この文章を読んでいると僕も佐由理の夢のシーンは、空間的には無限の距離を美しさでは孤独を表現している気がしてきます。


あと、本題からそれますが、こういう「風景‐人間」という手法みたいなモノは、作り手が練りに練って修正に修正を重ね作り上げるものなのか?、より自然に生まれてくるものなのか?不思議に思います。僕は文芸の才能が無いので、映像とか漫画のプロは自然とストーリーを風景や場面の中に組み込んでいく偏見があります。

では他のリヴューも読ませて頂きます。
失礼します。
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ようこそ (ペーチャ)
2010-07-21 22:11:37
seさん、どうもこんにちは。
記事を読んでいただき、ありがとうございます。少しでもご参考になったのであれば幸いです。

ちなみに、ぼくのことはペーチャとお呼び下さい。

新海作品における風景美のテーマ、あるいは風景と人間との相互関係といったテーマは非常に興味深いと思っているので、そこに共感していただけて、ありがたいことです。

ただ、新海作品からどのようなことを感じとるかというのは人それぞれですし、是非ご自分の最初の感想を大切にされて、そこから考えを飛翔させていって下さい。

風景と人間との対立というようなテーマに、新海監督が自覚的かどうかは分かりません。むしろ、協調するものとして描いているのかもしれません。ですからそれが自然発生的なものかどうかも分からないのですが、ぼくには人間の苦悩と風景の美が対立しているように見えました。しかし、監督の風景への拘りからすれば、この対立は必然だったようにも思えてきます。

ブログ右上隅で検索がかけられるので、気になるキーワードなどを探してみてください。コメントお待ちしています。
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