鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

日本近代化の要因(2回シリーズ)その2

2013年09月30日 00時00分01秒 | 紹介

 1876年の明治維新から僅か五年後に「学制」を公布し、初等教育を満六歳から満十四歳までの8年とし、全ての国民を就学させることとした。国を興し、産業を盛んにするためには、教育を措いて他にないという実学主義に基づき、「必ず邑に不学の、家に不学の人なからしめんことを期す」という大方針が樹立された。その僅か三年後の1880年には24,000校の小学校が設置され、1883年には就学率は51%に達した。
 1977年現在の小学校数24,777校と殆ど変わりのない多数の小学校が100年以前に設置されたというのは驚くほかない。この背景には、鎖国政策をとっていた徳川時代に武士階級のための藩校・藩学や私塾、あるいは、町民のために「読み、書き、算盤」を教える寺子屋が全国に開設されていたという事実がある。

 教育制度はその後、幾度か改革されたが、一番大きかったのは、敗戦後いち早く六・三・三・四制を採り入れ、小・中学校を義務教育にしたことであろう。現在、小・中学校の就学率99.9%、高等学校への進学率93.1%、短大・大学(高等教育)への進学率38.3%という高率の数字は、明治維新以来、孜孜営営として累積された結果である。ブラジルのある学者が、日本人は教育マニアであるといったことがある。学歴社会・苛酷な受験戦争・学習塾の氾濫といった行き過ぎもあり、一部には強烈な教育ママがいることは確かであるが、国民の知的水準の向上に伴って、近代化が急速に進展した大きな効果も忘れてはならないと思う。

 また、維新前後には、西欧文明に目覚めた先覚者が、禁を犯して海外に渡航し、帰国後指導者となった事実も見逃せない。新島譲・福沢諭吉などはその代表的な人物である。明治政府も1870年に「海外留学生規則」を制定し、優秀な人材を官費留学生として派遣した。その後数回の改正があったが、明治年間(45年間)に海外へ派遣された官費留学生総数は719名(うち女子7名)に達した。これら帰国留学生の多くは、帝国大学の教授として、また、官界・政界の指導者として活躍した。この官費留学生制度は1921年に改正され、現在の在外研究員制度に移行したのである。

 明治時代に留学した人たちは、英・米・仏・独などの欧米諸国に派遣されたが、言語・風俗・習慣の障壁を乗り越えて、在留国の学生に劣らぬ優秀な成績を修めた者も多かった。また、残念ながら中途挫折して帰国した者も20名もいた。これら先覚者が嘗めた辛酸は、想像に難くないし、またいろいろな逸話もあるが、紙面の都合で割愛する。

 自分の先祖、広瀬淡窓(1782~1856年 江戸時代末期の思想家・教育者)の創設した咸宜園には全国から3,000人の人士が集まった。淡窓の詩に「休道 他郷多苦辛 同朋有友自相親(下略)」という言葉がある。その意味は、「文句を言ってはいけない。他国で修行するには苦労が付き物だ。しかし、学友の中には必ず親友が出来てお互いに扶けあうようになる。」留学生諸君も、日本での勉学に、また生活にいろいろなご苦労があると思うが、自国の先覚者の苦労を偲び、初志を貫徹して学びを終え、母国のために一日も早く寄与されることを心から切望する次第である。(昭和五十四年四月)(このシリーズ最終回です)

日本近代化の要因(2回シリーズ)その1

2013年09月29日 00時00分01秒 | 紹介

 この随想は母方の伯父にあたり、すでに他界しているが、戦前・戦後の動乱期を生きた文部官僚が残した文章を紹介している。既に何編かをこのブログに掲載してきている。
読者の方はどのように評価されるのか不明であるが、同種の課題が、温故知新の参考になれば幸いである。


 ようやく蕾のふくらみ始めた桜の樹下を、合格の喜びと希望に顔を輝かせながら、若人の群れが学園にあふれる。時々冷たい北風が火照った顔を横切る。その中に、期待と不安におののく瞳がある。新入学生の中の外国人留学生である。日本人学生にとっても初めての父母の許を離れての勉学に多少の不安はあるが、言葉や習慣の違う異国で勉学する留学生諸君にとっては、より以上の圧力がかかっていることは間違いない。

 現在、我が国には5,760人の外国人留学生が滞在している。そのうち76.3%はアジア諸国からの留学生である。10年ほど前、京都大学東南アジアセンターの森口教授が日本留学の動機について調べたところ、
1 日本が近代化のモデルであること
2 科学技術が優秀であること
3 欧米よりも近距離にあり、同じアジア人として人種的・文化的近親感があること
4 国費留学制度があること
5 日本留学によって、帰国後将来性がある
等が上位を占めた。

 確かに、日本は明治維新を契機として近代化に踏み切り、僅か100年の間に先進国と肩を並べるまでに発展した。しかし、その近代化の要因をつきとめなければ、近代化のモデルにはならない。その要因としては、政治・経済・社会並びに学術上、西欧先進諸国の文物制度を採り入れ、富国強兵をスローガンとして、官民一致協力したことなどが挙げられよう。
 その間、富国強兵を強調するあまり、無謀な戦争に突入し、惨めな敗北を喫したことは周知の事実である。しかし、敗戦後30年を経ずして、再び経済大国となった。この要因は何であったか。自分は、第一に教育制度の普及を挙げたい。(次回へ続きます)

キノコ狩り(2回シリーズ)その2

2013年09月28日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 1~2週間であれば茹でたキノコを小分けにし、冷蔵させると簡便に使える。
長期保存には塩蔵がよく、茹でたキノコの重さの約2割の塩を加え、良くまぶして熱湯消毒した容器に入れて冷暗所に保存する。この方法は、通常、塩蔵にはキノコと同量の塩を用いるのに比べ、3ヶ月ぐらいしか持たないが、キノコの風味を壊すことなく手軽に行え、調理にも長い時間の塩抜きを必要としない。しかし、調理によっては塩分が強いため、2~3時間の塩抜きが必要である。一般の家庭では市販している椎茸、ナメコ、ヒラタケ、エノキタケ、エリンギなどを湯通しした後、水気を切り、同様に塩を2割加えて瓶詰めにしておくとよい。
 生のキノコの汚れを取った後、薄切りにし、椎茸のように自然乾燥させてもよい。勿論、生のままでエリンギのような使い方も可能である。

 一番心配なのは知らないキノコが果たして毒が無く、食することが出来るかということである。食中毒を起こすキノコは多くあり、喩え、傘や茎が虫に食われていたとしても安全であるかどうか判らない。特定の毒素に耐性を持つ昆虫がいるからである。また、指で茎を裂ききれいに裂けるものは安全であるといわれているが、そうとは限らない。派手な色をした毒キノコは見た目で判るが、非常によく似たキノコでも毒があるものが存在する。
 イグチ科のキノコは安全であるとの言い伝えも信用できず、毒があるものも見つかっている。
 キノコの選別はよく知っている専門家に任す方が安全である。(このシリーズ最終回です)

キノコ狩り(2回シリーズ)その1

2013年09月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 秋の味覚といえば栗に松茸、それにサンマが思い浮かぶ。夏から秋への季節の移ろいは、夏が動とすると冬の静への短い狭間である秋は味覚も夏とは異なる。秋ならではの味覚は夏バテで食欲が減退していたのが、快適な気温となり、食欲が復活するためかも知れない。

 大分に在住していたときには、土日は両子山(ふたごさん)麓にあり、大分空港まで車で15分の所にある女房の実家で過ごすことが多く、良く誘われてキノコ狩りにいたものである。大分弁でキノコのことを「ナバ」といっていた。主に松が植えてある山林で、海岸の近くということだけは記憶にあるが、どの道路を走ったのか覚えていない。良く聞く話では、決して山菜やキノコの自生場所を教えないという鉄則じみたものがあるようで、数人でキノコ狩りに行ってもそれぞれが単独行動であった。

 採れるキノコといえば主にハツタケである。ハツタケは砂地等の赤松林に生え、毎年同じ場所に自生するようだ。従って、多くの自生地を知っている者ほど収穫は多い。使用する道具といえば鎌1本で、採れることを期待し、適当な籠ぐらいで特に重装備ではない。夕方になり日が沈めば薄暗い山中では方向感覚が無くなり、自分のいる場所すら特定できない。何度となく迷い、ついには道路を探し、ようやくの思いで車にたどり着いたこともあった。

 町田市にある某所へキノコ狩りに出かけた。数日前大量の雨が降ったことで収穫が期待できたが、この場所は人が殆ど入ってない広葉樹林地である。案の定、多くのキノコが自生していた。 目指すはヤマドリタケ・ヤマドリタケモドキ(イタリア語でボルチーニ)である。
 ヤマドリタケモドキはしっかりとしたずっしりと重く、大きいものは手の平大の大きさで、茎の根本にかけ下ぶくれでうす茶色の網目模様がある。スーパーマーケットのポリエチレン袋に3袋収穫した。帰宅後、早速、下処理をと思い、大きさ別に分け、傘が開き、傘の裏側が焦げ茶色に変色したものは廃棄した。まず、優しく水洗いをして根元や傘に付着した汚れを落とす。適当な大きさに切り分け、鍋にキノコにかぶるぐらい水を注ぎ、一つまみの塩を入れて沸騰させる。 途中何度か浮いてくるアクを取り除く。一呼吸置いてザルに取り、冷水につけて何度か水を換える。再びザルに取り、水気を切る。キノコには時期によって虫が入ることがある。虫が多いようであれば、切り分けたキノコを一晩塩水につけておくと虫を除去できる。(次回へ続きます)

種なしブドウ

2013年09月26日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 今年のブドウはおいしいね!我が家で収穫した巨峰のことである。数年前にインターネットで巨峰とマスカットの苗を3鉢注文し、庭に植えた一本に着いた果実である。女房の微笑む顔の理由は、以前、巨峰の種が自然に育ち、実をつけるが決して甘くなることもなく、枯れてしまったことがあったからである。収穫した巨峰は、さほど色は付いていないが、しっかりとした巨峰の味がし、甘みもまあまあであった。数日前に、ダイレクトメールでガスファンヒーターの年一度のセールの案内が来た。今までは石油ファンヒーターを使ってきたが、このところの灯油の価格上昇は、我が家の家計に響くとみえ、今年の冬はガスにしようと話していたところであった。ダイレクトメールによれば、特価品として販売個数が限定されていたため、販売店が開店する前に着くよう早朝から出向いた。目指す商品は入手でき、イベント会場で行われていたパソコンによる抽選に挑戦し、見事一等の賞品を手に入れることが出来た。因みに商品が3000円以上はすると思われる甲州とピオーネブドウの詰め合わせであった。ピオーネという品種は大粒の巨峰をカノンフォールマスカットと交配して品種改良した種なしブドウである。

 誰しもの疑問として、種なしブドウや種なしスイカはどのように世代交代するのか、種がなければ次世代はないのかということで、答えは簡単である。開花前にジベレリンという植物成長ホルモン液に果実をコーティングしなければ結実する。つまり薬剤処理によって種なしを作るのである。この薬剤を入手するには通販でも売っているが、農協に相談するのがよいと思う。種からの生長は時間が掛かるため、通常の生産は挿し木が用いられている。植物成長ホルモンは種々の果実の種なしを作るばかりではなく、果実が結実後、一定期間後に再度コーティングすることによって、大粒に成長する。施工時期については植物の種類によって異なる。
 穀物や果物が多くの薬品処理によって、大きさや見栄えが良くなるし、食べやすくなることは、品質に付加価値をつけるための手段ともいえるが、健康への影響や、更なる品質改良、防疫や作付けしやすさなど利用すべき面と多用することによって原種を絶滅させる危惧や未知のウイルス感染等のマイナス面をも含んでいる。

 植物は食物連鎖の大切な要素であり、受粉の役目を様々な昆虫が担い、バランスを取っている。薬剤による品種改良や防疫が特定種の細菌や昆虫を死滅させる。雑草駆除の目的で散布する薬品が受粉のために利用してきたミツバチを減少させている。更には外来生物の移入が我が国独自の生物環境を破壊し、絶滅した動植物も多いと聞く。何を優先させるかはその時代の人々が決めることではあるが、メリットだけを考慮し、安易に利用することの結果が、時代を経ることによって突如として発生する危機までをも予想することは、人知では不可能なことも多い。種なしブドウを食しながらふと頭を過ぎった戯言である。

戦争の実体験 回れ右!

2013年09月25日 00時00分01秒 | 紹介

 見習士官に任官して三ヶ月経つと将校勤務となった。山型の階級章を付けても、准尉よりは下位であった。中隊本部の長は曹長だったため、あまり気を遣うこともなかったが、他中隊の准尉には、演習の往復に出会ったときは、部隊敬礼をしなければならなかった。
 街中でも上官に会えば、部隊敬礼をする。区別がつかないのは、兵科の将校と主計・法務・軍医将校である。自分は近眼で階級章まで区別がつかなかったため、目の良い班長をいつも先頭においていた。お陰で欠礼することがなかった。

 六月中旬、少尉任官を間近にしたある日、初年兵教育が最後の追い込みに入ったので、教育訓練のため演習場に出向いた。各個戦闘の訓練を実施しているとき、ある兵の銃口を見ると何か白いものが見えた。よく見ると砂除けのため、塵紙を丸めて銃口に詰めていたのだ。日頃から禁止していたので、「こら!暴発したらどうなるか判っているだろう!」とその兵を初めて殴ってしまった。自分は初年兵のとき、教官・班長。上等兵からよく殴られ、その口惜しさが身に沁みていたから、教官になったら、絶対に兵を殴るまいと決めていた。にもかかわらず、そのとき、禁を破って殴ってしまい、後から殴るのではなかったと反省した。

 その日の訓練を終わり、帰営の途についた。街中では一度、香林坊付近で、将官旗をつけた乗用車に会っただけで、無事営門に入った。第一大隊から第二大隊への坂を登り始めた頃、既に時計は五時を回っていた。坂は入浴の往復の兵隊達でゴッタ返していた。あと僅かで中隊に着く直前、「コラッ!欠礼するのか!」と怒鳴り声が飛んできた。よく見ると坂の上の門柱の陰に隠れて、十中隊のF准尉が立っていた。陰険な奴だと、思ったがもう遅い。「そこの見習。もう一度坂を上がって来い。」という。沢山の兵隊達の前で恥をかかされたが、准尉といえども上官には違いない。部隊を坂の下まで引き返し、再び坂を登る。
途中から軍刀を抜いて「歩調取れ、頭っ右!」とF准尉に部隊敬礼をした。准尉は薄笑いを浮かべながら、「今後気をつけろ!」といった。後僅かで地位が逆転するのを知りながら、敢えて自分に恥をかかせたのだ。こんな屈辱は初めてであった。

 十中隊では、同期の三人の見習士官がこのF准尉にいつも煮え湯を飲まされていたらしい。7月1日見習士官から少尉に任官した日に、F准尉が三人の新品少尉に欠礼したらしく、三人で思う存分に殴り、日頃の鬱憤を晴らしたということであった。

戦争の実体験 鬼教官

2013年09月24日 00時00分01秒 | 紹介

 初年兵教育の訓練時は、よく往復駆け足をした。自分自身、初年兵当時は駆け足が苦手で良く落伍したが、初年兵・集合教育及び予備士官学校での訓練のお陰で駆け足も苦にならなくなった。駆け足は、兵を強くするためであった。雨や雪の日は、日課を変更し、学科・精神訓話あるいは体操に振り替えるのが普通であったが、検閲が近づくと教育計画をこなすため、雨の日でも雪の日でも演習に出かけざるを得なかった。

 ある雪の降りしきる日に、連隊から四里離れた安原の海岸まで演習に行った。午前の訓練が終わり、昼食のため午後一時まで小休止した。雨や雪の日の休憩は、民家の軒先を借りるが、激しく降る場合には民家の厚意で暖炉裏端を使わせて貰うこともあった。その際、たとえ酒を出されても、演習中ということで絶対に口にしてはいけなかった。

 午後一時近くになって、「集合!」を掛け、兵の整列を待つ。やや遅れて、班長や上等兵たちが赤い顔をして、ふらふらと集まってきた。教育に当たる班長達が禁を破って酒を飲むとは何事だと、さすがの自分も怒った。「貴様!酒を飲んだな!」と怒鳴ると「申し訳ありません」と口先だけで謝る。「こんな状態では訓練もできん。これから帰営する。T上等兵、落伍者を拾ってこい」と命令し、安原から連隊まで四里の道を駆け足で走り始めた。

 その理由の第一は率先垂範すべき教育係が酒に酔っていること、第二は吹雪になり積もる雪のため帰営が遅くなる恐れがあることであった。兵隊には罪はないが、致し方ない。先頭に立って走るが次第に隊列が崩れる。速度を緩めて、皆がついてくるようにし、中間点付近では休憩。10分後に走り出した。もう直ぐ市内に入る。隊列を整えながら走る。
兵隊達は歯を食いしばって頑張っている。香林坊を通り、尾崎神社から黒門通りを経て、あと、二~三百メートルで営門というところで落伍者が続出した。営門を「演習中!」といって走り抜け、三中隊前に到着した。自分に従ってきた兵は三分の一の20名位になっていた。予定よりも早く三時過ぎに帰営できた。落伍者を待って、「本日はご苦労。ゆっくり休め」と労いの言葉をかけ解散した。

 あとで同僚の見習士官から聞くと、営門前の店の人たちが「あの教官は鬼教官だ」といっていたそうだ。本音は営門通過を心配して行ったことであったが、連隊でお咎めはなく、過去の出来事で済んでいる。