今週の朝日俳壇の長谷川櫂選に「・・・・・ ・・・・・・・ 小鳥来る」とい句が一席に選ばれていたので、どうして「小鳥来る」という言葉が季語になるんだろうという疑念が生じて、手持ちの俳句歳時記を引いてみたら、「小鳥来る」は、「渡り鳥」、「鳥渡る」、「鳥雲」などと同趣の秋の季語であって、以下のとおり説明されている。(角川書店 合本歳時記 第三版)
・・・・俳句では、(秋になって)渡ってくる鳥、雁(かり)・鴨(かも)をはじめ、鶫(つぐみ)・鶸(ひわ)・花鶏(あとり)・頭高(かしらだか)・蒿雀(あおじ)などの小鳥類を渡り鳥として句を作る。春・夏に来る夏鳥は群れを成さないので、大群をで渡ってくる冬鳥類の壮観さには比ぶべくもない。
()内当方追記
秋冬に渡ってくる鳥たちが群れをなすのは、たしかに壮観で、大空に隊列をなして渡ってくる水鳥や、空が黒くなるほどの集団でやってくる小鳥たちの光景に、殺風景な冬を迎える日本人の心は揺り動いてきたのだろう。「小鳥来る」が秋の季語となっている理由がわかった。
オイラは、近所に住まう留鳥のスズメたちを「チュン太郎たち」と勝手に名付けて、12月~2月という厳冬期にだけ、ベランダに少し玄米を撒いて、悦んでやってくるスズメたちを観察しているが、彼らも秋から冬になると集団化するが、春から夏にだけ、子育てのため群れることやめる。♂は、ライバルとのいさかいなどもあって集団どころではないが、子育て後と思われる夏から秋にかけては次第にグループ化し、いさかいをするわけでもなくいたって平和に暮らしている。
夏鳥として南の国からやってくるオオルリやキビタキも子育てのために、家族以外と暮らす姿を日本では見ることができないが、おそらく、秋から南の国に渡ったら群れで暮らしているのではないだろうか。
結局、野鳥たちはパートナー探しと子育て時代に限って好戦的で排外的な家庭第一主義とやや偏屈な生活態度をみせるが、子供が大きくなったら、「昨日の敵は今日の友」、「いちゃりばちょーでぇー」と隣人どおし皆仲良く暮らしているものと思われる。(希望的観測)
「天敵からの防衛戦略」、「餌場発見機会の拡張」、「防寒対策(惜しくらまんじゅうのエナガさんたち)etc.理由はさまざま考えられるが、基本平和主義的な生き物なのだろう。小鳥たち。(と思い込みたい。)
太宰の昭和14年の作品「畜犬談・ちくけんだん」を読んでいたら、本音かどうか分からんとしても太宰の犬族に対する見下した態度にくらべ、雀族に対してすばらしい賛辞の一文を認めている。
太宰の観察眼と表現力、ただ者ではない。ちなみに「畜犬談」、作品としての評価はオイラ的にはGood!
吾妻連峰浄土平にやって来た花鶏(アトリ♀) 2019.10.7
太宰治「畜犬談」より抜粋 *青空文庫より拝借
私は、犬をきらいなのである。早くからその狂暴の猛獣性を看破し、こころよからず思っているのである。たかだか日に一度や二度の残飯の投与にあずからんがために、友を売り、妻を離別し、おのれの身ひとつ、家の軒下に横たえ、忠義顔して、かつての友に吠え、兄弟、父母をも、けろりと忘却し、ただひたすらに飼主の顔色を伺い、阿諛追従てんとして恥じず、ぶたれても、きゃんといい尻尾まいて閉口してみせて、家人を笑わせ、その精神の卑劣、醜怪、犬畜生とはよくもいった。日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人間の御機嫌をとり結ぼうと努めている。
雀を見よ。何ひとつ武器を持たぬ繊弱の小禽ながら、自由を確保し、人間界とはまったく別個の小社会を営み、同類相親しみ、欣然日々の貧しい生活を歌い楽しんでいるではないか。
思えば、思うほど、犬は不潔だ。犬はいやだ。なんだか自分に似ているところさえあるような気がして、いよいよ、いやだ。たまらないのである。
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