稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

隋(ずい=したがう)ということについて(昭和62年10月29日)

2018年01月02日 | 長井長正範士の遺文
この者にかかるのに全力を尽くしても少しも当たらず、
止められ、はずされ、押えられ、手も足も出なくなる一方、
上の者から、わが隙を難なく打たれ、突かれ、どうすることも出来ないものです。

そして、そこが悪い、ここはこうせよと教えられる。
その時、教えに従(隋)わず我を張って自己流に固執したのでは
幾ら数をかけて稽古しても上達しない。
とどのつまり、変剣や難剣になって、それで固まってしまい、
本人はそれで強くなったと誤解し、人の頭を叩いて喜んでいる。

こうなると最早(もはや)堕落してしまい救いようがありません。
思いあがりも甚だしいと言わなければなりません。
剣聖、内藤高治先生が還暦を迎え
「赤ずきん、三つ子となりて太刀技磨かん」と言われたことを思い、
内藤先生さえも、これから益々赤子に帰って修行して行かねばならない、
と言われたことを我々は恐懼(きょうく)感激して素直な赤ちゃんのような気持ちになって、
先生の教え通り、そのまま我意をはさむことなく努力修行して行かなければなりません。

よくいう「守・破・離」の「守」であります。
この守の精神を一刀流で髄というのです。この守を生涯、心に体し修行していけば、
自ら意識しなくても自然にいつしか「破」に到着することが出来るでしょう。

これから考えますと「離」など、とんでもない深遠なものであることと頷けるでしょう。
そこで先ずわれわれ一刀流を学ぶ者は「柔」であることと教えられてます。
この「柔」は心身共すべて柔でなければなりません。
一刀流の組太刀の稽古で隋の本旨を表現してあるのは、
即意付、乗身、浮木、巻霞、巻返し、順皮、抜順皮、等であります。

これ等の形は「柔よく剛を制す」で、これも以前に申し上げた大鵬が手の力を抜いて、
よく相手をあしらい巧みに剛に出るその伸びきったところ、
尽きたところを難なく勝どころとしている。
ここが大変勉強になるところであります。

すこし廻りくどい事になりますが大事なことなので
「即意付」について申し上げておかなければなりません。

(続く)


(長正館、師範用木刀掛)
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