Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

反常識的考察

2011-11-18 00:29:23 | 文学
はっきり言ってしまうと、毎度まいど授業に出席したり、シンポジウムにしょっちゅう顔を出したり、友達といつも和やかに談笑したり、そういう連中は文学をやる資格がない。と、昭和の文学青年なら言ったかもしれないが、ぼくもそう思う。いまどき時代遅れな奴と思われて蔑まれ見下されるのが関の山だが、だいたいにして文学をやる資格のある人間というのは文学にしか居場所を見出せない人間なのであって、現実世界にちゃんとベストプレイスを用意されている幸福な連中は、正直なところそういう資格持ちの人間にとっては邪魔なのであり、不愉快でさえあるのである。だから今の自分は文学にさして関心を持ちえないのだな、と思う。つまり、小さなサイコロに閉じ込められていたような一昔前に比べれば現実世界である程度の処世術と言うか居心地の良い場所を手に入れたぼくにとって文学がかつてのように切実な問題になりえない理由は、ぼくのこうした思想に照らせば明らかなのだ。

もう一つ言うと、会社を辞めたり、学校を辞めたり、とにかく今の自分が乗っているレールから自ら降りることは、必ずしもマイナスではないと思う。諦めたとか、逃げたとか、夢破れたとか、誹謗されることがほぼ全てだろうが、そんなことを言う資格や権利は本来誰にもない。進むのも引くのもまた己の人生であり、「逃亡」を嘲笑したり軽蔑したりすることは、余りにも傲慢すぎる恥ずべき行いだ。

と、いうようなことを「しらふ」という小説を読んでぼんやりと考えた(正確を期せば「考え始めた」)。たとえこれが反常識的であるとしても、こういう考えが殊更に人の嫌悪を惹起せずに、せめて頭の片隅に留まってくれることを願う。

いや、しかし、よくよく考えてみると、文学が切実だった時期など果たして自分にあっただろうか?ぼくは嘘を言ったかもしれない。暗黒期には文学という光さえ感知できなかった。もちろん、文学が光であるとしたら、だが。・・・結局のところ、自分の意見などというものはほとんど存在していない。昨日と今日と明日の意見は全て異なりうる。明日になれば、誰かと頻繁にコミュニケートするのが文学をやる者のあるべき姿だ、というような意見に変わることさえ可能性としては考えられる。

どっちだって同じことだ!

と書いてみて、誤解されるのが怖くて補足したくなる。つまり、こんな議論はもうどうでもいいのだ。今日、こんなことを考えた。それでもう十分。

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