稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

正中線を取る稽古(2015年2月の記事のコピペです)

2017年01月09日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
私の剣道の師匠が2015年2月にフェイスブックに投稿した記事です。
改めて読み直して、なるほどなあと思ったのでコピペしておきます。

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「正中線を取る稽古」

 正中線をとるというのは、自分の剣先が相手の急所(中心)に向かい、相手の剣先がこちらの急所(中心)から外れた状態を言います。

そうした状態をつくるためには、さまざまな技前を駆使する必要があるはずですが、どうも、それを、こじんまりとした状態でつくり出そうとしているのが今の剣道のように映ります。

構えを崩さないということを身体を極力動かさないことととらえ、竹刀の身幅だけで正中線をとろうとする剣道です。

まっすぐに構えて足を止め、剣先をカチカチと鳴らし合いながら、竹刀の身幅分だけで正中線をとりにいく。

いざ、中心を制したその瞬間、技を出せばまっすぐ相手に乗れるかといえば、それほど剣道は易しいものではありません。  

上背のある人、スピードのある人の側からすれば、それで成功するケースも多いでしょう。

問題なのは、私のように身長の低い者、筋力がなくスピードに劣る者までが同じような考えで戦うことが多いということです。

五分と五分でまっすぐに構え合い、正中線のわずかな取り合いだけで技をくり出せば、上背のある者、スピードのある者が優位になります。

昨今は八段戦を観ていても小兵の選手はなかなか勝ち切ることができませんが、昔は大麻勇次先生、越川秀之助先生、佐藤貞雄先生など、技前に味のある強い小兵剣士も少なくありませんでした。   

上背のある相手、地力にまさる相手と対峙したならば、まずは居着かないことです。  

四方八方への足さばきも遣い、正中線を”瞬間〟とって攻撃するのが基本的な攻め方です。

ちなみに、「正中線をとる」とは、自分の剣先を相手の正中線上に向けるということに限るわけではありません。

自分の正中線上の竹刀を相手の中心に向けるというとらえ方でいいのです。  

包丁でスイカを切るとき、四方八方どこからでも中心を意識して切りさえすれば正中線を切ることになる、というのと一緒です。

つまり、相手の顔の真ん中を攻めるだけが正中線をとるということではなく、左右にさばき、斜めから相手の中心に向けて攻めることも、こちらが正中線をとっている、ということになるわけです。  

日本剣道形の四本目では、仕太刀は体をさばいて相手の面を切りますが、その状態をして「正面を切る」と解説書に記されているところにもヒントがあるように思います。     

そもそも、対峙する両者が互いに姿勢もまっすぐ、体の向け方もまっすぐ、両足の方向もまっすぐ、なおかつ攻める方向も足を踏み出す方向もまっすぐでは、相手の剣先を殺すということそれ自体があまり意味をなさなくなります。

結局、どちらが速く相手の打突部位をとらえるかといった、ヨーイドンの勝負にしかならないからです。そうなれば、上背のある人、スピードのある人が優位になるのは当然です。    

本誌の連載でもたびたび触れてきたように、相撲にしてもボクシングにしても、すべての格闘技は半身で構えます。

攻守の力を生み出しやすいのと同時に、体さばきがしやすいという理があるからです。

槍や薙刀や杖が半身で構えるのも同じような理由で、なおかつ、単に得物が長いというだけではなく、相手の得物を制するためには半身の構えが自然なのだと思います。   

そうした半身の構え―――三角矩(さんかくく)の構えを、私はここ数年来学んできました。

高野佐三郎先生が山岡鉄舟先生に学んだのがこの三角矩の構えで、相手の剣を殺すにもうってつけです。
これほどの研究テーマはないというぐらい、剣道の幅の広がりを感じ、学生にも取り組ませています。

ところが、学生の一人が出稽古で遣ったところ、「それは打つ剣道ではなく、切る剣道だよ」と指摘されたといいますし、「三角矩は守りの構えだよ」という声を聞くこともあります。

半身の構えを研究する余地すら与えようとしないほど、今の剣道は画一化が進んでいるということの表われかも知れませんが、伝統を重んじる剣道にあって、名人高野佐三郎先生が取り組んだ三角矩の構えは、私は「柔よく剛を制す、小よく大を制す、老よく壮を制す」に直結するものと信じて疑いません。  

「剣道日本」より
コメント (1)
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