渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

造形 ~モーターサイクル~

2024年01月11日 | open



なぜ40年前のカウル付きマシンは
造形的にすっきりまとまっている
ように見えるのか。
それは世界グランプリマシンと
同じ要所を外していないからだ。
このカワサキの2ストKR250の場
合、タンク上部とリアカウルの
上部が直線上で並ぶようになり、
ちぐはぐ感が一切ない。

すばらしい造形。


走る姿も美しい二輪。


これの真逆がホンダのレブル250
だ。フレームが折れ曲がって上
から太い鉄管で叩かれてシャシ
がへしゃげ曲げられ、タンクは
不自然にぶら下げられたたよう
造形をレブルは見せる。
アップライトポジションである
ハーレーなどの優れたデザイン

とは似ても似つかない。


レブル250

ハーレー(ローライダー)

両者はまるでインダストリアル
デザイン的にも全くの別物だ。
造形者の視点がまるで異なる。

なので、どんなに足つき性や
エンジンが云々とかいっても、
レブルは造形的=インダストリ
アルデザインとしてはくそダサ
というのが正当な評価だ。
くそダサという表現に語弊が

あるなら、秀逸の真逆、よくて
遜色、ドンズバいえば愚鈍、

悪、珍妙、駄作が該当表現だ。
珍走団の天井カウルをカッコ

いいと言うような美的センス
の人たちはホンダレブル250を
カッコいいと言うかも知れない。
レブルを絶賛したりする人たち
はその性能や足つき性を根拠に
レブルを高評価するが、それは
正しい。
だが、デザイン的には工業的
造形美というものが世の中には
あり、世間一般的に
ウケたから
ウケないからなど
とは関係なく、
美には美形の良否が
存在する。
美人は美人なのである。
器量の善し悪しというものは

世の中にあるのだ。
例えば、スズキの新型カタナの
全体造形などはレブルと同じく
くそダサだ。決めたつもりで
ブランドスーツ着ていながら、
パンツ裾丈が膝下だったり、
ジャ
ケットの袖の左右の長さが
違って
いたりするようなオート
バイが
レブルと新型カタナの
造形的立ち位置だ

そしてそれを美的意識の上で
カッコいいと言うのは、その
ブランドスーツをカッコいいと
して着こんで前ファスナー丸
開けにして「かっこいい」と
言っているようなものだ。
工業美術というものが世の中に
はあって、そこには個人的好み
には左右されないインダストリ
アルデザインとしての美がある。
それはまたいわゆる「美学」と
も異な
る。造形美だ。

たとえば、ホンダのNSR250Rは
非常にカッコいいが、もっと
かっこよくするとか称してそれ
にアップハンドルを着けるのは
くそダサの極みなのだ。
ジムカーナ仕様にするからとか
ではなく、カッコいいからとか
称してそれをやるのは。

そこ。
こうした事は、美的素養が無い
人には一切理解できない。
そういう人はベレーもかぶれ
ない。
ベレーをかぶれず、ズボッと頬
被りのように被り込んで、だら
しなく額も丸出しで、しかも
キノコ造形にして「かっこいい」
と思っている類。
スーツでネクタイ締めたのに
襟を上着の外に出していると
か、襟が片方ねじれ立ってる
とかその類。着こなしそのもの
ができていないという論外の

事象。

ファッションの世界だけでなく、
工業製品の世界にもインダスト
リアルデザインの美的要素の
質性の優劣は存在する。
あえて左右非対称にしてシンメ
トリーを崩すことで「不安定感
による緊張感」を演出する事も
ある。逆にシンメトリーによる
安定感を表現する潮流が家具

や建築デザインで世界史の中で
一時期を風
靡した時代もあった。

オートバイではシンメトリー
崩しの手法のデザインでは、
チャンバーの右側2本出しなど
がその典型だ。
軍帽ベレーの場合も非シンメト
リー効果による躍動感を印象づ
ける効果を持っている。
それは、ベレーはちょっとした
見る角度の違いですべて別な
形を浮かび上がらせるからだ。
キノコ被りはそのベレーの持ち
味を根底から無視する無分別、
自堕落、無粋な被り方なので
×なのだ。これは軍帽ベレーも
ファッションベレーも。
左右非対称に、横に垂らし流し
てかぶるのがベレーの基本だ。

数十年前の日本製オートバイは
とてもカッコいい。
それはなぜか。
見る人はエンジン性能や足回り
などはまず見ない。姿かたちだ。
そして、数十年前の日本製二輪
がとても洒脱でカッコいいのは
それはデザインをビシッと決め
ているからだ。
時々海外の有名なインダストリ
アルデザイナーに依頼する事も
あったが、大抵はメーカー社内
の開発チームの人が造形デザイン
をした。
いまのようにコンピュータが発
達していない頃にはクレイで
モックアップ1/1モデルまで
試作して。
当時のオートバイが性能だけで
なく、デザイン的にもかなり
カッコいい二輪車であったの
は、それは当時の開発者の人間
力の高さと正比例している。
ホンダもNS250Rなどはその後継
機のNSRよりもカウルデザイン
等は洗練されていてカッコいい。


ネイキッドのFも極めて良いデザ
インだ。素晴らしいの一言に尽
きる。



このNS250R/Fを1984年にホンダ
が出した
時には衝撃的だった。
「デザインのヤマハ」「先鋭さ
のスズキ」「自流カワサキ」の
各社を完全に突き放す良質工業
デザインの二輪車をホンダが作
って発売したのだ。
ホンダ車の歴史の中で一番造形

的に突き抜けて優れている。
これは造形デザインとしては
前年に世界グランプリで世界
チャンピオンになったNS500
のレーサーの各部の造形を採用
したものだった。見た目は全く
1/2グランプリマシンだったの
だ。
ただし、走りは未完成で、その
のNSRの時代までも悪質ハン
リングをホンダは解消できな
った。
私が1984年に発売直後のNS250R
に試乗して走らせて即判った。
「これは絶対に飛ぶ二輪」と。
スズキRGガンマ250のような
最悪ハンドリング(コーナリング
中に一切ライン変更ができず、
かつ持病のチャタリング発生。
このチャター問題は柳沢雄造氏
のアドバイス通りのセッティング
で解消。前輪に問題があったから
スズキは最初から前輪のみミシュ
ランを履かせたのだろう)では
無かったが、コーナーで寝かし
こんで行くと、あるバンク域から
急激に内側に前輪が切れ込む。
端的にいうと「危険な二輪」その
ものだった。

レーサーのホンダRS250には乗っ
たことが
無いが、発売直後に富士
のFISCOでヤマハ車でスポーツ走
行したら、累々
たる白い屍が各
コーナーに転がっていたので、

やはりフロントが急激にインに
切れ込む危険な二輪だったのだ
ろう。ヤマハTZから乗り換えた
ユーザーは軒並み転倒していた
ようだ。
あの光景は、アメリカの白い
十字架が建ち並ぶ墓地のよう
だった。
公道車NS250もまったく挙動
特性はそれだった。これはR
でもFでも。(Fのほうが
切れ込みが顕著なように感じ
た)


そうした事とは別に、見た目の
造形シルエットには良否という
ものがある。個人的な価値観や
好みと常に合致するもので
ない。人の好みとは別に独立し
た感性を引きずり出す定理のよ

うなものが造形デザインには働
く。それらを引き出す能力に長
けた技巧者が工業デザイナーや
ファッションデザイナーだ。

オートバイでは、レブルのような
フレームが「く
の字」に上から
へしゃげ折れたような
造形はダメ
なのだ。スズキGN
125とか。
アメリカンだからいいのだ、で
はない。ハーレーの造形とは似て
非なるものどころか似てさえも
いない。根本的視点とデザイン
意識の思想性が異なる。


ホンダNS250は1984年に発売当時、
世界一造形的に秀逸なオートバイ
だった。非の打ちどころがない。
こうした製品こそがインダストリ
アルデザインの良性手本だ。
デザイナーの美的センスが、WGP
の世界最高戦闘力マシンの実用
と高次に融合している。
これぞデザイン。これぞ造形。

デザインとは美術だ。

美術の美を知らぬ者は、価値観で
さえもその世界に入る事はできな
い。これは残念ながらそのようだ。
美的素養の無い者には被服の造形
美や日本刀等の表現芸術作品が
形成する美の存在にさえ無頓着
だから気づかない。
せいぜい不適合な個人的好みを
美と勘違いしてカッコいいとか
言うのが関の山だ。レブルの
ように。

建築も、家具も、ファッション
も工業製品も、造形デザインと
いうのは美術の美に属するもの
なのである。
そして、我々凡人一般人がなか

なかうまくはこなせないから専
門職のデザイナーという職業が
成立している。
これが世の中の、人の世の定理
だ。
世の中、どうやらそうなってい
るみたいだ。





この記事についてブログを書く
« カワサキの新型Z400RS(専門... | トップ |  »