そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

コラム:「通過儀礼」?

2009年02月15日 | コラム
「通過儀礼」?


2008年4月27日、関門海峡を越えました。第一段階の九州の旅を終え、引き続き第二段階の本州の旅に入ります。




この17日間、いろいろなことがありましたが、特に足のトラブルについて少し書いておきたいと思います。
指宿のユースホステルを出発してから、枕崎駅あたりまでの2日間は快調でした。何ものにも拘束されず、自由に歩く楽しさを満喫していたと言っていいと思います。時として先を急ぎたくなる気持ちに対して、心でブレーキをかけつつ歩きました。「自分で自分を急かせないかぎり、誰も急かす人はいない」というのは、実に爽快でした。ザックの重量は17キロほどになっていましたが、そのかわりテントを持っていることで宿泊地の選択の幅が広がり、いざとなれば何処でも泊まれるくらいの気持ちでした。

(JR指宿枕崎線の大山駅にて)

しかし、その後、上塘池泊を変更した頃から、降雨もあり、自然と頑張って進んでしまった結果か、右足首が痛くなってきました。また、登山道を歩くのには慣れていても、アスファルトの道を歩くペースには慣れていなかったということか、両足の第2、4、5指および第1指付け根に大小のマメができました。やはりオーバーペースになっていたことによるものと思われます。はじめからマメができるのはある程度は覚悟していましたが、さらに右足第2指に血マメもできて歩くのにいささか難儀しはじめました。マメの上からテーピングを巻いたり、途中で5本指の軍足を買ってそれまでの靴下に代えたりしました。5本指の軍足は指と指の間にできるマメに対して有効でした。
しかし、加えてジンマシンまでもでてきたのには参りました。はじめは腹部から背中、大腿部に大陸状に腫れ、2~3日後に徐々に島嶼状になり、後には消えていきましたが、痒みには苦労させられました。予定外でしたが、2泊した国民宿舎の風呂で冷水をかぶるのが楽しみでした。
痛めた足首の方も依然としてなかなか良くならず、ひえピタ、サロンシップ、テーピング等々考えついた物はコンビニやスーパードラッグで買ったりして対応してみたのですが、なかなか好転しませんでした。チタンテープも効かず、足首には徐々にむくみもでてきて、熊本あたりではちょっと困った状態が続きました。
開聞岳の頃は、セーブしてセーブしてと、言い聞かせつつ歩いたつもりでしたが、痛くなってからはいくら頑張っても時速3キロ程度にペースダウン。はたしてこれで宗谷岬まで到達できるのだろうかと、しばらくはなんとも情けない気分にもとらわれました。足首にテーピングを8の字に巻き、さらに上部にも巻いて固定しやっと歩ける状態でしたが、それでも痛くて、時々足を引きずるありさまでした。「右足君、我慢我慢!」「左足君、右足君の分も頑張ってくれ!」と足に話しかけたい気持ちでした。
第7日目は米ノ津から芦北へ向かった日でしたが、早朝歩いている途中に小学生が登校してくる列に出会ったときは困惑しました。可愛い声で口々に「おはようございます」「おはようございます」と言うので、こちらも笑顔で一人ひとりに「おはようございます」「おはようございます」と挨拶をしつつ平静を装って歩くのですが、彼らが行ってしまって見えなくなると、痛さで思わず立ち止まってしまいました。とにかく、いずれはこの苦痛も懐かしい思い出になることだろう、などと考えて自分を納得させていました。
そんなわけで、熊本では、いくつか装備を自宅に送り返し、荷を軽減して急場をしのごうと考えたわけです。2キロほど減らしました。荷が軽くなって、多少は楽になったとはいうものの、痛みはその後も相変わらず続きました。
さらに、歩行途中に靴下に穴があいてしまい、熊本の登山用品店で靴下を買ったのですが、これが全く裏目にでたということもありました。両足小指にできたマメを、気持ちのゆとりがなくて放置した結果、靴下が厚すぎて圧迫したのか両足とも小指が化膿し始めてしまいました。一歩足を置くのもためらわれる状態で、地面に置いて痛くない場合と痛い場合の区別が分からず、一歩一歩こわごわ足を置くといった按配になってしまいました。
右足首はむくみはじめ、指で押しても凹んだまま戻らず、しかもだんだんと範囲が広がり、上がってきたので、むくみが膝まで上がってきたら撤退し自宅へ戻らざるを得ないかな、などと本気で危惧しました。
しかしその後は、下関で2泊して休養し、またテラマイシン軟膏の効果もあってか小指の化膿はおさまり、痛みもやや軽減しました。また、足首のむくみも相変わらずしばらくは続きましたが、無理に力を入れなければ痛いながらも歩けないわけではない状態にまで復帰しました。この後、山陰地方に入ってからは、徐々にではあれさらによくなり、40キロ以上歩ける日もかなり出てくるようになりました。自宅からも、期限付きの旅ではないのだから日程を調整しながら歩けばよいからと、メールが届いたりしました。

(関門海峡横断記念)

何か、泣き言のようなことを書き連ねましたが、いろいろ体調の面で苦労しつつも、精神的には解放されて高揚して九州を歩いたことは確かです。そして、当初の計画よりは2日ほどオーバーしましたが、景色の美しさや出会った人たちの親切や優しさに支えられ、また比較的好天にも恵まれて九州を通過しました。また、その後の山陰以降の行程も、ときどきはめげそうにはなりつつも、徐々に調子をあげて歩きだし、全体としては日程に沿って着実に進んでいくようになりました。まあ、旅のはじめの「通過儀礼」とでもいったものだったと思います。