かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

空想NAHAマラソンで42.195kクリアする

2021-12-13 13:35:45 | 日記

昨日は、オンラインNAHAマラソンの記録期間の最終日ということもあり、NAHAマラソンのコースを思い出しながら42.195km走る(じつは大半が歩き)試みを行った。

この大会は、2001年から2018年まで連続出場していた大会なので、一部コース変更があったものの、さすがにコースや沿道の応援風景、エイドの内容など、いやというほど頭に焼き付いているので、それらの映像や音響をときどき思い出しながら、自分に課した8時間という時間制限を楽しんだ。

また、NAHAマラソンは中間地点の平和公園から下り基調のコースとなっているが、何年走っていてもそこからペースがガクンと落ち、30キロの糸満市街地あたりからは、毎回苦悶にあえいでいたので、そんな肉体感覚も呼び起こしながら8時間を過ごした。


(よみがえった風景のひとコマ)

スタートから20キロ地点までは、YMCAの高らかな歌に合わせたランナー両手の4文字が浮かび、具志頭交差点にいたる真っすぐな道と沿道のサトウキビ畑が風にそよぎ、交差点を過ぎると耳には鉄腕アトムのバンド演奏が響いてきた。

中間地点を過ぎたら、左手に糸満沖の青いの海が現れ、いつものように私設エイドのサトウキビジュースや子供たちの差し出すアイスキャンディーやミカンの房に手が伸びた。糸満市内に入ったらチャイナドレスのオネーサンたちにシュウマイをいただき、誰かがクーラーボックスを開けて缶ビールを・・・

35キロ過ぎの登り基調の単調なコースは苦しみの極み。そんなとき私設エイドのコーラとカツオ出しのきいた沖縄そばが救いの手になり、最後まで頑張ろうという気にさせてくれた。

40キロ地点からゴールまでは、もう地獄からこの世に生還した心地で、奥武山運動公園の女子高校生のハイタッチに心を踊らされた。

スタートからゴールまで、切れ目のない沿道のヒトヒトヒトの歓声に感謝の気持ちを込めてゴールで振り返り一礼した。


ちょうど42.195(42.2k)のスクリーンショットを残したかったが、35.99キロ地点でランニングアプリがフリーズしてしまっているのを2キロ近く歩いてから気づいた。あきらめてそのまま家に帰ろうとしたが、プラスして42.2kまで歩こうという気持ちになって、暗くなるまで、さらに6キロほど歩いた。

記録は、合計42.4キロ。7時間59分31秒。自分に課した制限はクリアできた。計算されなかった2キロがあれば、もう20分近ほど時間が短縮できただろうが、満足してオンラインNAHAマラソンを終えることができた。

あとは、泡盛のロックと沖縄そばがあれば大団円だったのだが、あいにくその夜は芋焼酎のロックとクリームシチューだった。

        

                        


深田日本百名山登頂の思い出   97 阿蘇山(あそさん・1592米)

 

いつだったか、福岡空港から離陸した飛行機の窓から阿蘇の外輪山を眺め、その巨大さに驚いた。まるで九州の半分が火口であるかのような錯覚にとらわれた。

1999年の秋、大分からのレンターカーで仙酔峡までやってきて、パーキングで車中泊。翌朝最高峰の高岳(たかだけ・1592m)と中岳(なかだけ・1506m)、火口東展望所を周回している。

その後、2005年頃だったか、阿蘇の外輪山を時計の反対まわりに100k走る、阿蘇スーパーカルデラマラソンのため熊本入りした機会に、レースの前日再び中岳、高岳に登ってから阿蘇の火口を見物し、草千里浜を散策している。あのころは、100kマラソンの前日も翌日も登山していたのであり、50代になって元気いっぱいの時代だった。6月の阿蘇にもミヤマキリシマも咲いていたのを思い出している。

2019年、石垣島からの自転車による北帰行のコースは、宮崎の高千穂峡から熊本の阿蘇の外輪山をかすめて大分の竹田市に下るというものだった。

4月に入ったというのに阿蘇高森に下るトンネル道でオイラは凍えてハンドルを握る手はガチガチになっていた。早く寒い高所から離れたかったが、広大な阿蘇カルデラの中にある高森の町並みと高岳などの昔歩いた山並みを展望できる場所に自転車を止めて、しばらくは懐かしい山並みを眺めていた。

    

    

同じ日の午後、竹田の岡城址から阿蘇の山並みを眺めた。午前中あそこから一気に下って来たのだ。桜の咲く城跡から望む阿蘇の青い山並みは、遥か彼方に聳えていた。

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