goo blog サービス終了のお知らせ 

稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

昇段審査の報告をうけて(2021年1月10日)

2021年01月10日 | つれづれ


1月6日が初稽古。難波の養正会。
写真はY川(女性)さんで初太刀の面。
以前より気迫があり、真っ直ぐ打ち込んでくると思った。
終ってから「とても良くなったよ」と言ったが10日の昇段審査で四段合格。

同じ日に往馬玄武会のH名(男性)さんも五段に合格。
彼とは最後に稽古したのは昨年の12月26日だったが、いつもより気迫があった。
打ったあとも休まないですぐに構えて残心も良かった。

常日頃から目にかけて指導していた者が合格するのは自分のことのように嬉しいものである。
合格する者は素直な者が多い。アドバイスを素直に受け止めて自分で工夫するのである。
悪いクセはなかなか抜けるものでは無いが、努力の積み重ねしかそれを克服することは出来ないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の出来事、あれこれ(2021年1月6日)

2021年01月06日 | つれづれ
元旦の朝、風が冷たく強いので、恒例の日の丸前での撮影は止めた。
ゆっくり起きて、次男を入れて3人でのささやかなお祝い。
だらだらと、パソコンで映画など観ながら、ゆっくりゆっくり夜まで酒を飲んだ。
けっこう飲んでグデグデになる。腹が減ったら餅を焼いて、焼いた餅を食いながらまた飲む。

確実に太りつつある・・・

餅は電熱器でゆっくり焼く。何回も何回もひっくり返して焼く。
中はふっくら、外は少し固めの餅を醤油餅にしてまた焼いて醤油を少し焦がすのだ。
これがうまい。死んだ母親は「粕井の貧乏焼き」と言っていたのを思い出す。
母の実家の扇田では餅はさっと焼いた、べたべたの醤油餅である。
「粕井は貧乏なので時間をかけてゆっくり何回もひっくり返して焼くのだ」と言ってたのを思い出した。
写真は無い。酔っていて撮るのを忘れていた。

夕方に荷物が届いた。つくばに住む長男からである。
嫁のきれいな字と荷物の中身に感激する。


(冷蔵で届いた荷物の中身)


(嫁の手紙)


(レシピ)

嫁の実家はつくば市で豚肉料理専門店を営む。
ここは旨い。近ければしょっちゅう出向いていると思う。
さっそく電話して嫁の父親に年始の挨拶とお礼を言った。

やまと豚専門店 とんとん
https://tabelog.com/ibaraki/A0802/A080201/8002929/

トンカツも旨いが個人的には鍋がお勧め。「医食同源・薬膳鍋」は最高に旨い!



角煮と煮玉子は、さっそく酒のあてに戴く。



次の日(1月2日)のお昼はチャーシューと煮玉子をラーメンに。
このラーメンは昨年に長兄からもらった尾道ラーメン。
もうラーメン屋には行かなくても良いぐらいにマジで旨かった。

毎年2日は実家で親戚が集まっての大宴会であるが今年は中止。
することも無いので、けっきょく事務所に行って出荷作業をしてしまった。





3日は近所の杵築神社へ。驚くほど人がいない。
毎年1日に参るのだが風が強いのと朝から酒を飲んでいたので3日になった。
昔は3日は母方の実家(扇田家)に行って春日大社に参っていた。
(あれ?すると三輪神社に参るのはいつだっけ?・・・あいまいになってきた)
参ったあとは宴会。だらだらだらだらと酒を飲むのは扇田家の習いである。

杵築神社のあとは事務所。
4日から仕事始め・・・というか出荷するのでその下準備。
けっきょく4日も忙しかった。京都で初稽古があるとか聞いていたが無理である。

4日の夜は豚味噌漬け。
もう、つくばのとんとん、大万歳である。

---------------------------

そんなこんなで今年も始まりました。
今年も忙しくなりそうです。
ブログは毎日書きません。悪しからず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

令和3年(西暦2020年、皇紀2681年)あけましておめでとうございます!

2021年01月01日 | つれづれ


あけましておめでとうございます!

昨年は、一刀流においては、4月の石清水八幡の奉納演武、5月の京都武徳殿の演武、
6月の伊勢神宮での奉納演武、8月の南伊勢での奉納演武と予定していたすべての演武が中止になり、
剣道稽古も一刀流の稽古も随分長期間にわたって中止になりました。

しかし武漢ウイルス(新型コロナウイルス)にも負けず精力的に過ごしております。
今年も厳しい状況は変わりませんが元気にやっていく所存です。
今年もよろしくお付き合いください。

さてお断りです。
この数年間、ブログの更新は毎日続けておりました。
理科系のくせに、もともと文章を書くことは嫌いでは無いのですが、
仕事の関係で時間的余裕の無い時もあり、何回か苦痛に感じたこともありました。

いえ、あの、ただ「毎日書き続ける」と何となく決めてたからです。

今年からは自然にやっていきます。無理はしません。
もう65才です。書けない時は無理して書かない。そう決めました。
稽古のブログなど、復習用に読んでいただいている方もいますので、
ガッカリされることもあるかと思いますが、そこはこらえてご了承ください。
もしかしたら滅多に書かなくなることになるかも知れません。

仕事の方も少しずつ減らしていきます。
友人と仕事関係には「もう年賀状を出さない」という賀状を出しました。
いただいても今後は出しません。ご無礼はお詫びします。

考えてみたら、やってみたい事とか、行ってみたいところとか、
まだまだ随分たくさんあることに気づきました。
あと何年元気でいられるかわかりませんし、突然、ぽっくり死んでしまう事も無くはありません。

50才を越えて会社(ホワード株式会社)をクビになり、
自営業としてこの15年、綱渡りをしながらも、気ままに自由にやってこれました。
しかし考えてみたら一年365日、本当に仕事を離れて「休んだなあ」という記憶がありません。
旅行に行っても仕事は頭から離れませんし、パソコンはいつも繋げてお客様と連絡してました。
もともと仕事は好きですが、今後はもう少しだけ、仕事以外に時間を使おうと思っています。

(もう少しキャラクター関係の作業を増やしたいという気持ちもあります)
(そういう意味では「仕事の中身を変えていく」ということになるかも知れません)

そんなこんなで今年も始まりました。
今年もよろしくお付き合いのほどお願いします。

以下、年賀状に使った画像です。


(2020年11月、愛媛県松山城にて)


(同じく、2020年11月、愛媛県松山城にて)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

墓参り(2020年12月30日)

2020年12月31日 | つれづれ
毎年12月30日は母方の親戚が集まって我が家で餅つきをする。
昨年はインフルエンザが流行っていて悩んでいたが実施した。
今年はインフルエンザよりも大したことが無いのにマスコミが煽るので仕方が無い。
残念だが恒例の餅つきを中止することにした。

で、墓参り。
家から車で15分の王龍寺である。
昨夜からの雨も上がって晴れ間が見えだした。
せっかくなので下の山門前で車を停めて歩くことにする。


(山門前で)


(参道の途中の地蔵その1)


(参道の途中の地蔵その2)


(参道の途中の地蔵その3)


(参道の途中の地蔵その4)


(参道の途中の地蔵その5)


(参道の途中の地蔵その6)


(参道の途中の地蔵その7)







お花が貧弱と思ってはいけない。
これは我が家にずっと伝わるお母ん(粕井睦子)が植えて育てた水仙の花。
我が家の土地はかなりの昔からお母んがずっと永い間畑にしていたのだ。
球根が残っているので家を建ててからも毎年花を咲かせる「お母んの水仙」なのだ。





墓を洗い、ロウソクを灯し、線香を炊いてお経を詠む。
あ、ビールとほうじ茶忘れた・・・(親父、お袋、また今度な・・・)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の出来事、あれこれ(2020年12月・その2)

2020年12月29日 | つれづれ


やっと年賀状を書き終えて先ほどポストに投函してきた。年賀状はホワードで役員をしていた頃が一番多くて公私合わせて300枚以上は出していた。大まかに親戚と仕事関係と友人関係と剣道関係の4つのグループに分かれていてそれは今も変わらない。いまは随分と減って100枚ぐらい。仕事関係が極端に少なくなった。親戚関係は何かしら付き合いのあるところへは向こうが出さなくても出すようにしている。母方の親戚で、ひとり「年賀状をくれないのは何故か?」と聞いてきたところがあるので次の年に出したのに向こうからは来ない。そういう傲慢な先へはこちらからお断りだ。昔から粕井の親戚は縁が薄いが仲の悪いというか顔も見たくないような者へは随分前から出さなくなった。永年の怨恨は消えない。この年になると遠慮は無くなってくる。そんな極端な例では無いが今回は思い切って年賀状を出す先を整理することにした。基本的に出さない!・・と決めたのだ。お世話になった先、付き合いのある親戚には出す。最初は何十年も年賀状のやり取りだけの友人知人を切ろうと思ったが個別に仕訳すると迷ってしまう。面倒なので友人と仕事関係全部まとめて出さないことにした。私の年賀状の作り方はまず宛名を全部印刷する。それを①親戚、②剣道関係、③剣道関係の今後出さないとこ、④友人関係で今後出さないとこの4つのグループに分けて文面を印刷する。使う写真(あるいはイラスト)もグループで異なる。来年からは年賀状は極端に少なくなるだろう。いまはネットでも電話でも何でも連絡は取れるのだ。私のことなど、このブログを見てもらえれば全部わかるのだ。年賀状は永年の習慣だったが非礼は気にしないでおこう。ブログの更新が途絶えたら死んだと思ってもらって良い。





先日、大阪府剣道連盟にキーホルダーなどを納品したさい、N口専務理事から「剣道かわら版に名刺載せても良いだろうか?」と聞かれた。お試しなので無料だと言う。「無料なら良いですよ」と返事しておいた。このかわら版に使われているイラストは、とんぼ堂、つまり私が描いたイラストである。自分の作ったものが形になるのは嬉しいものだ。下記のリンクで誰もが見れるのでぜひ読んで欲しい。

創刊 お試し号「剣道かわら版」(大阪府剣道連盟のサイトより)
https://osa-kendo.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/12/6a0cdbce17d814c3ddb2091261226e67.pdf





とんぼ堂の事務所の近くにある広谷整形外科には毎月1回行って薬をもらってくる。薬は高血圧の薬と通風(高尿酸血症)の薬である。定期的に血液検査などしてもらうので簡易な健康診断を定期的にしてもらっているのと同じだ。もともと打撲か骨折で行った先だが「ここは内科もやってるんですか?」と聞いて通うようになった。もう10年以上の付き合いになる医院である。近いので便利なのだが来年の1月末に閉院されるという。「どうされたんですか?」と聞いたら広谷先生「いや実は目が悪くなってきてなあ、目が悪いと外科医は務まらんのや、惜しまれるうちが引き際やと思うてなあ・・・」と言われる。「先生、お年はおいくつですか?」と聞いたら私より1つ下だった。なんだか他人事のようにも思えない。そろそろ私の同級生たちも引退する者も出て来ている。自分自身、どのように仕事を辞めていくのかは考えてなかった。いったい私はいつまで仕事をするのだろう?





朝起きて自宅でちょこっと仕事した。東大阪の事務所に寄ってから島本町の稽古に行こうと思っていたら女房に「庭木の枝を刈って欲しい」と言われた。小さいながらも庭があり庭木は勢いよく繁っている。気楽に引き受けたが気になる枝を切り始めるとあれもこれも気になって大掛かりな剪定作業になってしまった。寒いのにもう汗だくである。作業が終わる頃には腕もぱんぱん、握力も無くなってしまった。手を洗って汗を拭いて事務所に出かけたが仕事がけっこう溜まっている。メーカーが休みに入っているので納期の対応などが大変なのだ。時計を見たら14時からの稽古には間に合いそうも無い。残念だがあきらめてお断りのメッセージを送っておいた。ということで26日の往馬玄武会が今年最後の稽古になってしまった。2016年の年末までは長正館の年越し稽古があったが道場も無くなったので今は年越し稽古も無い。年越し稽古が無くなったことは嬉しい気持ちと淋しい気持ちで半分半分である。回りからは稽古ばかりしているように思われるが本当は稽古よりも猫を相手に酒を飲んでるほうが好きなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の出来事、あれこれ(2020年12月・その1)

2020年12月28日 | つれづれ


カンバッチと一緒にPP袋に入れる「大阪版剣道の心カード」で苦労した。単純な印刷物なのでここまで苦労するとは思ってもいなかった。何が大変かと言うと印刷会社で使っているソフトと、とんぼ堂で使っているソフトの相性が悪くて想定した色目で印刷が仕上がらないことだ。「サンプルの色目と実際出来がった色目は若干違う場合がありますよ」と先方(大阪府剣道連盟)に言っておいたのだけれど妥協はしたく無かった。職人気質が抜けない性格で嫌になるぐらい試行錯誤を繰り返したが、どうしてもうまく行かなくて最後に慣れないイラストレーターを古いパソコンに苦労してインストールした。古過ぎる古いイラストレーターは新しいパソコンにインストールさえ出来ないのだ。その上、古いパソコンは時々クラッシュして動かなくなる。時間をかけて本業の合い間にダマしダマし使って納得のいくまで印刷会社とサンプルの往復を繰り返したのだ。余談だが途中でカードの角が丸いほうが良いと気がついた。追加料金はもらえないが角丸に加工してもらった。予想外の出費が重なったがようやくカードが仕上がった。見た目はそんなに苦労したカードには見えない。そんなカードだが、どうしても自分の手でカンバッチのメーカーに届けたかったので車で運び込んで担当に直接手渡した。



カンバッチとキーホルダーのほうも実物校正をかけたので思ったように仕上がった。そのままだったら色目もおかしいし大きさも思っていた大きさで無かったはずだ。2週間後、やっとやっとカンバッチ3000個、キーホルダーが2000個が出来あがった。ダンボールを開けて検品する時は不安でいっぱいだった。大丈夫。ホッとして大阪府剣道連盟に納入した。運送業者には任せない。これも自分の手で納品したかったのでデリカスターワゴンで運んだ。気持ちが急いて高速を使った。近くの駐車場が空いて無くて少し離れた駐車場しか空いていない。ホワードから戴いて来た台車に4箱積んで運んだが重くて段差が越えられなくて大変だった。雨が降りそうだったが何とか持ちこたえた。今回も儲けなど殆んど無い。つくづく商売は下手だと思うが満足度は大きい。納品した帰り道に自分へのご褒美に「さん天」で穴子天とエビ天の定食頼んでご飯大盛にして、とり天と海苔天追加したら後で胸焼けして吐きそうになってしまった。「もう若くは無いんだなあ」とつくづく思った。昼飯に1000円以上も使ったのは久々だ。



寒波が来るというので冬タイヤに履き替える。大阪市内だけなら不要かも知れないが、毎日生駒山を越えて通勤しているので冬タイヤに履き替えると安心度が高くなる。しかしながら雪が降るとバスがなかなか来ないからと、普通タイヤの自家用車で夫を駅まで送っていこうとするのは止めて欲しい。けっこう多いぞ。駅までの道で雪のために動けなくなった車のために、こちらまで動けなくなるのだ。だいたいバスが来ない時点で「普通タイヤは無理だ」となぜ思わないんだろう?正月に寒波が来ると言うがノーマルタイヤで出かけるなよ。岩手や秋田に住んでいた頃は10月も下旬になると冬タイヤに履き替えた。市内では大丈夫でも峠道は雪が積もっていることがあるからだ。橋の上なんかカチコチに凍る場合もある。雪国では雪の降り初めに道端に突っ込んで動けなくなる車は都会から来た4WD車が多かった。4WD車のオールシーズンタイヤを過信している都会のバカは多いが凍った道では無力である。知らないという事は恐ろしい。若い頃、雪に備えて防寒具と毛布とスコップを常時車に積んでいたことを思い出す。



長正館の剣道の稽古の折に館長(井上館長)が「石に絵描いてん、良かったら持っていって」と言うので一つ戴いた。ついでに全部の写真を撮った。「すること無いからヒマでなあ、拾った石に合わせて絵を描いたんや」と言われたので「その年ですることあるだけスゴイですやん、普通なら一日中ボ~としてるようなトシですよ」と返した。



井上館長は94才で剣道も現役。自分で防具も着けるし蹲踞もするのだ。先日の一刀流の稽古でも後半の初めに構えの説明をされていたが、あの重い一刀流の木刀を何回も振るのである。長正館のことは、そろそろ全部任せて欲しいとは思うが下手するとこちらの方が早く引退するかも知れない。武漢ウイルス(新型コロナ)だけは重々気をつけて欲しいと思うところ。自分がトシをとったら何をしているんだろうか?パソコン使えるのなら良いが目も悪くなってくるとすること無くなるなあ、酒ばかり飲んでボケてしまうかも知れないなあ・・・なんてぼんやり考えてしまった。目は大事だ。そうだ、目薬買わなくっちゃ。

さあ、仕事は29日まで。
あとは年賀状をどう片付けるかだ。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑談・・挨拶と嫌われる人の話し方

2020年12月12日 | つれづれ
剣道は礼儀が大切だと言うが、挨拶が出来ない者もいる。
まるで、挨拶するのはプライドが許さないと言うばかりである。
そのくせ少年指導をする時は「挨拶が大事だ」とか言うのである。

向こうで無視するなら、こちらは先手で挨拶することにしている。
同じように無視していては同じレベルだと思うからだ。

先に挨拶。先手必勝。常に前向きで先(せん)を取っての勝負である。
さすがにこちらが挨拶したのに挨拶を返さないヤツはいない。(たま~にいるけど)

高校の時、なぜか私を小ばかにした雰囲気で挨拶しない同級生がいた。
私は意を決して、ある日を境にこちらから先手必勝の挨拶をするようになった。
コツは名前を呼ぶこと。「〇〇くん、おはよう!」と朝一番に声をかける。
そいつだけに声をかけたらおかしいので、誰でも分け隔てなく挨拶するのである。
その頃から「粕井って元気いいよなあ」と言われるようになった。

それから私のすべての行動や、私の性格そのものも変わっていったようなのだ。

---------------------------------

先日、人と話をしていて、どうも歯車が合わない。
いや合わないというか、いら立ちさえ感じるのである。
なぜそうなのかと考えたら「でも、だって、どうせ、けど、ダメ」が多いということに気がついた。
この言葉を多用すると、どんなことも前向きには捉えられなくなる。
話をしていても面白くない。あまりつき合いたいとも思わない。
こういうのは、おとなしい人に多いが、否定的になる受け答えはすべきでは無い。
断るにしても上手な断り方というものがあるはずだ。

---------------------------------

まったくタイプは異なるが下のようなのも問題である。
●自慢話をする
●自己主張が強い
●ホラ話をする

昔のことだが出稽古に行って着替えていたら、横の御仁がたいそうな大言壮語で、
「ああ、この人はきっと高段者なんだなあ」と思ってあとで稽古したらヘボだったことがある。
あまり謙虚し過ぎるのもどうかと思うが身の丈以上の自慢話などするものでは無い。

---------------------------------

ホワード株式会社に務めていた頃、同僚にイライラするタイプがいた。
その人、ストレートに結論を言えば良いのに、その回りから説明し出すのである。
「それは〇〇ということですね?」と言っても「イヤ、何が何で、これがあれで・・・」と、
また結論の回りから話を始めるのである。いつまで経っても結論が出てこない・・という話。

「AはBである。なぜなら・・・・」なら簡単で良いが、
CやDやEやFを延々と述べてXYZまで出たのに結論のBが出てこない。
その同僚、仕事でも失敗というか横領事件を起こしてクビになってしまった。


(とんぼ堂オリジナル画像・商用禁止・個人で使う場合はご一報ください!)

結論

やはり良い人間関係は「明るい挨拶」から始まると思う。
コミュニケーションは、常に謙虚で、肯定的に話すこと。
そしてなるべく結論から先に言うこと。

他山の石として、自分の行動を正したいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【速報】行方不明だった奈良市の女子中学生 遺体で見つかる 事件性は低いとみられる

2020年12月11日 | つれづれ


【速報】行方不明だった奈良市の女子中学生 遺体で見つかる 事件性は低いとみられる
https://news.yahoo.co.jp/articles/0e3d9f23db9e699dfe80fbe08c0fe91837ca729c

12月1日から行方不明になっている奈良市の中学生が11日、遺体で見つかりました。
奈良市に住む14歳の女子中学生は、今月1日の午前7時20分ごろに通学のため自宅を出たあと、行方が分からなくなっていました。
警察は9日に公開捜査に踏み切り、広く情報提供を呼びかけて行方を捜していました。
11日午前の捜索で、雑木林の中で倒れている遺体が見つかり、現場の木からコードのようなものが垂れ下がっていたということです。
状況から、事件性は低いとみられ、警察が死亡の原因などについて調べています。
関西テレビ



9日の公開捜査から気になっていた。
自宅の近くだし、私の中学校の後輩でもあるからだ。

「きっと悩みでもあって家出したんだろう」と思っていた。
「そのうちひょっこり帰ってくるよ」と思っていた。

まさか自殺するなんて・・・

亡くなった子の中学校(奈良女子大学附属中学校)は、奈良でも有名な進学校で、
小学校では学校でトップクラスだった子たちが大勢入学してくるのが普通だった。

私は小学校からの持ち上がりで、優秀でも何でもなく、中学校では早々と落ちこぼれてしまっていた。
中学3年の時に「これではイカン」と奮起して授業を受けたが、回りの皆が何をしているかわからない。
隣の同級生に「おい、今、教科書のどこやってるんや?」と聞くと「今は高校1年の勉強してるんやで」と呆れられた。

全国規模の模擬審査でも驚くほど下の下の成績で、これには親も呆れたほどだ。
こうなるとどうして良いのかわからない。勉強するふりをしてラジオの深夜放送ばかり聞いていた。

好きな女の子にもフラれ、身長も伸び悩んでいたし、運動も出来ない。
ただただ「俺は駄目なヤツだ」と絶望感に浸っていた中学生時代だったのだ。

ぼんやりと「死んだらどうなるのかな?」と思ったのもその頃である。
もちろん死ぬほどの勇気(本当の勇気では無いが)も無かったし、
だからと言って現状を打破するような知恵も根性も相談する友達も居なかった。

その頃の事を過去に書いた。
2016年11月11日「加藤諦三の詩」
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20161111/

亡くなった子がどんな悩みだったのか、何に絶望して死を選んだのかはわからない。
でも、どうして選んだのが「死」だったのか。
本当に悲しく、勿体ないことだと思う。

生きていれば、それはそれなりに楽しいことも多いし、
悩みに悩んだ過去でさえ「そんなこともあったよなあ」と笑い話になってしまうものなのだ。

絶望感のまま、(当時は)落ちこぼれ収容所のごとき高校(奈良県立生駒高等学校)に入学し、
そこで初めて自分がバカでも何でもなく、まあまあ普通の存在であることを知って人生が変わった。
そう、私の人生は絶望の淵から、大きく変わっていったのだ。

絶望感ってあると思うよ。
私の人生も何度もあったよ。
誰にも言えず風呂場で自分の肩を抱いてシャワーの下で号泣したこともある。
思い出しても悔しくて、情けなくて、今でも胸がキュウキュウ痛むんだよ。

しかし、どんなに「もう駄目だ!」と思っても、
ほんの数パーセントで良いから「絶望を楽しむ」客観的な自分を持っていて欲しいと思う。
死んだらいけない。ぜったいにいけない。人生居直ってやれ。他人に笑われても知らんぷりだ。
いつか必ず報われる日が来ることを信じて生きていて欲しいと思う。

いいか、自分に言い聞かせろ!

死ぬな。死ぬな。絶対に死ぬな!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋洋一氏「公共放送に見合うNHK受信料はせいぜい月300円」

2020年12月08日 | つれづれ


高橋洋一氏「公共放送に見合うNHK受信料はせいぜい月300円」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0fff690a225b9e92ef34e2fff141cda90223c32a?page=1


 NHKが受信料の徴収をさらに強化する方針だという。総務省の有識者会議(公共放送の在り方に関する検討分科会)は11月19日、テレビを持っているのに受信契約に応じない世帯に「割増金」、いわば“罰金”を課す方針を打ち出した。来年1月の通常国会に提出する放送法改正案に盛り込む方針だ。

 受信料徴収に対する国民の不満も高まっているが、そうしたなか、菅義偉首相のブレーンが、大胆なNHK改革案をブチ上げた。内閣官房参与に起用された高橋洋一・嘉悦大学教授だ。

 高橋氏がNHK改革の具体策としてまず挙げるのが、教育放送「Eテレ」のチャンネル売却だ。視聴率の低いEテレが占有していたチャンネル(周波数帯)を売却して携帯(通信)用に利用すれば、通話だけではなく多種多様の映像コンテンツを同時に配信できるというプランだ。

 そして、Eテレ売却の先にあるのが、BSの分離・民営化だ。NHKは地上波のほか、「BSプレミアム」「BS1」「BS4K」「BS8K」の4つの衛星チャンネルを持ち、月額2220円のBS受信料を取っている。

「NHKは地上波もBSもすべての番組が公共放送だという前提で受信料を取っている。しかし公共経済学では、ある分野での公費支出が正当化されるかどうかの基準は、一般的に『国民の納得、了解があるか』で判断される。

 NHKのドラマ、スポーツ中継、音楽、ワイドショーから、ドキュメンタリーやニュースなど民放が商業放送しているような番組まで、受信料というかたちで公費を支出することに国民が納得しているとは思えない。

 とくにBS放送は音楽やスポーツなどエンタメばかりで、コンテンツも地上波と重複しているのに別に受信料を取っている。これは受信料の二重取りに近い。BSはNHK本体から分割・民営化して独立採算の商業放送にすべきです。英国の公共放送BBCも国際ニュースとドキュメンタリーの専門局を別会社にして商業放送化している」(高橋氏)

 BSを民営化すれば残るのは「NHK総合」の地上波1チャンネルとラジオだけになる。

「NHKの番組で真の公共放送と呼べるのは災害情報と選挙の政見放送くらい。公共放送分に見合う受信料はせいぜい月額200~300円でしょう。その金額なら国民も納得できる。足りない財源は、総合テレビも公共放送分野と商業分野を分離し、放送法を改正して娯楽番組にCMを流せるようにすることで賄えばいい。

 NHKは受信料にしがみつこうとしているが、むしろ受信料依存から脱することで生き残る道が拓ける。通信で番組を提供すれば設備投資のコストが減り、経営をスリム化しやすくなる。しかも、NHKはアーカイブスなど価値が高い豊富なコンテンツ資産を持っているから、映像コンテンツの販売をビジネスの一つの柱にすることが可能だ。

 Eテレ売却から始まる改革は、国民には受信料を大きく引き下げるメリットがあり、NHKもスリム化で必要な投資が減る。そうした前向きの改革を促すきっかけになるはずです」(高橋氏)

 実は、菅首相は総務大臣時代、「受信料2割値下げ」を要求してNHKにバトルを挑み、一敗地にまみれた経験がある。以来、ひそかに受信料値下げとNHK改革を狙っているという見方がある。

 高橋氏は内閣官房参与として腹案を菅首相に提案したのだろうか。

「菅さんがどう思うか知らないよ。Eテレ売却なんて聞いたら、菅さんに呼び出されて、“高橋さん、スゴイこと言ってるね”と言われるかもしれないが、NHK改革の要点は、地上波の周波数帯を通信に移すということ。

 菅内閣の政策であるデジタル庁をつくって電子政府にしたとき、通信の周波数帯を増やしておかないと、そこでスタック(回線が動かなくなる)してしまう。この改革は携帯料金値下げにもつながるし、理屈は通っている」

 果たして、菅首相はNHKの膨張に大ナタを振るい、受信料を下げることができるのだろうか。

以上、週刊ポスト2020年12月11日号




NHK職員の年収は手当など含めたら平均で1700万円を超えるという。
おまけに利益はNHKの関係子会社に蓄積されるようにしている。
つまり受信料で儲けた金を自分たちで好きなように使っているのだ。
(受信料で作った映像をDVD化して子会社で販売しているなど)

監督省の総務省は、NHKや関係団体への天下りでズブズブ状態だと聞く。
総務省がNHKに甘いのは、永い永い間、天下りが常態化してきたからでは無いのか。

NHKは一度解体し、ニュース、災害、国会中継などの公共部門。
そして教育関係、学術関係など部門。ドラマや歌番組などの娯楽部門。
最低でもこの3部門に分割し、それぞれ、放送として運営するのか、ネット配信するのか、
廃止して民間に任せるのか議論を深めて欲しいところだ。

いまのまま受信料の上に胡坐をかいて、放送もネットも手放さないで全部自分たちでやって、
ますます肥え太らせてしまうような愚を重ねてはならないと思う。

政府、頑張れ!応援するぞ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またもや同級生が亡くなってた・・・

2020年12月02日 | つれづれ
辻 道明(つじみちあき)君。2020年9月11日死去。

何年前だか同窓会で久々に会って年賀状のやり取りは再開していたのだ。

小学校(奈良女子大学文学部附属小学校)は1年生から6年生まで同じクラスがそのまま持ち上がる。
まだ幼児に近い頃からヒゲの生える者も出てくる思春期の入り口まで一緒に学び育った仲間だ。
中学校(奈良女子大学文学部附属中学校)も、ほとんどそのまま進学する者が多く、
仲の良い悪いは別として、小学校の同級生はだいたいみんな、どんな奴だか把握している。

さあ仕事を終えようかとしていたら、同じ小学校の仲の良い同級生から電話があって、
「テンツ(辻道明のあだ名)死によったで、知ってるか?」と聞いた時は驚いた。
「え?いつ?何で?」と聞いたが死因までは知らないらしい。
中学校で同じサッカー部だった彼も年賀状のやり取りだけだったようだ。


(サッカー部、写真の後列左から4番目、一番背の高いのが亡くなった辻道明君)

中学校(奈良女子大学文学部附属中学校)のサッカー部は一大勢力で人気があり、
死んだ彼も、元は私と同じ柔道部に入っていたが、途中でサッカー部に移籍した。
背が高く力も強い彼は柔道も強く、私などまったく歯が立たなかったのを憶えている。

けっこう一緒に過ごすことも多かったのに、
不思議と彼と遊んだり話したりすることは少なかったような気がする。
彼は美男子で、性格も穏やかで、勉強もスポーツも出来る万能タイプだった。

彼の実家は、私のお袋の実家の道路を挟んだ向かい側にあり、何度かお邪魔したことがある。
玄関横の彼の勉強部屋は、いつも綺麗に片付いていて彼の真面目さを物語っていた。
彼の父親は南都銀行勤めで、通勤にスクーター(ラビット)に乗っていた。
彼も父親に倣ったのか南都銀行に勤めていると後年聞いた。

小学校の写真は無いかと探したら、卒業の時の版画集と臨海合宿の時の写真が出てきた。


(昭和42年7月、福井県高浜にて)


(アップ写真)



一緒に出て来た版画集には「将来は船乗りになってみたい」と書いてあった。
同じ頃、私は「何か電気、それも無線関係の仕事をしたい」などと漠然と考えていた。
彼の版画を見て「船乗りもいいなあ」と思ったのを憶えている。



家に帰ると我が家にもハガキが届いていた。
これで私の知ってるうちでも、小学校の同級生では4人目になる。
まだまだ死ぬには早過ぎる。心静かにご冥福をお祈りしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円形文字を無料のソフトで作った。

2020年11月27日 | つれづれ
イラストを作るソフトと言えば、Adobe Illustrator が有名で、
デザインをする人や業界には欠かせないソフトであることは間違いない。
開発販売は1988年からで、現在は2012年のCS6が最新版である。

私が使い始めたのは今から20年近く前のホワード勤務時代で、
カンバッチに収める円形の文字が、他のソフトでは作ることが出来ず、
社内のPOPや案内板を作る広報の担当者に教えてもらって操作を覚えた。

円形文字を作るには、とても便利なので、とんぼ堂のパソコン(WindowsXP)にも、
イラストレーターの10と、CS2(12に該当する)を入れて時々使っていた。

昨年、XPのメンテナンスが終了ということで、新しいパソコン(Windows10)を購入した。
アドビのイラストレーターは滅多に使わないし、最近まですっかり忘れていた。

久々に円形文字を作る依頼が来て、CS2をインストールしようとした。
ところが保有しているシリアル番号による認証ができないのだ。
以前は、パソコンを入れ替えたら、アドビに電話して認証できたが電話番号もわからない。
ネットで調べたら認証させる方法もあるらしいが私には難しくてよくわからない。

困った時は何とやら・・・で、
無料のソフト、LNKSCAPEというソフトをネットで見つけてインストールして、
ネット上で使い方を学びながら何とか円形文字を作ることができた。



あとは、これを使い慣れた絵画ソフトに読み込んで加工すれば良いだけ。
下はサンプルで作ったもの。ボツになったがまずまずの出来である。



実は、ここまでのデータを作るのはまだ楽なのだ。
このデータを外注に出して、思ったとおりのものに仕上げるのが大変なのだ。

外注先はアドビのイラストレーターを使っていて、異なるデーターで投稿すると、色が微妙に変わってしまう。
そのため、どうしてもイラレが必要になって悪戦苦闘した。ここ数日は本当に大変だった。
やっときょう、何とか解決してひと段落の状態。寝不足からおさらばである。

さっき、校正用にプリントアウトしたものを送ってもらうように手配した。
やっぱり現物で確認するのが一番である。

---------------------------

おまけ





毎朝、甘えにくる星ちゃんを動画で撮影してみた。
これはそのキャプチャー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島の平和公園そして奈良へ(2020年11月23日)

2020年11月24日 | つれづれ
朝はホテルの朝食バイキング。
平和公園はホテルから400mぐらい。
駐車場の車に荷物だけ置いて出かける。



地図の右下の平和大橋を渡って平和公園に入る。



祈りの泉にて。



平和資料記念館に行ったら予約制だとかで当日整理券をもらった。
9時13分にもらったが、入場券の受け取りは12時~12時半ということだ。
そんなにゆっくりもしていられないので見学は諦めることにした。
実はそれほど見てみたいわけでも無い。



原爆死没者慰霊碑の前で。



安らかに眠ってください
過ちは
繰り返しませぬから

この碑は、元広島大教授の雑賀忠義(1894~1961年)が考案したもの。
当時から異論が出て論争があり、色々な解釈が出来るが、まあ自分なりに噛みしめたいと思う。





原爆の子の像の前で。



原爆ドームは工事中だった。



説明文の写真の拡大。元の産業奨励館だ。



原爆投下の目標となったT字形の相生橋の上から元安川の下流を写す。
左の鉄骨で覆われた建物が工事中の原爆ドームだ。



相生橋の説明文。



鈴木三重吉文学碑の横の子供の像。



保存工事中の原爆ドーム。
言われなければ何かわからないだろうなあ。

10時半頃に駐車場に戻って出発。
仕事が無ければ途中の尾道でも寄りたいところだ。

15時過ぎには東大阪に到着。駅前で女房を降ろす。
事務所で仕事して奈良の自宅へは深夜に戻った。
眼が疲れていて仕事も山越えの運転もとてもつらかった。
まあでも楽しい旅行が出来た。gotoありがとう・・だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉と広島(2020年11月22日)

2020年11月23日 | つれづれ
朝風呂に行って朝食すませてゆるゆると出発。
11時5分松山観光港からフェリーで出港、13時呉到着。
一番目的の海上自衛隊呉史料館「鉄のくじら館」に行ったが長い行列で見学を断念。
道向かいの大和ミュージアムに入った。

実は大和は好きでは無い。

太和や武蔵を作らずに、空母や航空機、護衛艦などを作っていれば、もう少しマシな戦い方が出来たはず。
大和も武蔵もその他多くの戦艦も、その大鑑巨砲を生かすことは出来なかった。
真珠湾の奇襲攻撃を想定した時から総力をあげて航空主体に持っていくべきだったのだ。
それを思うとつくづく残念でならない。
数戦間際にわが父は、鈍足の練習機に爆弾をぶら下げて敵艦に体当たりしようとしていたのだ。
もう少し戦争が長引いていれば私は生まれて来なかった。

見学は早々と切りあげて「この世界の片隅に」の「すずさん」の嫁ぎ先の想定地を走ってみた。
有料道路を使って早めに広島に入って給油して、チェックインして大浴場で汗を流してから広島の牡蠣を食べにいく。
生ガキは無かったが焼き牡蠣を堪能した。カキフライも美味かった。


松山観光港のフェリー乗り場で。愛車の骨とう品、デリカスターワゴン。


フェリーは予想外でガラガラだった。


船は前方より後方が絵になるものだ。


わずかな揺れと振動が心地よくて寝てしまったらしい。


呉港。もうすぐ到着。


鉄のくじら館前。ゆうしお型潜水艦の「あきしお」 (SS-579) の現物が大迫力だ。


10分の1大和の前で。


62型零式戦闘機の展示。
ちなみに零式は「れいしき」と読むのが正しい。
つまりゼロ戦では無く「レイ戦」なのだ。


大和中央部の高角砲と25mm機銃群。(艦橋左右の中央には13mm機銃がある)


大和の正面。


大和ミュージアムの岸壁側の広場。


戦艦大和の時鍾(じしょう)。


乗ってきたフェリーが往復して戻って来ていた。


夜は、かき小屋「豊丸水産」で焼き牡蠣を堪能。


牡蠣を焼くのはコツがいる。


軍手はお店で用意してくれている。


焼き牡蠣とか、ホタテとか、つぶ貝とか・・・。


広島の商店街は、夜でも案外と人が多かった。

明日は近場の平和公園でも観てから高速で帰るつもり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お母んと「ほうじ茶」

2020年11月18日 | つれづれ
お母んのお母ん、つまり祖母ちゃんの里は奈良の三笠山を越えた田原というところで
そこは奈良ではお茶の産地で有名で、遠い親戚からお母んは毎年新茶を買っていた。

この田原の茶は、そのまま飲むより、ほうじ茶にしたほうがおいしいとかで、
学校から帰ると、茶を炒る薄い煙とニオイが台所中に立ち込めていたのを懐かしく思い出す。

そういや、お母んは「ほうじ茶」が好きやった。

稽古帰りに自動販売機でジュースを買うことが多いが、
その日は自動販売機では珍しい「ほうじ茶」を見つけて思わず買ってしまった。



2015年10月に、お母んは腰の病気で、生駒の白庭病院に入院していた。
毎日のように、仕事帰りに病院に寄って、お母んと話すのが楽しみだった。
ほとんどが昔話で、幼稚園時代や小学校時代の話、同級生などの話題で話は尽きなかった。

「誠、悪いけど、新聞と、ほうじ茶買うてきて」とよく頼まれた。



お母んに頼まれたらもう嬉しくて嬉しくて、病院の傍のコンビニまで飛ぶように走っていった。
棒きれを放り投げられた子犬のように、お母んに何か用事を頼まれるのが嬉しかったのだ。

まだその頃のお母んは元気で、行けば笑顔だったし、
「仕事忙しいか?」「元気にしてるんか?」など聞いてくれた。

入院が長引くと、よく喋るお母んが、だんだんと話さなくなって、
「新聞買うてきたろか?」と言っても「いらん」と言うし、大好きなほうじ茶も前ほど頼まなくなってきた。
お母んの笑顔が少なくなってきたのが何より悲しかった。


(2015年10月)


(2015年12月)

長期の病院生活は、元気な者でも鬱になる。
退院したらお母んは元に戻れるんや!そう信じて希望を持ってた。
あんなに元気やったお母んやもん、大丈夫や、心配ない!

その後、腰が安定して退院は出来た。
でもすっかり鬱状態になってしまったお母ん。
そんなお母んに戸惑いつつ、どう接して良いのかわからなかった。

--------------------------------------

5年前の、いろんな事を、ほうじ茶を買った瞬間に思い出した。
ほうじ茶を飲むことも出来ずに、しばらく自動販売機の前で泣いていた。

お母んに会いたいなあ。
またあの笑顔を見たいなあ。

こんどの墓参りには、ほうじ茶持っていくからな、お母ん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

抜歯「痛む歯は割れていてボロボロでした!」(2020年11月10日)

2020年11月11日 | つれづれ


大東のパール歯科。
天気が良かったのでバイク(バンバン200)で来た。

確かにクラック(ひび)はあるとは聞いていたが割れてはいなかったのだ。
歯周病の治療をして痛みも和らぎ安心していたが時々また痛むようになった。
寝る時だけ着けているマウスピースを剣道稽古の時もして用心はしていた。

私「前回来て、しばらく良かったんですが、先週は痛んで大変でした」
医「ともかく見ましょう」「あ~!!!、割れてますね、レントゲン撮ります!」

レントゲンを撮ったら、亀裂は根元まで届いていた。
念のため、写真も撮ってもらう。



上の歯。わかりづらいが亀裂が走っていた。



写真を撮ってもらったら亀裂は驚くほど大きい。亀裂じゃなく割れ目だ。
(写真右上の亀裂も気になるが、これは何も言われなかった)

すぐに院長先生が飛んできて「誠に申し分けないが抜くしか無いですね」とのこと。
今夜はgo to eatで焼肉食べに行くのに大丈夫かなあ・・と思いつつ抜歯の同意をした。

「隙間にアロンアルファーでも注入したら駄目なんですか?」
と思ったが、そういうものでは無さそうな雰囲気なので口には出さなかった。

ちょうど外科(歯医者さんに外科専門がいるとは知らなんだ)が来ていて、
麻酔をされて、何やらゴリゴリとすぐ抜かれ、消毒して、コラーゲン入れて縫合された。
痛み止めと、胃薬(痛み止めで胃がやられるので)と、抗生物質を貰って終了。

写真(上の抜く前の歯の写真)と抜いた歯は貰ってきた。

抜いた歯をゴミにされるのは可哀そうだ。
今まで長い間、お役目ご苦労様と言いたい。

事務所に戻ったが麻酔のせいか妙な感じがする。風邪をひいた時のような感じ。
麻酔なのか痛み止めのせいなのか眠くて仕方が無いので1時間ほど寝袋に入って床で寝た。



抜いた上の奥歯。
なんだか痛々しいほど酷使してきた感がある。



撮影したあと手がすべり、10センチほどの高さからテーブルの上に落としたら割れてしまった。
もう完全に「寿命が尽きた」という感じだ。可哀そうに。よく今までものを噛んでいられたなあ。



予定通り、夜は焼肉屋へ。
手前の白いのはニンニクのバター焼き。



歯医者で「今夜はお酒は控えてください」と言われたので、
いつもよりかなり控えめに、ビール2杯、ハイボール1杯、冷酒1杯にとどめておいた。

え?そういう意味じゃない?

--------------------------------

入れ歯にするか、思い切ってインプラントにするかは決めていない。
来週抜糸。12月に改めて診察してもらっておいおい決めていくつもり。

しかし、歯を抜くのに「申し訳ない」とお詫びされたのは初めてだ。
10数年前に歯を抜いた時の医者は、診察するなり麻酔注射の準備をするので、
「えっ?抜くんですか?」と聞くと「抜かんでどうするんや!」と叱られたのだ。

歯医者はいくつか渡り歩いて大東のパール歯科に落ち着いている。
人気なので急な時に診てもらうのは難しいが安心感がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする